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一話 八月某日

八月某日。暑い夏真っ盛りなこの時期に、外に出るのは最も恥ずべき愚行だ。それも外に出て人と話すことは俺のこの貧弱な精神への会心の一撃となり得るので、もってのほかだ。


と言って、俺は何かしら理由をつけて外に出ることを避けているのだ。時期で言えば今日は高校二年生の夏休み最終日。人間と話すのは怖いし、前述した通り外に出ると溶けるのでこの一ヶ月強は誰とも会っていなければ、どこにも行ってない。例年通り、孤独の夏休みだ。元々あまり学校にも行っていなかったため、二学期はなるべく登校しないと出席日数が危うい。そう少々意気込みつつも、変わらず惰眠を貪っている自分が少し滑稽に見えてきた。少しは動くかと多少腕に力を入れようとした時、うまく力が入らずに布団の上にボフッと音を立てて体が倒れた。

まだ寝ぼけてるな・・・。


と自分にため息をつきつつ、今度はしっかりと腕に力を入れて立ち上がる。

そういえば、少し喉が渇いているような気もする。襖を開いてリビングへ続く廊下を歩く。

まだ少し眠たいのか、少し足取りが重たいのを感じながら、無駄に長い廊下を歩く。

ふと、廊下の間にあるうちの広い庭に、一匹見慣れない猫がいることに気がついた。うちには既に猫が三匹いる。最初に来たやつの

名前はミア。純白の毛色を呈した透き通った白猫で、目の色は緑色。ぴんと座っているときには、人形かと見間違えそうになる程美しい毛並みを持っているまだ幼い子猫だ。最初に放った鳴き声が「ミャア」に聞こえたのでミアになったのだそうだ。


次に来たのは黒猫のメイ。目の色が淡い赤色と珍しかったのでつれてきたらしい。こいつは全然人になつかなくて無愛想な猫だ。おいでと手招きしても来たためしがないので、メイは一番警戒心が強いと言える。名前の由来はこいつが来た時は五月だったかららしい。


一番最近来たのは三毛猫のコロン。こいつが来たのはほんの数日前で、どうやら捨て猫だったらしい。そこから妹が世話をして今となってはこの三匹の中で一番のお転婆だ。よく食べ、よく遊び、よく寝る。人なつこくて気まぐれなところもあるので、ある意味こいつが一番猫らしいかもしれない。由来は知らない。妹が勘でつけたらしい。


しかし庭にいるのはミアでもメイでもコロンでもない、黒い斑点のある白猫、ぶち猫だ。

このぶち猫は庭にある木が気になっているらしい。木の下から前足の爪を木に引っ掻いてなんとか登ろうと上を見ているが当然登れるわけがない。それに、猫には何が見えているのだろうか。本当にそこに何かがあるのか。それとも猫にしか見えない何かが木の上にあるのだろうか。まあ、どうせ蝉かなにかだろう。現に、まだ蝉の声は五月蝿く響いていて、それは陽炎に跳ね返り、また遠くへ響く。

まだ夏なのだと、少し嬉しくなった。

だいぶ眠気も覚めてきた。そろそろリビングに向かおうと顔を庭から逸らし、歩を進めようと脚を前に出す。


「おはよーお兄ちゃん」

「うおっ」


そこには赤い大きめのTシャツにハーフパンツという随分と軽めな格好で妹がアイス片手に立っていた。あまりに突然声をかけられたので驚いて声が出てしまった。

「随分外を見てたね。何かいたの?」

「いや、猫がな」

「猫?」


そういって妹と庭の外を見た。


しかし、そこに猫はいない。


「寝ぼけてるんじゃない?」

「逃げただけだろ」

この一瞬の間に猫は逃げたらしい。やっぱり、猫は俊敏だ。そう思いながらいると、妹はこちらに向き直る。

「そっか。ていうかご飯、ちゃんと食べてよ」

「わかってるよ」

「そう言っていつも食べないくせに」

「うっせ」


悪態をポツリとついて、また長い廊下を渡るのかと内心げんなりしつつも、やはり空腹には勝てないのでリビングに爪先を向ける。


妹はこの八月に、十五歳になる。この夏休み中ずっと受験勉強であまり顔を合わせることはなかった。お兄ちゃんと一緒の高校に行くとなぜか意気込んで、今まで以上に夏休み中は励んでいた。うちの学校は一応進学校だ。多分、相当頑張らないといけなかったのではないだろうか。そんな感じで、この夏休み中は妹とはあまり接点がなかったから、妹と話すことが妙に懐かしく思えた。


「・・・何?」

「いや、別に。久しぶりに話したなと思って」


自分の前を先導するように歩く妹は、俺に対して異様に睨みを効かせてきた。少し感慨に浸っていただけなのに、あそこまで睨まれるとやはり理不尽を感じざるを得ない。まあ、そういう年頃ということだろうか。

そうやって少しばかり肩を窄めていると、こちらを振り返らずアイスを口に咥えたまま妹は俺に言う。


「そりゃ、中三の夏なんだから、勉強して部屋に篭るなんて、別に対して変わったことはないでしょ。けど、もう夏休みも終わっちゃうから、ここからは本格的に受験期って感じになりそう。だから、もっと話す時間は少なくなるかもね」

「そっか」


そうか、こいつも大変なんだな。俺には特にこれといった苦労はないし、強いていうなら少し進級が危ういことくらいだ。まあ充分危機的な状況ではあるが、それをわかっていても実行しようとは思わない。努力なんて報われないことは俺は痛いほど知っているからだ。だから、俺はこいつに、俺と同じことにはなってほしくないと願っている。


俺は、努力をしたことがない。


高校だって雰囲気で入ったし、進級だって雰囲気でできた。俺に努力なんてものは必要なかった。故に、努力をしたことがない。


たった一度。たった一度のあの夏だ。俺が努力を知って、それがあっけなくぶち壊された経験が、今もなお俺の一歩を阻んでいる。



「・・・お兄ちゃんは、もう剣道はしないの?」

「・・・っ」


声が出ない。息が詰まったような感覚に襲われる。嗚咽の混じる声とポタリと落ちていく汗の一滴を見て、途端にあの時のことを思い出した。


中学最後の大会。今日のように、煮えたぎるほど暑い、八月某日の全国大会。今まで俺がしてこなかった努力をその三年間、取り返すかの如く必死にやった。そこそこ成績も出てきて、たちまちこれまでの大会では無敗を誇る有名選手となった。

死に物狂い。これまでやってこなかったことに必死に噛み付くかの如く俺は死に物狂いで竹刀を振り続けた。


「神宮寺ぃ、いつまで自主練してんのさ。そろそろ帰ろうぜ」

「そうだよ蓮。そろそろ帰ろうよ〜もう夜の七時だよ?僕お腹空いちゃった」


木下と東。俺の数少ない友人だ。同じ剣道部に属しており、この二人も、同じようにこれまでの大会では良い成績を残している。


木下は、なんというか面倒見のいいやつだ。友達も多く、彼女だっている。まさに充実した中学生って感じの男子だ。


東は、もはや女に近い男だ。とてつもなく女子力が高く、なぜか男子からの人気が高い不思議なやつ。でも、こいつはなかなかに頭の切れる男だ。いつだってテストは高得点をとり、運動だって考えてやるタイプのやつだ。


とにかく、二人は俺なんかよりも才能があって、俺なんかよりもいい奴らで、充実した奴らだ。

そんな奴らと肩を並べることがどれだけ心強かったかしれない。

あいつらの心配が、どれだけ嬉しかったかしれない。

しかし俺はそんな奴らを突き放すのように無視し、ただ握っていた竹刀を手放すことはしなかった。

それがどれだけ罪深いことだったか、自覚したのは最近のことだ。


大会前日の朝。いつも通りの通学路を歩いて、いつも通りの用意をして、いつも通りの席に座る。今日はなんだか周りが静かだ。

いつものあの二人と話していないからか、そんな気がした。それになんだかクラス中の空気が少々ピリついている気がする。

なぜだろう。少々困惑しつつ周りを横目で見ていると、聞き馴染みのあるぶっきらぼうな声が耳に飛び込んでくる。

木下だ。

「・・・おはよ」

「お、おう」

なんでこんなに気まずそうなのだろうか。彼女と別れたとか?まあそんなところだろう。俺にはその苦しさはわからないが、きっとそれだけ苦しいのだ。仕方ない。俺なりの励ましをしてやろう。

「おい、彼女と別れでもしたか?大丈夫だよ、気にすんな。また次がきっとあるって」



そう言って改めて顔をみた瞬間、俺は見たこともないほどの激しい剣幕を浮かべた木下に襟元を掴まれて壁に叩きつけられた。

「ふざけんなよ。冗談言ってる場合かよ!お前だって知ってんだろ!東のこと!」

突然の怒号に、教室が騒然とする。俺もどういうことかわからなかった。こいつがこんな表情をするのは見たことがない。こんな泣きそうでぐちゃぐちゃになったような顔。

それに東のこととは何のことだろうか。俺は何も聞かされてない。まさかあいつに何かあったのか?

「お前・・・もしかして知らねえのか?」

俺は無言で頷く。

すると襟元を掴んでいた木下は突然脱力したように床へ落ち、ポツリと言った。



「東が、死んだ。」



その瞬間、木下は途端に涙を堪えるように、下唇を噛んだ。

「・・・あいつが、死んだ・・・?」


意味がわからなかった。東が死んだ。どういうことだ?あいつが死んだ?

あんなに才能のあったあいつが?

あんなに笑っていたあいつが?

あんなに元気を与えていたあいつが?

「嘘、だよな」


「自殺だってよ。あいつはずっと前から虐待にあっていたらしい。そして俺らがあいつの唯一の心の支えだったって。明日学校へ行くことが楽しかったのは、俺らのおかげだって、あいつは遺書で言ったんだ」


「遺書・・・?なに言って」


木下は一枚の紙を半分投げるようにして俺に渡した。


しばらく読むと、木下が言っている通りのことが書いてある。一言一句違わず、俺たちのことが書かれた一文は確かにそこにあった。



『唯一の友達だった』



「・・・本当に・・・死んだのか・・・?」

問うても返事はない。代わりに木下は虚な目で俯くだけだった。

どうやら本当らしいということは、その目を見てはっきりとわかる。

それを理解した瞬間、尋常でない程の冷や汗と嗚咽が俺の体を支配した。

身体中が吐き気で疼いている中、木下は勢いよく立ち上がり俺に向かって言い放つ。


「もしも、あの時三人でいつも通り帰れていたら、あいつは生きてたかもしれねえ。俺たち言ったよな。帰ろうって。けどお前はどうした?無視したよな。あん時の東の顔をチラッとでも見たか?  見てねえだろうな。だってお前は竹刀を振ることに夢中で」


「黙れ!」


気づけば、叫んでいた。今まで出したこともない怒鳴り声が、喉の奥から空気を無理やり裂くかのように、教室中に木霊する。

静寂。とげとげとした教室内の空気が、まるで自分を敵としているかのように痛い。溜まっていた吐瀉物が一気に胃の中にストンと落ちた。そして、床に一滴、水滴が落ちる。


こんな時でも汗はかく。今日は猛暑日らしいから、溶けそうになる体に、暑さからくる汗が滲むのは仕方ない。

なのに、手が冷たい。いつにも増して汗が多いような気もする。

視界になにも映らない。ぼやけた風景だけが、陽炎のように揺蕩う。


ポタリ、ポタリ。


汗の割に大粒な水滴が二滴、床へ落ちる。


耳鳴りがしていてよく聞こえないが、どこかで誰かが汚くえずいている。

木下は泣いてはいないらしい。ただ変わらず、虚な目を浮かべたままそこに佇んでいるだけ。


じゃあ誰が?



ああ、そうか。


これは俺だ。


落ちていっているのは汗じゃない。俺の涙か。汚くえずいているのは、俺だ。ああ、醜い。


「お前が、殺したんだ」


少しずつ晴れ始めた耳鳴りの片隅で、木下は俺の目を見ることなくそう言った。




俺があの時、竹刀を手放してあいつらと帰れていたら、何か状況は変わったのだろうか。

俺があの時笑いかけていれば、あいつも笑って俺たちといつものように飯を食いに行ったのではないだろうか。


朝目覚めるたびそんなことを考える。それから暫くして、俺は学校へ行かなくなった。


怖かった。木下、あいつの顔を見るのが。

怖かった。当時何よりも握っていた竹刀を握るのが。

怖かった。学校に言った時、俺はみんなにどんな表情で見られるのか。


何もかもが怖い。人が怖い。物が怖い。言葉が怖い。


怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。


                          ✳︎


「────お兄ちゃん?」


ふと、妹の心配そうな声が耳に飛び込んできた。

再び現実へ引き戻されたような感覚がした。見ると俺は尋常じゃないほどの汗を寝巻きに滲ませている。びっしょりと濡れた衣服を気にすることもなく俺はただ未だに額から落ち続ける汗をぼーっと見つめることしかしなかった。


気づけばリビングにいる。


「ちょっお兄ちゃん汗かきすぎ!もー床まで濡れちゃってんじゃん・・・自分で拭いてねこれ」

まったく、と言って冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。


とりあえず、俺は汗を拭こうと椅子にかかってあったバスタオルで首周り、背中、額を拭いて、取り込んであった乾いた洗濯物の中から自分のTシャツを探して着替えた。


「俺も麦茶飲む」

「自分でつぎなよ」


ちっ、冷たいやつだなと心の中で舌打ちをしつつ、俺はキッチンへ向かう。

同じようにコップを取り出して麦茶を注ぎ、それをグイッと喉に流し込むと、途端に体が生き返るような心地になる。

やはり寝起きの冷えた麦茶は美味い。


それに呼応するように、グウと腹の音が鳴った。


そういえばと思い机を見る。そこには妹が作り置きしてくれたであろう料理の皿が一枚置いてあった。

卵焼き、ウィンナー、ふりかけの乗った白米。

なんとも朝食らしい献立だ。それらは全て一枚の皿の上に乗っていることから、洗い物を増やさないようにという思惑が感じられた。


椅子に座り箸をとって卵焼きを一口。やはりうちの妹は優秀だと改めて思う。ちょうど良い塩味の効いた味付け。俺の好みをわかっているらしい。箸が進む。二口目は米と一緒にかきこむ。塩味が効いているだけに米と合っている。当然美味い。


次はウィンナーを掴んで口に運ぶ。一度噛むとじゅわっと肉汁が広がった。塩味と旨味が口内に満ちて、俺は思わず目を見開いた。

引きこもり始めてから今日まで母親の晩飯とたまに食べる昼のカップラーメンだけしか腹に入れていなかったからか、こうしてちゃんとした朝食を食べることがいかに重要なことなのか思い知らされた。


そう考えているうちに、完食してしまう。腹が減っていたから、文字通り朝飯前だ。

さて、今からなにをしようかと皿を洗い場に下げながら考える。

今日は何かといつもと違うことが多くある日だ。いつもは見ない猫も見た。いつもは会わない妹と久しぶりに会った。

ふと足元でモゾモゾと何かがうごめく感覚がしたので足元を見る。


「・・・ミア」


これもいつもとは違う。なぜか俺はミアに懐かれない。妹の膝には乗るのに俺の膝には乗らない。妹が呼んだら近寄ってくるのに、俺が呼んでもそのまま寝ようとしてこちらには来ない。

そんなミアが今日は足に擦り寄ってくるなんて、やはり今日はいつもとは何か違う。


窓の外を見る。

相変わらず暑そうだ。よく遠くを見据えると陽炎が舞っていた。蝉の声がうるさく、日々聞こえる日常音ですらかき消されて聞こえない。ここは一緒で、いつも通りらしい。


「今日は暑そうだな」

「ミャアオ」


一度撫でるとミアはそうやって鳴いた。

「・・・散歩でも行くか」

「ミャア」

今度は嬉しそうに答えてくれた。どうやら正解らしい。

しかし、なんとも矛盾している。寝起き際、俺は外に出ることが愚行だと言っていたのに、こうやって猫にねだられただけで外に出る気になってしまうとは、猫とは恐ろしい生き物である。

俺は手早く散歩の準備を済ませ、玄関へと向かう。こうしていると、ふと俺がなぜか外に出ることを楽しみにしていることに気が付いた。どうやら俺は、まだギリギリ腐ってはいないらしい。


「うし、行くか」

「あ、ついでにシャー芯買ってきて〜」

靴を履いて外へ出るあたりで、突然妹にそう言われた。正直面倒臭いし、なんだか癪なので、気分次第でということにしておく。


「はいはい」


と適当な二つ返事だけして俺は横開きの扉を開けて玄関を出る。

途端に汗が噴き出た。想像以上の暑さだ。真夏の太陽は身体を余すことなくジリジリと照らし、変わらず鳴く蝉の鳴き声が鼓膜を激しく揺らしてくる。もうミアは先へと進んでいて家に取りに戻ることはできなくなってしまったので道中で何か飲み物を買おうと、早くも溶けかけた脳で思った。


猫は身軽だ。俺を置いてズンズンと気の向くままに歩く。なにを思う訳でもなく、なにを考える訳でもなく、時に足を止めたり、走ったり。俺はそれについていっているだけで、猫の進路を無理矢理に変えたりはしない。

そうやって、歩いている。ただひたすらに、どこを目指す訳でもなく、歩いている。今だけは、猫と一緒だ。あれほど暑かった日差しも、さほど気にならなくなっていた。片手に持つペットボトルも、今はもう少なくなっていて、ぬるい。


スマホの画面を見るとどうやら今は一時過ぎ。いつの間にか昼を過ぎていたらしい。そろそろ帰るかとさっきまで通っていた交差点に足を向ける。


「そろそろ帰るぞ、ミア」


呼びかけても返事はない。気になってミアの方をチラリと見る。


するとミアは横にある一本の木の上をじっと見つめていた。特になにがある訳でもないのに、そこだけを吸い込まれるように見つめている。届くはずのない何かに手を伸ばす。バランスを崩して倒れそうになっても、諦めずに手を伸ばした。


一体なにが見えているのだろうか。

蝉は近くでは鳴いていないのに。

やはり猫にしか見えない何かがあるのだろうか。

綺麗なエメラルドの双眸が、キラキラと宝石かのように輝いている。


ミアのそんな瞳に、どこか見覚えがあった。


上を目指して手を伸ばして。倒れそうになってももう一度やり直して。目に見えない何かを縋るように見つめて。その先にある不明瞭な希望に辿り着けるようにと、必死になって登ろうとする。



────そうか、これは俺だ。あの日の、死ぬほど憎んだ竹刀を、死ぬほど握っていたあの時の俺だ。


「・・・ははっ」

なんだかおかしくて、笑った。何がかは俺にもわからない。けど、笑えた。


俺は、やはり腐っている。

俺はお前を殺したのに、諦め切れてねえんだ。剣道を。努力が砕けたのが、悔しいんだ。

もう一度、竹刀を握りたい。もう一度、あと一度だけ。だけど、俺には許されないことなんだ。


そうだろ、東。憎んでるよな。謝っても遅いことはわかってる。けど、俺は進みたいんだ。だから────


『────いいよ。

      僕はもう、許してるんだから』


あいつの声。確かにあいつの声がした。

俯いていた俺は前を見た。


「・・・猫?」


ぶち猫。今朝見た、黒い斑点のある白猫が、こちらを見つめてそこに立っている。何を言うでもなく、茶色い瞳でこちらを見ているだけ。その凜として、どこか頼りない立ち姿には、どことなくあいつに似ている気がする。


「そっか。会いにきてくれてたんだな」


「ありがとう、東」


俺が笑いかけると猫は背を向けてどこかへ走り去っていった。まるで役目を終えたかのように。


「んじゃ、そろそろ俺らも帰るか。ミア──」

そう言って下を見る。


しかしミアは、そこにはいない。首輪だけがアスファルトに転がって、ミアの姿は消え去っている。

周囲を探そうと首輪を手放して、後ろを振り返る。



しかし驚いたことに、そこに横断歩道がない。



「なん・・・だよ、これ・・・」



横断歩道なんてものはない。猫なんてものも見当たらない。木だって、さっきまであった場所には存在しておらず、代わりによくわからない身長ほどの鉄柱が刺さってあった。

その鉄柱は、俺が見たことのない鉄柱だった。電柱じゃない。信号機でもない。

中央部に、よくわからない青い光線が灯ってある、やけに近未来的な鉄柱が、いつの間にやらそこに立ってあった。



これは一体何なのだろうか。


俺が渡るはずだった横断歩道は、下から白い明かりの灯った奇妙な道へと変わっていて。


横断歩道の左右、車道であった場所にはまたよくわからない鉄柱が何本も並んでいる。


そしてその正面。その景色に俺は絶句した。


「・・・鎧、か?」


そこにあったのは、いやに神秘的で、それでいてどこか勇ましい雰囲気を携えた巨大な鎧のようなものが、大きな円盤の上に仁王立ちするような格好で置いてある。と言うより、祀られているようにも見える。どれをどう見ても、何が何だか分かりはしなかった。


「ここ、どこだよ」


一言で言い表すならば、そこは未来都市。日本人、否、人類が夢にまで見て辿り着けなかった空想を体現したような世界があった。

その光景を前にして、俺は思う。





                      

                    ここはまるで、異世界だ。

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