5.【希望と言う名の絶望、って知ってる?】
それから何日が経っただろうか。
「沙織、ちょっといらっしゃい!」
学校から帰ってきた私を、走って玄関に来た母さんが言った。
何故かものすごく興奮している。怒っているのではない。その声は驚きと喜びがない交ぜになって、化学反応を起こして爆発しそうな感じだった。
「どうしたの?」
「いいから、早く!」
私の言葉にろくに答えず、来たときと同じようなスピードで母さんはリビングに引っ込んでいった。
なにがあったのだろう?慌て者で大袈裟な母さんのことだから、大したことじゃないんだろうけど。私は母さんに続いてリビングに入る。
奥にある裏庭が見渡せる大きな窓の眼で、母さんが待っていた。母さんが庭を指さす。
その先を見て、私は、完全に動きが止まった。
芝が整えられたいつもの裏庭。家を囲うグレーのブロックで作られたいつもの塀。
そして、いつも傍にいてくれた、私の親友。
セナがいた。
窓のすぐ近くで、セナは座っていた。
お座りの体勢で、私達を見ていた。
(夢?)
信じられなかった。
信じられるわけがなかった。
(これは夢なの?)
でも、セナが持っているはずの足が一本かけているのを見て、これは現実なのだ、と私に告げていた。
「セナっ!!」
私は窓を開けてリビングに飛び出し、愛犬を抱きかかえた。
暖かい。
それに、段ボールの中に居た頃よりも、ずっと軽い。
生きているからこそ、軽いんだ。
(夢じゃ、ない!)
私は、より強く、強く抱きしめる。
そんなにしたら、痛いよ。そう訴えるようにセナはか細く鳴いた。私は抱きしめるのやめて、セナを抱え上げる。
ふさふさの毛、湿った耳。
頭部に残った、大きな傷。
その全てが、愛おしかった。
「びっくりしたわよ。庭の方を見たら、居るんだもん。いつもみたいに。
お医者さんは即死だって言ってたのにね。庭にだって埋めたのに」
いかにも母さんは不思議そうにしていた。
「神様のおかげかしらね」
(違うわ!)
母さんの言葉を、心の中で否定する。
(私と、あいつがやったのよ。あいつが、本当に生き返らせてくれたんだ!)
あいつはペテン師じゃなかった。本当に、奇跡を起こしてくれた!
「また可愛がってあげないとね。
でも、ちょっと匂うわよね、セナ。洗ってあげたんだけど、なかなか落ちないのよね」
そんな母さんの言葉は段々遠ざかっていった。リビングを離れたらしい。
きっと私に気を利かせてくれたんだろう。再会を邪魔したくないって。
その気遣いに、私は素直に感謝した。私はセナの顔を見つめる。
もう、絶対に離さない。あなたと私を繋ぎ止めるリードを、離すことはない。私は愛犬に誓った。
私の心に答えるように、セナは大きく口を開けた。「ワンッ!」という可愛らしい吠え声が聞こえてくるのを私は待った。
だが。
聞こえてきたのは、濁ったノイズ。
今まで聞いたことのないような不快な音
(まるでトイレに石やら泥やらを詰め込んで無理矢理流そうとしたみたいな)
を起てながら、セナの口から漏れたのは、滝のように流れる大量の汚物だった。
深い緑色と紫色が混ざったような色をしたそれは瞬く間に私の胸を汚し、それでも足りぬとばかりに地面に溢れた。
呆然と私はそれを見ていた。
なにが起こっているのか、分からなかった。
理解でき(いや)なかった(したくなかった)。
血の混ざった大量のヘドロ。アンモニアと腐敗臭の、強烈な死の香り。
(なに?)
その酷い匂いに私はたまらずセナの体を身から遠ざける。
(なんなのよ、一体)
その時、腐った柿が地面に落ちるような音がした。足下を見ると、何か小さい白い塊が、汚らしく濁ったなにかが。弾けていた。
(なに、これ?)
恐る恐る、愛犬の顔を見る。
セナの右目が収まっていたところには、大きな闇が覗いていた。
「ひっ!」
驚いた弾みで、セナの体を取り落としてしまう。それは地面に広がる汚物の中に落下して、力なく横たわる頭の半分が汚物の中に埋もれた。
そして、私は聞いた。その埋もれた半分の鼻が汚物の中で起てる、ゴボゴボという音を。
私は絶叫した。