名演技
「僕と……結婚して下さい!」
「……はい、喜んで」
うっすらと涙を浮かべて微笑むユキの返事を聞いて、僕は思わず喜びのあまり叫び出しそうになりました。夜景が見渡せるお気に入りのレストランで交際三年目の記念日にディナーとなれば、彼女も薄々気付いていたのかもしれません。
今まで二人で過ごしてきた日々……降りかかった数々の試練や、すれ違いで傷つけあった心の痛み、それでもお互いを信じ育んできた大切な時間が頭を過ります。
人目も憚らず彼女を力強く抱き締めようとした瞬間、その場に野太い大声が響きました。
「カアアアット!!! いやあ、二人とも素晴らしい演技だったね!!! お疲れ様!!!」
いつの間に傍にいたのか、サングラスに無精ひげを生やした見知らぬ中年男性が馴れ馴れしく僕の肩を何度も叩きます。
ああ……おそらく頭の病気なのでしょう。プロポーズが成功した余韻に水を差されたのは腹が立ちましたし、放置している従業員にも怒りを覚えましたが、不用意に刺激してしまい彼女……いえ、妻のユキに危険が及んだら大変です。慎重に言葉を選び声を掛けようとしていると……
「ありがとうございます、監督、田中さん。大変勉強になりました! お疲れさまです」
僕と男にそれぞれ一礼して、そのままどこかへ足早に去って行くユキ。予想外の出来事に呆然と突っ立っていることしかできませんでした。レストランの客もウェイターも、皆口々に「お疲れさまでした~」と挨拶して立ち去ります。しかも店だと思っていた現場はセットの一部だったらしく、どこからともなく現れた作業員達により解体が始まりました。
(僕は夢を見ているのか……そうだ……きっとこれは何かのドッキリなんだ……)
あまりにも奇妙な現実を受け入れられず軽い眩暈と頭痛に襲われる僕の元に一人の青年が駆け寄ってきました。
「田中先輩、お疲れさまっす!」
「……だから、田中って一体誰のことなんだよ!」
訳の分からない事ばかりで不安になっていた僕は、つい声を荒らげてしまいました。ですが、彼は全く気にする様子もなく、僕にスマホを差し出してきます。
「あっ、すいません、うっかり癖で……どうか落ち着いてこれ、見て下さい」
「……これは……僕なのか……」
動画を撮った覚えは全くないのですが、画面にはこちらに向かって手を振る僕が確かに映し出されています。
『撮影お疲れ。やっぱり混乱してるよな? 立て続けの撮影だったから頭痛もあるんじゃないか? ま、仕事だからしょうがないさ。じゃあ、椅子に深くかけて、この指を見つめてリラックスしてくれ。深呼吸しながら俺の声に耳を傾けていると、次第に頭のモヤが晴れていく……ゆっくり息を吸って……吐いて……』
狐につままれるような気持ちのまま、自分自身の言う通りにしてみたところ…………まるで記憶を包み隠していたベールを一気に剥がされたかのように、俺は全てを思い出した。
「もう記憶戻ったんすね? ……田中先輩、やっぱりこういうのって止めたほうがいいんじゃないですか? そのうち催眠にかかったまま取り返しのつかないことをしでかしそうで、俺心配なんすよ」
「ばーか、何言ってんだ。お前はそんなだから万年エキストラなんだよ。俺みたいに心だけじゃなく脳味噌まるごと役になりきるからこそ、視聴者を虜にする真の名演技が生まれんだ。ほら、さっさと次のドラマの台本と頭痛薬を持ってこい!」
情けない言葉を口にする出来の悪い後輩を怒鳴りつけ、俺は早速新しい俺になる準備に取り掛かることにした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『昨夜、ドラマの撮影中に俳優の佐藤健司さんに突然刃物で切りかかったとして、同じく俳優の田中紘一容疑者が殺人未遂の容疑で現行犯逮捕されました。警察の取り調べに対し田中容疑者は動機について「妻を殺された恨み」などと供述していますが、実際は独身であること、撮影中のドラマで佐藤氏が犯人役を演じていたこと、更に田中容疑者の血液から覚せい剤の陽性反応が検出されたことなどから、ドラマの出来事を現実だと思い込み、犯行に及んだのではないかと推測されています……』
テレビ画面を食い入るように見つめていた一人の青年は呟きます。
「……先輩を健気に心配する出来の悪い後輩の演技、うまくできたみたいで良かったっす……」