⑧ー8足掻き
8 足掻き
一瞬だ。一瞬。
戦闘で敵と相対した時の、防衛魔術のくぼみや、次の行動へ移る際の隙。
打ち込んだ拳で、こちらの重量と相手の正中線とが衝突する際。
ジン・グレンの刀の刃紋に光る命の線。
魔力に魔具が、あるいは体が、肌が触れたとき、極限の薄さで膜があって、破れるように瘴気が生じる。その最小単位の膜は瘴気になるわけだが、逆に言えば、それ以外の何物にもならないし、もしかして何ものにも破れないんじゃないか、という仮説。
実証するにも、その結果の先に実用がなければならない。ということで、とにかくまずは…走る!
僕は古城の玄関前の路を、ひたすらに走っている。
瘴気が生じる一瞬のインパクトにかけて、まずはそれに乗ってみようという目論見だ。走る、走る、跳ぶ、踏み込む!
人族は基本、魔具を介在させてそこに魔術を顕現するが、ガラーのレノエルフは肌の入れ墨に魔術構文を刻んでいたし、アズマの五行魔術は体に纏うように使われていた。魔族のように肉体そのもので魔力を扱い、肉体に魔術を顕現することはできないにしても、肌表面に魔術を這わせるようなことはできるらしい。
タローさんから受け継いだ勇器であるウルフでしか魔術は使えないものと思っていたが、借り物のエルフの騎士剣でも瘴気を出せることに気が付いたことで、思い込みから脱することができた。ヒョウエがサポートしてくれて瘴気を扱ったとき、あのどろどろとした瘴気は剣だけでなく全身から生じていた。
現に今、意識を集中して空気中の魔力に触れようとすると、一瞬の一瞬に、魔力が瘴気になる手触りがある。気がする。
それを手で掴め。あるいは足で踏め。と、行ったり来たり、走っているのだ。
その様子を、玄関窓の拭き掃除をしているイエンだけが見ている。
「あれはいったい、何をしてるんすか?」
メイドさんの仕事を手伝っているヴァネッサが、通りがけにイエンに問う。
「まったくわけのわからないことを、さっき聞かされていたところだ。トバリさんが来るまではそっとしておこう」
走れ、はしれ。じゃなかった、踏め。瘴気を踏め!
夕方。誰か、できればイエンあたりがよかったのだが、皆どこかへいってしまった。今日一日、みんなそれぞれ城での暮らしや仕事に勤しんでいたのに、僕だけ一人、取り残された感じだ。全身の疲労感と、汗と瘴気がないまぜになったような匂い。
「にゃー」
夕景に、虎姫がじっとこちらを見て鳴く様は、初対面だったら絶望する怖さがあって、ちょっと鳥肌が立った。でも今は、猫の手でも借りたい。手招きして、事情を説明する。
「旦那ぁ、ほんとにやるのか?てかげんできないにゃ~」
毛皮の表面で静電気のように起こる魔術を、腕を振って、振り落とそうとしている。本当に魔術を感覚的に扱っているんだな。今はそんな些細なことでも学びになる。
「いいよ。やってみよう」
腰に差していた騎士剣を抜き、逆刃に構える。魔具から、全身へ。意識を拡張するイメージ。
「ぬぐぅ…」
虎姫は両腕を前に出して、魔術の発現を抑えようとしている。
「いいって。これでだめなら、そこまでの男だったってことだよ」
「にゃぁ。じゃあその時は、肉全部食べて、一晩中骨の髄まで啜るにゃ」
こえぇ。大丈夫かな。一応足元で足裏をパタパタとさせて、今日一日の感覚を確認する。
「行くぞ、旦那」
虎姫が踏み込み、消える。速い。前回は室内で、テーブルやら椅子やらあったからな。外での純粋な加速はこれほどまでか。
正確に伸びた虎姫の拳を剣で受けるのは間に合わない。体をそって後ろへ引く。だがそれだけでは突進してくる虎姫の連撃から逃れられない。
足裏で少し内側へ重心移動、外側へ向け斜めに構え、踏み込む。急激な横移動で虎姫の射線から外れる。だが、必要以上に離れてはいけない。これは前回の時と同じだ。離れて距離を取ったところで、相手の魔術に圧倒されることになる。だから、虎姫の対応しづらい対面へ移動する。
沈みかける陽の光と、夜の闇とのまじり。
その空の空間を、足裏でとらえて蹴りこむ。
瘴気を蹴り上がり、魔術で毛羽立った虎姫の背中を、エルフの騎士剣の峰でなぞる。
「やんっ」
嘘だろ。人間の、人体の構造ではありえない身のよじり方で飛んできた腕が直撃する。
衝撃で体が地面に撃ち落される。
「わーっ!やっちゃったにゃー。なーんてことにゃー!うえーん。だんなさまぁ。殺っちまったにゃー」
「痛かったけど生きてる…」
「たべるにゃー。証拠隠滅ぅ、もぐもぐ」
「痛い痛い痛い!それはほんとに痛いっ!」
猫のめちゃめちゃに尖った犬歯が肌に食い込むのを阻止する。
「わっ!生きてんのか?なんでっ」
「手で、まあ魔具でもいいんだけど。魔力に触れて、それが瘴気として排気される瞬間に膜が形成されるんだけど、その一瞬でなら、魔術を受けられるみたい」
「そんなこと聞いたことないにゃ。そんなこと言って、虎姫と結婚したいからって、嘘ついてんのか?」
「どういう情緒してるんだよ、君は」
とりあえず、一瞬の瘴気排気の中にある膜の生出で足場と、防御は何とかなるのかもな。それがわかっただけでも収穫だ。
「うぇい」
虎姫が間髪入れずに叩いてくる。ぎりぎりで瘴気膜生出の瞬間を合せて防ぐが、当たっていたら腕がなくなるところだった。
「危ないって!何してんのさ」
「なんかおもろくて。うりっ、うりぃ」
「あぶっ、危ないっ!やめてって」
虎姫が新しいおもちゃをいたぶるように僕を叩く。常に集中しておかないといけないのが、この瘴気の使い方の難点だな。
とにかく集中力切れで虎姫の餌になるのは勘弁なので、とっとと城の中に入ろう。マジでそのうち殺されてしまいそうだ。
「入るよ」
「えー。まだ遊びたい、ようっ!」
「やめれ。疲れたし、べたべただからお風呂に入るの」
「えー。お風呂きらーい」
そう言うと虎姫は脱兎のごとく逃げていった。
風呂場で全身をよく洗い、清潔になったところで、シオさんの様子を見に行く。
部屋の前では、アズマの女医さんが急変に備えて椅子に座って控えていた。本当に頭が下がる。
「昼頃、少し目を覚まして、その後はずっと眠っていらっしゃいます。静かに、すこしだけなら」
そう言って、ドアを開けてくれる。僕の部屋と似たような個室だが、医薬品の匂いに満ちている。
天蓋を垂らしたベッドの内側に、シオさんは眠っている。
大変な手術と聞いていたから心配していたが、顔色は悪くない。本当にただ、眠っている。
邪魔したら悪いな。部屋を出ようと踵を返すと、声がする。
「いいよ。ちょうど目が覚めたところ」
「シオさん。ごめんなさい、起こしてしまって」
「いいから、側にきて」
ベッドの横まで行くと、シオさんが布団から腕を出して、自分の横を指し示すので、ベッドの端に腰を下ろす。
「声は聞こえていたよ、君の声。私もう、死んじゃったかと思ったけど、生きてる。ありがとう」
「そんな、僕は何も…」
「覚悟はできていてはずなんだけどね。想像よりずっと孤独で、不安で、怖かったよ」
「体は、どうですか?」
「変な感じなの…。ねえ、触って」
そう言うと、シオさんは僕の手を取り、躊躇なく自分の胸元へ引き込んだ。
触ってとは何だろうか。どうすればいいのだろうか。何の意味が、確認?よくわからない。とにかく手首のあたりがとてつもなく温かく、やわらかい。これをもって、なんとする。
「ふぅ。やっぱり君、いい匂い。この薬の匂いも嫌いじゃないけどね。君に触られると、ここのざわざわが落ち着くんだ」
ざわざわとは?肌?は柔らかな重みをもって沈み込んでいて、とてもざわつく余地はなさそうだが…。
「そうですか。まるで連絡もよこさずに、縦横無尽に飛び回り、目指したのがそちらでしたか。そうですか」
背後から、絶望の音がする。
振り返る動きでごまかすように、シオさんの胸元から手を引き抜く。
「トバリ。えっと、ひさしぶり?」
トバリの足元に、何かが落ちて、床に突き刺さる。暗器のナイフだ。
「なにか?落としたよ?」
「…。」
トバリは黙ったまま、床に突き立てられたナイフと僕とを交互に見る。その表情は冷たいガラ―の雪山を想起させた。頼むから何か言ってくれ。
「ただいま戻りました…ご主人様?」
「オカエリナサイ…」
「うれしいですか?」
「トッテモ、ウレシイデス」
「それだけですか?」
「ゴメンナサイ」
「なぜ謝るのです?」
「色々諸々込々で、ご迷惑をおかけいたしました」
「かまいません?ご主人様の命に従うのがメイドの役割ですので」
「トンデモゴザイマセン。トバリさんはメイドさんの恰好ではありますが、黒の団にとっては大お頭のようなお方てありますからして…」
「貴方にとっては?」
「僕ぅ?にとっては、大切な家族のような存在です」
「ような?」
「大切な家族です!」
「まあ…、よろしい」
「ありがとうございます!」
「無駄な足掻きを、」
そう言うと、トバリは両腕でがばっと僕を捕獲し、締め上げた。
泳がせたな…。疲れ切った全身の骨が細かく軋んだ。