聖王国にて②
「さぼる。抜ける。常識も身についていない子猿のようなお前を5年でここまでしたのは誰だ?さらに今度はリハーサルのお迎えまで。それでも、迷惑をかけないようにしてくれてるのかと思うと情けなくて涙が出るよ。」
アリステアは、身を縮める。
確かにその通りだが、紅陽が課した膨大な課題のおかげで、アリステアは睡眠時間1日4時間弱の生活を5年も続けている。そもそも、5年前に教皇の候補として神殿に連れてきたのは紅陽だ。
今だってアリステアはリハーサルには間に合うように行くつもりだし、まだ十分時間があるはずだ。
アリステアの気持ちを知ってか知らずか、紅陽は口の端を少しだけ上げ、首をわずかに傾けてアリステアの顔をのぞきこむ。
アリステアと目が合うと、にっこりと微笑んだ。
この勝ち誇った顔。どうにかしてやりたい。
口答えしてやろうとアリステアは息を大きく吸ったが、正面から目が合うと数秒後には弱々しく吐き出した。
さらりと目元に流れた漆黒の髪とか、その下からいたずらっ子のようにのぞく深紅の瞳とか、表情豊かな口元は、紅陽の口の悪さと態度の大きさを相殺して余りある。
この愛嬌モンスターは自分の外見が人の意見を封じ込めるほどのものだとしっかり認識している。
アリステアはがっくりとうなだれた。
「申し訳ありません紅陽様。あの、その…。」
ダリアがいたたまれなくなって仲裁に入ろうとすると、アリステアがダリアにストップをかけた。
そして、わざと屈んで紅陽と視線を合わせるとわずかにため息をついた。
「もちろん紅陽のおかげにきまってるじゃない。おかげで、身長まで伸びちゃって。紅陽を追い越しちゃったわ。私の予言だと紅陽に身長が追い越されることはないようよ。」
そして、立ち上がって紅陽を見下ろすと、華やかでくったくない明るい笑顔を向ける。
誰もが見惚れるであろうその笑顔を見た瞬間、ダリアは小さく「ひっ」と叫び、口元を押さえる。
いくら師匠と弟子の関係といってもこんなところまで似なくてもよいではないか。
体を固くしたダリアが恐る恐る紅陽の方をうかがうと、眼前のアリステアの喉元からゆっくりと視線をあげて視線を合わせた。そして、ふたたびにっこり微笑む。
「さすが予言の聖少女。俺の身長まで予言してくれるとは親切だな。お前の身長は俺のおかげじゃないけど、成長してくれてうれしいよ。」
紅陽がアリステアの視線を正面で受け止め、さらに目を細めて笑い返した。
「でしょう?さあ、祭壇にいきましょう。リハーサルがあるのよね。」
紅陽の笑顔に、アリステアは小首を傾げて愛らしく笑ってみせた。
紅陽とアリステアはお互いの顔が30センチメートルぐらいのところで見つめあったまま、うわべだけの笑顔の応酬をしている。
ダリアは二人のやりとりに、両手を胸の前で組んで固まったまま動けずにいた。
おそらく、この後アリステアは課題を3倍ぐらいに増やされて、眠れない日々が続くだろう。そして、さんざん後悔して寝不足になるアリステアのケアをするのはダリアなのだ。
3人の間を冷たい風だけが吹き抜けていく。
カーン、カーン。
神殿の方から時を刻む鐘が鳴ったとき、我に返ったダリアが声をあげた。
「そっ、そうだ!リハーサル!アリステア様、早く参りましょう。」
ダリアがすかさずアリステアの腕を引っ張り、紅陽から逃げるようにして城壁を降りる階段へと向かった。ゆっくり後をついてくる紅陽に頭を下げつつ、アリステアを引っ張りながらどんどん進む。階段をいくつか折り返して、紅陽が視界からいなくなるとアリステアの腕にしがみつくようにして小声で話し始めた。
「何なんですかあの予言って!!紅陽さまの外見は私が神殿の女官見習いをしていた10年ほど前から一切変わられていないんですよ。その時だってすでに御遣い様の教育係をなさってましたから、おそらくあれで成長が止まってしまってるんです。身長なんて予言するまでもないでしょうが!!もう!!失礼ですよ!」
「いいじゃない。あの外見だと14、5歳ぐらい?そこから成長もしないけど劣化もしないんだから。それを分かって紅陽だって自分の外見を武器にしてるところもあるじゃない。見た?あの顔で言えば何でも許されると思ってるのよ。」
城壁の階段を降りて神殿の回廊をダリアに引っ張られながらアリステアは後ろを振り返った。紅陽はのらりくらりと着いてきている。にもかかわらず、すれ違う女官や神官達はかしこまって礼をしていく。力が抜けているのに、どこから見ても様になるから紅陽というのはすごい。アリステアにもあれぐらい人を惹き付ける力があれば教皇として自信をもって信者の前に立てるのだが。
「よくありません!!5年前にアリステア様を予言の少女として見いだしたのは紅陽様ですし、予言の聖少女を教皇にするというのも紅陽様の一存で決まったことなんですよ。ここで見捨てられるようなことがあったら、アリステア様路頭に迷いますよ!それでなくても、アリステア様は世間の常識が一切ないんですから!!」
ダリアが一気に捲し立て、肩で息をしている。すかさず辺りを見渡して、何事もなかったように涼しい顔を取り繕う。アリステアはダリアの耳元にそっと顔を寄せて、
「確かに私は世間の常識や知識がないのは認めるわ。でも、しょうがないじゃない?紅陽にここに連れて来られたときには全然記憶がなかったのよ?子猿がそれなりに成長してるんだからもう少しは労ってくれてもいいと思うの。」
と囁いた。アリステアの低いアルトの声はやさしくダリアの耳をくすぐる。紅陽も紅陽だが、アリステアも十分自分の容姿や資質を最大限に利用している。ダリアは真っ赤な顔をして耳を押さえた。そして咳払いをしてアリステアに向き直る。
「とにかく、御遣いの皆様の前で紅陽様にあんな態度とらないでくださいね。御遣いの皆様はどの方も紅陽様を師と仰いでますから。あんな態度を見られたら、協力していただけるものも協力していただけなくなりますからね。」
「はいはい。」
確かにダリアの言うとおりだ。御遣いは全員紅陽の教え子だ。そして、紅陽の教え子であっても大教皇の代理とも言われる『御遣い』ではないアリステアの立場は微妙なものなのだ。NO.2の教皇という立場であっても、大教皇の代理である彼らの立場は尊ばねばならない。
アリステアは背筋を伸ばす。
「ダリア、下がって。青の神殿に着くよ。」
アリステアの視線は回廊の先にある青の神殿を見つめている。その横顔が、さっきまでのアリステアと異なり予言の聖少女としての表情になる。ダリア自慢のアリステアの顔だ。
「はい。アリステア様。」
ダリアはわずかに頭を下げると、張り切ってアリステアの後ろに着いた。