②ー12焦りと渇き
②黒の団と舞踏
12 焦りと渇き
嫌だ…
陽の明かりも感じない真っ白で薄暗い霧の中で、自分の影は黒く濃く足元に落ちる。そこから次々と湧いて出てくる人型に成形された影たちが、体に縋りついてくる。
「離れろ!」
斬っても斬っても、終わりのない戦いで、不安な気持ちを振り払うように声がでる。影たちは口々に言葉を発してはいるが、会話にはならない。ただ一方的な負の感情を押し付けてくる。
足元から新たに生まれた影に足を捕られる。
体勢を崩したところに、影たちが覆い被さって来る。その手が体に食い込むと、痛みより先に、感情が流れ込んで来る。
どうして…、
なんで…、
悲しい…、
寂しい…、
嫌だ…、
僕が弱いから。力があれば…。どうしようもなかった。嫌だ…。嫌だ!
「嫌だ…」
影たちの体は重みを増しながら溶けていく。その泥に押し潰されながら、ゆっくりと、地面の下へ流れ落ちて、溺れる。不思議と心は軽くなった。もういいんだ。どうしようもなかったんだ。頑張って頑張って、それでも、無理だったじゃないか。大切な人一人、護ることもできやしない。足りないんだ、僕ひとり努力したところで…。身体が流れ落ちるのと引き換えに、黒い泥からは影よりも濃く、はっきりとした人型が、幾人も立ち上がっていく。地面に埋もれると、その黒い人形たちの重苦しい足音が響いた。何処へ向かうのだろうか。僕には関係のないことか。ゆっくりと目を閉じる。
どすどすと、耳障りな音たちが広がっていく。その度、自分が踏みつけられているのが分かる。役立たずの僕が…。もう眠ってすべて忘れよう…
ガチャッ
遠くで甲冑の足音がした。その音で目がさめる。
金属を鳴らす確かな足音は、軽やかな足取りで、こちらに走って近づいてくる。
泥で見えないが、足音は頭上までくると、強く踏み込んでステップを刻む。身体にのしかかる重みが減り、泥から押し出されるように浮かび上がる。
濡れた体を起こして、目をこする。霞んでよく見えないが、泥人形と、誰かが戦っている。
騎士の甲冑を身につけた人物は、背中のマントを翻しながら、剣を振るう。こちらに背を向けているので顔が見えない。ぼやける視界で分かるのは、流れるような華麗な剣技と、剣。その剣の特徴的な流線型の装飾に見覚えがある。ドワーフエルフの魔具職人、“ウル・ク”を組み上げたドワーフエルフの部屋に飾られていた騎士剣だ。
騎士によって斬り倒されると、また地面から次々と影が湧く。それをものともせず、騎士は次々と斬り捨ててゆく。加勢しようと膝に力を込めるが、泥の地面に足をとられる。動こうとするほど体は再び泥に埋もれてしまう。沈んでいく中で、騎士が口にした魔術の断片が聴こえる。
「…往にひとつ、返るはふたつ…」
流麗な剣技が風を切る音と混じり、彼の言葉は聞き取れないが、泥に呑まれる間際、最後に一瞬だけ振り返って僕を見たような気がした。記憶にないその顔は何を伝えるでもなく、向き直ると影たちの方へ進んでいった。
目を覚ますと、一面雪景色だった。
だるい身体を起こして、あてもなく進もうとすると、どこからともなく温かい匂いがした。トバリが淹れてくれた紅茶の香り。ボヤける頭にようやく考えが浮かぶ。そうだ、みんなのところに帰らないと。
雪道に足をとられながら進むと、ボロ衣をまとった子供が歩いているのが遠くに見える。近づこうとすると、黒い影に掴まれて傷だらけになった両足が痛んだ。
一歩進み、よろめくたび、強く踏み込んで身体を起こす。
「一緒に行こう…」
声をかけると、その子は泣き腫らした目で僕を見つめた。
「…どこへ」
白雪のしんとした静寂に消え入りそうな声を呟く。
「わからない…。でも、温かいお茶が飲めるところ」
「そんなのいらない」
「どうして?」
「意味ないもの」
「意味か。確かに意味はないのかも」
僕にできることなんて、ないのかもしれない。それでも、
「とりあえず、お茶を飲もう。それからゆっくり、何をするか考えたらいい」
少女は懐疑的な瞳に僕を映す。
「考えて、やってみて、ダメなら、また考えたらいいじゃん。ゆっくり、自分のペースで」
「わたしには遅すぎる」
「そんなことないよ。ここからまた、始めたらいい」
少女は少し考えると、そっと僕の服の裾をつまんだ。
「行きはひとり、帰りはふたりだね」
「なぁに?」
「何だっけ、誰かが…言ってた…」
気が抜けたのか、その場に倒れてしまう。
「まったくこまったヒトです。ひとのこととなると自分の事なんてお構い無しなんですから」
少女の姿はなく、身なりの整ったメイドが代わりに膝をつく。
「ご一緒いただけますか?ご主人様」
悪戯に微笑むトバリの顔は、どこか嬉しそうだった。
「お、来ましたね」
緑の迷路の終着地、庭園の中心部。独特な流線形の装飾が施された椅子とテーブル、その上にはティーセットにお菓子。突如として現れた小さなガーデンパーティの会場は、白い天蓋に覆われており、中でティカップを傾けるひとりの人物の表情までは窺い知れない。
トバリは、背負ったアルクが異常なく眠っているのを確認すると、そのエルフに向き直った。
「今日は不思議な日。パギの魔術からこんなに出てくる人がいるなんて」
エルフはカップを置くと、傍に置いたノートに絵を描き始める。
「今日のことも記録しておかないと…」
天蓋の中でも、大きな帽子をかぶっているようで、日影の奥でひさしを持ち上げて、こちらを観察する瞳がちらりと光る。
「ここにくるのには、少し早かったみたい」
遠くで鳴った轟音が、微かにここまで響いてカップの水面をゆらす。
「またいつか、待つのはなれっこ。ペン先で揺らす行灯の影。絵物語が誘う五日の夢」
なめらかな語り口に、途中までそれが魔術の詠唱と気がつけなかったトバリが、攻撃を警戒してその場で構える。しかし、すでに空間は歪みを生じ、急速に遠ざかる風景は、まるで額にはめ込まれた一枚の絵画のようにみえた。
三人のエルフの一人、コルは、その絵の中でやさしく微笑んだ。




