プロローグ
プロローグ
石造りの塔の中はいつも底冷えがしてほこり臭い。
部屋が東を向いているせいなのか、朝日は見えても午後には光が差し込むことがなく、いつも薄暗い。そこにあるのは、一人がけの木製の椅子、丸いテーブル、ベッド、引き出しのついた小さなキャビネットだけ。
窓から見えるものといえば、外に広がる鬱蒼とした森、いつも灰色の重たい空。
気持ちを沈ませる環境の中で、唯一私の心をなぐさめるのは真っ青な美しい湖。
それと、ときどき食べ物や衣類を運んで掃除をしていく世話係の女性。
世の中のことは全くわからない私にとって、彼女が掃除をしながら話す世間話が知識の全てだった。
「お嬢様はご家族に会ったこともなくこんなところに閉じ込められて…。かわいそうですよう。他のぼっちゃん達はお屋敷で不自由なく過ごしてらっしゃるのに。」
そう言って、彼女は顔をくしゃりとゆがめるとふくよかな体を小さく丸めるようにして後ろを向く。そして、きまって鼻をすすりながらせかせかと動く。それが何を表しているのか全くわからなかった。
彼女の話から分かったことは、私は塔の中に閉じ込められているということ。
私の体のように皮膚がとけ落ちる病は他になく、呪われていると言われていること。
私の家族は、この国の貴族であるということ。
それが、全てだった。
私のからだは生まれつき皮膚が形成されない。皮膚は常に溶けた蝋のようにだらだらと崩れ落ちていく。痛みはないが、こぼれ落ちた皮膚をそのままにしておくと床に落ちて染みを作った。それで床を汚さないように、身体中に包帯が巻き付けられていた。
包帯が弛むとぐずぐずになった赤い皮膚が露になる。自分で見ても気持ちいいものではないにもかかわらず、世話係の女はせっせと包帯を巻き直してくれた。私の体は呪われているから触れてはいけないはずなのに、包帯を巻くぐらいはいいだろうと言ってくしゃりと顔をゆがめるのだ。
彼女はよく私を見て「不憫だ」と言った。
そんなときも必ずあのくしゃりとゆがめた顔をする。
その表情は、私の胸をずしりと重くし、いてもたってもいられなくさせた。
その感情を何と言うのか、私は知らなかった。誰も教えてくれなかった。
彼女に聞いていれば、何かがわかったのだろうか。
彼女にその表情の意味を聞けないまま、ある霧深い日に私は暗い部屋を出ることになった。
その日、お仕着せを着た使用人の女性に連れられて、塔の隣にある屋敷に初めて入った。
石造りの塔と異なり、どこもかしこも真っ白で美しい壁。光輝く調度品。初めて見るものばかりで目が眩んだ。
部屋に案内されると、身体中に巻いていた包帯をすべてはずした。生まれて初めて湯船に入り、溶け落ちた皮膚をきれいにした。おかげで朝から清潔な白い衣装を着ることができた。
着替えが終わると、広間に連れていかれ、そこで初めて自分以外の人と食卓を囲んだ。
テーブルに集う人たちが、私の家族とその客人だとは知らずに、ただ目の前の食事をどうやって食べればいいのか途方にくれるばかりだった。銀色の美しい食器、美しく盛られた料理。たくさんの人の間で交わされる視線と会話。それは、世話係と自分だけの空間しか経験したことのない私にとって未知の体験だった。彼らはナイフやフォークを自在に操り、料理を食べながら笑顔を向けたり話したりする。当たり前のように行われていることが私にはとても難しいことだった。私が目の前の料理に悪戦苦闘していると、彼らの会話は私を置き去りにして弾んでいく。
「サイラス様。今日までよくお世話くださって。本当ありがたいことですわねぇ。」
オレンジのドレスを着た痩せこけた婦人が甲高い声で周囲に同意を求めた。すると、一番奥の暖炉の前に座っている灰色の髪の紳士がナプキンで口を拭ってゆったりと口を開いた。
「これで、システムとの約束が守れる。これからは、水害にも天候不順にも怯えなくていい。」
そう言って満足そうに集まった人達を見回した。その視線を受け止めて、
「しかし、本当にシステムに贄を出せば、天候が改善するのですか?一年中曇天が続くこのイノア地方に太陽の光が差し込むとは思えないのですが…。」
ともう一人の色白な紳士が尋ねた。灰色の髪の紳士と違って、やせっぽちの貧相な男だ。
「何をおっしゃるの。イノアの住民がずっと続いていた儀式をやめたおかげでシステムの恩恵を受けなくなったのよ。それをサイラス家のヨシュア様が復活させてくださった。やっとこの不毛の土地に別れを告げることができるのよ。」
わきに座っていた紳士とは対照的な体型の婦人がやせっぽちの紳士を嗜めた。それに追随するかのように、声が上がる。
「そうだ長い間、サイラス家はよくやった。」
「サイラスに栄光あれ。イノアに繁栄を。」
そう口々に言って杯を交わしていたが、彼らの杯は私に向けられることはなかった。
同じテーブルにいても誰も私を気にすることはなかった。彼らが互いに笑えば笑うほど、私の胸は重苦しくなる。それがどんな感情なのか全くわからないけれど、とても不快でもやもやとしたものだった。
さらに、私と目が合うと、彼らは瞬時に顔を歪ませて目をそらす。もしくは、汚物を見るように眉をひそめる。その姿が私の心をさらに重くしていった。
私は食事をすることだけに集中した。そうしないと、涙がこぼれ落ちそうだった。頭のなかによぎったのは、世話係の明るくて元気な声。彼女は私が食事をしている間、寝台に腰かけて自分の娘の話や旦那の話、町の人々の噂話をよくしていた。塔にいた時はうるさく感じてもいたが、今になってみると彼女なりの気遣いだったのかもしれない。
味のわからない料理を口に詰め込む作業を、ただ延々と繰り返しているような食事だった。それが、ようやく終わると、灰色の髪の紳士が初めて私の方に向かって声をかけてきた。初めて目が合ったその人の瞳は、深い蒼色をしていた。それは、塔の窓に写りこんだ私の瞳の色によく似ていた。
「食事は、どうだった。」
短い質問だったが、初めて交わす会話に私の心は跳ねた。
「……った。」
美味しかったと言いたかったが、私の声はうわずってろくに返事もできなかった。
「そうか。なら、いい。」
それが彼が私にかけた最初で最後の言葉だった。
その後は、お仕着せを着た使用人の女の人に案内されて食堂を出た。そして、再び湯浴みをさせられると真新しい白いワンピースを着せられ、両脇を屈強な兵士に囲まれながら馬車に乗せられた。
馬車が着いた先は、いつも見ているあの美しい青い湖のほとりだった。黒い小舟が岸につけてある。
岸のほとりには、共に食事をした人たちが並んで私を待っていた。
私は馬車から降りると、白い服を着た二人組の男に小舟のところまで連れていかれた。彼らは、小舟の前に来ると、遠くに並んでじっとこちらを見ている人たちに向けて一例し、私を連れて小舟に乗った。黒い小舟を白い服の二人が静かに漕ぎだす。私は何もわからず小舟に揺られた。
湖の真ん中に来ると、白い服を着た二人は湖にキラキラとした粉を撒いた。
霧の中でわずかに光る粉に見とれていると、突然、両脇から腕を捕まれた。
次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。
「あっ」と声を出す前に、背中に鈍い痛みが走って冷たい水の中に沈んでいた。
助けを求めようと開いた口から水がどんどん流れ込んでくる。
なんとか水から出ようと手足を動かしてもがいた。しかし、水が体にまとわりついてうまく動けない。
白い衣装も水をたっぷり吸って体に絡み付いてくる。
水を飲みながらも必死で水面に手を伸ばす。
なんとか頭を出して、小舟に乘った人達に助けを求めた。
喉の奥に冷たい水が流れ込んできたが、必死で声をあげようとする。
ところが、無情にも彼らはオールで私の頭を水の中に押し戻した。
無言で頭上から降り下ろされるオール。
執拗に何度も何度も私の頭や肩を水の中に沈めようとする。それでも、何とか水面に顔を出し叫んだ。
「助けて!!」
「………。」
心臓が凍りつくほど、冷たい視線。
返事の代わりに再びオールが打ち付けられる。
「た…す…」
頭を出せば、オールでしたたかに横っ面を張られた。
感じたのは、水の冷たさと死への恐怖。
誰にも助けてもらえない絶望。
理不尽な仕打ちへの怒り。
いったい、私が何をしたの?
何がいけなかったの?
さまざまな感情が浮かんでは消えていく。
それと同時に体がどんどん水の中に沈んでいく。
朦朧とした意識のなか、真っ青な水の上に黒い小舟の底が見える。
命の危険にさらされているというのに、不思議と視界ははっきりしていた。
青い水が、次第に透明になって視界が開けていくのが見えた。
青い色が水面の一角に集まっているのだ。そして、ゆらゆらと生き物のように蠢いている。
その青のかたまりがゆっくりとこちらに移動してくる。
私が青に包まれたのと意識を失うのとほぼ同時だった。
私はそこで意識を手放した。