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6.お嬢様と話す狐 ①

前回のあらすじ:目を覚ましたら不機嫌な人がいた。

 ゆっくり一段ずつ階段を降りてぬかるんだ道をあてもなくさまよい歩きます。今晩眠るところに辿りつければ御の字でした。


 まばらに人がいる通りに出ると、角地にお酒の臭いがする場所がありました。取っ手のついた湯飲みの形をした板がつり下げられています。サムの家に来る前、紺色の人に連れられてきた場所でした。背伸びをして窓から中を覗き込みます。薄暗い部屋の中。大人っぽい雰囲気の女の人が、たった一人、机の上に突っ伏していました。薄い金色の髪がふわりと顔にかかっています。 


 小さな窓枠に嵌まりそうなほど顔を近づける桃。だらりと垂れ下がる片腕。傾き掛けている椅子。女の人は今にも転げ落ちてしまいそうです。気がつけば部屋の中に入り、女の人の元へ駆け寄っていました。


「大丈夫ですか?」


 軽く肩を揺らすと、うっすらと眼を開きます。毛束の間から見える白い肌、ほんのりと紅色をした頬と鼻筋の通った顔、長いまつげ、ぷっくりとした唇。透き通った湖のような瞳。


 女の人がゆっくり顔を上げると当時に、首元に巻かれていた黄色の毛皮が波打ちました。三角の耳がぴょこっと出てきて左右に動きます。


「あれ?」


 声を漏らした桃の瞳に、狐のすらりとした顔と細い眼が映ります。なんと、毛皮では無く生きている狐がいたのです。


 眼を覚ました女の人は、膝の辺りを抑えて顔を歪めています。靴を脱いで椅子の上に足を乗せました。ざらついた皮膚から血が滲んでいます。どこかですりむいてしまったみたいです。狐が傷口をなめています。その目つきはまるで女の人を心配しているように見えました。


 痛々しい傷跡を目にして居ても立ってもいられなくなります。何か無いかと思って懐を探ると、変わった感触のものが指に触れました。取り出したのは数珠玉のついた袋。栗ちゃんが持たせてくれた塗り薬です。腹痛を患った時には役立たずでしたが、怪我になら効くでしょう。


(栗ちゃんありがとう)


 と心の中で手を合わせながら薬を手にとり、患部に薄く塗ります。膝に桃の手が触れた瞬間、女の人はその手を払いのけようとします。しかし、塗っているのが薬であることに感づいたのか、すぐに大人しくなりました。塗り終わると、いつも懐に入れていた布きれで覆います。


 女の人は何度か膝を曲げ伸ばし、そっと立ち上がりました。花が開くように顔が明るくなり、勢いよく桃に抱きつきます。花の甘い香りがふわりと広がり、桃は後ろに倒れそうになりました。


「Biedott! biedott!」


 女の人の声が耳元で響きます。弾んだ口調から良い意味であることは伝わってきましたが……。桃は何も言えず、ただ女の人の背中をさすっていました。


(こんな風に人に抱きしめて貰ったのって何年ぶりやろ。温かいなあ)


 どことなく心地よさを感じていると、狐が桃の肩に飛び乗ってきます。


『おぬし、もしや希の国の者ではないか?』


 突然意味の分かる言葉が聞こえてきて、桃は目を丸くしました。目の前の女の人にしては低い声。別の人かと思って辺りを見渡しましたが、誰も居ません。桃は首を傾げます。


(空耳かなあ?)


『こっちじゃ、こっち』


 狐のフサフサした尾が当たります。まさかと思って狐に目線を向けると、頷いたかのように顔を動かしました。


「狐さん。貴方が話しているの?」


『いかにも。で、おぬしはどの国から参ったのかと聞いておる』


「えーっと、くに、くにですか?……」


 村から殆ど出たことのない桃は「くに」を訊ねられてもピンときません。


『うむ。身なりからして希ノ国で間違いなさそうではあるがな。村、村はどこだ。村くらいなら答えられるであろう』


「それなら。椙ヶ浦村やよ」


『椙ヶ浦か。雨龍山の麓であるな。おぬし、独りで参ったのか』


 こくりと頷きます。狐と桃が話す様子を女の人が不思議そうに伺っていました。そして狐に向かって何か囁きかけます。


『うむ。まずはこの店を出よう』


 三人は一旦外に出て、建物の横に伸びている脇道に入りました。少し歩いた所で女の人の肩に乗った狐が桃に顔を向けます。


『さて、どこまで話したかの。ああ、雨龍山の話であったな。あの霊山の近くあれば何が起きようと不思議ではないが、難儀なことよ。ここはおぬしの故郷から北へ北へと進み、海を渡ってさらに西に行った所。容易くは帰れぬぞ。現に妖の身である我ですら戻れておらぬのだからな』


 桃はめまいがしてきました。狐の言葉は小難しくて時々何を言っているのか分からなくなります。ですが、とにかく想像がつかないほど遠くへ来てしまったことと、すぐには帰れないことだけは伝わってきました。脳裏に浮かぶのは家族の姿。もう会えないのかもしれません。


(こうなるんやったら、もっとお手つだいをしておけば良かった。さっさと結婚しておくんだった。そうしたら孫の顔を見せてあげられたのに。おっ母やおっ父を安心させてあげられたのに。二度と一緒に食べられないと分かっていれば、新米のおにぎりを気前よく弟や妹に分けてあげられたのに。せめて……せめてありがとうって、いってきますって言っておけば良かった……)


 こらえきれずに涙が頬を伝い、ぽたぽたと落ちていきます。拭っても拭っても止まらず、かえってますます溢れ出てきました。


 今度は女の人が桃の背中をさすります。そして肩に乗せている狐に向かって何か話していました。


『この……我が主が元気を出せと言っておる。きっといつか、帰れる日がくるはずだと』


 桃は袖で目尻を押さえながら顔を上げました。背中をさすっている女の人が目を細めています。


『見当はついているだろうが、我もかつてはおぬしの古鄕からさほど遠くない山にいた。しかし、奇怪な輩によって連れ出されたのよ』


 「奇怪な輩」という言葉が引っかかります。彼女がここに来る前、確かに見馴れない人と出会ったのを思い出したのです。


「え? うちも変な人を山の中で見たんよ。ここに来てまう前に」


『なんと。まだうろついておったか。奴らは我らの縄張りに入り込んでは物珍しいと獣や妖の類いを捉えて本国で見世物にしておる。我は縁あってこの者の父親に目をつけられ、この者に仕える身となったのだ』


 桃は山の中で変な格好をした人を見掛けたことを思い出しました。何か関係があるかもしれません。危うく見世物にさせられるところだったのかと考えると鳥肌が立ってきました。女の人がもの言いたげに狐の胴体をつつきます。


『うむ。先ほどからこの者が話したがっておる。まずは感謝の意を伝えたいそうだ』


 女の人は首を何度も縦に振ります。


(大したことしとらんけど)


 嬉しいような気恥ずかしいような、複雑な気分です。それにしても、先ほどから狐が女の人の話を桃に分かるよう言い換えてくれています。


「あの、狐さんはその人とお話できるんですか? 私もお話したいんです」


『できるぞ。お主も話をしたいなら、うむ。言葉を覚えねばならんな』


(言葉を覚える、かあ。栗ちゃんみたいにお勉強ができる方じゃないし、大丈夫かなあ……)

桃は気が重くなってきました。今は通訳をしてくれる狐がいますが、これからは一人で生活をしていかなくてはなりません。


「ところで、お姉さんのお名前を教えてくれませんか。あの、私は椙北桃と申します」


 狐が女の人の耳元に顔を近づけました。何かを囁いているかのようです。女の人は耳を傾けながら良く通る声で呟きます。


「モモ?」


「はい」


「モモ! Ed ereo lik Frances. Awkud esg Fran! 」


『フラン、と呼んで欲しいと言っておる』


「ふらん、さん?」


 名前を呼ばれた女の人は、手を繋いだまま腕を横に振りました。満面の笑みを浮かべています。


「Biedott saad tid werdtac cra!」


『貴方に出会えたことに感謝する。まあ、よろしくという意味だな』


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 桃が軽く頭を下げます。フランはもう一度桃を抱き寄せました。桃はどうして良いのか分からず、されるがままです。


「E hicif neut werd cra.」


『会いたかった、と。先ほどいたあの店でおぬしのことを耳にしていたのでな。気になっていたみたいだ』


「え? うちのこと?」


「うむ。不思議な格好をした娘がいると噂になっておった」


 顔が熱くなってきます。知らない所で話題になっているなんて、思ってもみませんでした。

突然、桃に抱きついていたフランが体を離し、辺りを見渡し始めました。顔を桃に近づけて何かまくし立てています。


(なんだか焦っているみたい。それにしても、綺麗な人だなあ)


 桃はつい朝の小川を映したような青い瞳と、白く長いまつげに見とれていました。狐が尻尾を下に垂らします。


『はあ。全く呆れたことだがこの者は今、家出の最中でな。一つ頼みたいことがあるそうだ』


 狐の声で我に返りました。


「何でしょう?」


『そなたの家に一晩泊めて欲しいそうだ。無理にとは言わんがな』


「えっと。実は今お家を探しているところなんです」


 フランは目を見開き、食い気味に言い返します。


『昨日はどこで寝ていたのかと聞いておる』


 桃は紺色の服を着た人に店まで連れていかれ、そこにいるよう言われたこと、店にいたおじさんが出した赤いお酒を飲んだら気を失ったことを話します。そして気がつけば親切な青年の家におり、しばらく泊めて貰っていたことも。


『であれば、こちらで事情は話すゆえ、一旦その者の家へ連れて行って欲しいそうだ。勿論、断っても構わんぞ』


 フランは狐を睨みながら、頭やあごの辺りを撫でまわしました。狐は前足を動かして手を払いのけていますが、なんだかんだ一層目を細めて気持ちよさそうにしています。


 フランの脚に巻いた布が少し下にずれていました。薬を塗ったとはいえ、今外を歩き回って膝に負担をかけるのも良くないでしょう。確かに一休みするのであれば、近くにあるサムの家はぴったりの場所かもしれません。しかし、彼がもう戻って来ているのか分かりませんし、フランなら他に泊まれそうな宿屋を知っている気がします。ずっとここに住んでいる人なのですから。


「あの、近くにある宿屋さんで泊めてもらってはどうでしょう?」


 できれば桃も一晩過ごせると良いな、と淡い期待を膨らませます。しかしフランは大きく首を振りました。


『そなたの言うことは尤もだが、宿屋では家の者に居場所を知られるから駄目なのだそうだ』


「そうですか……」


 嫌だと言うのであれば仕方ありません。青年には申し訳無いですが、彼の家へ連れて行くことに決めました。


(折角もう一度お邪魔するのですから、せめて感謝の気持ちを伝えたい、と考えていたところ、桃はあることを閃きました。今、ここの言葉を話せる人と、桃と話すことのできる不思議な狐がいるのです。こんな機会はもう無いでしょう。


「分かりました。あの、私からも一つお願いがあります!」


「Scat?」


『何かね』


「『ありがとう』ってどう言えばいいのか、教えて欲しいんです」


「шote!(良いわよ)」



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