■第二話■ 特訓開始
「何故私が……」
校長室を出ると、肩を落としながら時雨が呟いた。
それもそうだろう。突然、こんなことになったなら、誰でもそう言いたくなる。
「なんだか……大変な事になったな」
苦笑交じりに言うと、時雨はジロリと睨んできた。
蓮太郎は、それ以上は得ではないと考え口を閉ざす。
急展開の連続もあって普通に接してはいるが、改めて考えると蓮太郎と時雨は今まで真面に会話した事も無い。
そもそも、接する機会もほとんど無かった。
彼女は東郷学園でも知る人の方が少ない優等生で、憧れる後輩や同級生も多い。
一方、蓮太郎は裏切り者の息子、落ちこぼれの薄血頭領と、地位に天と地ほどの差があるのだから。
「……仕方が無い」
数秒の沈黙の後、時雨は顔を上げた。
心の中で、切り替えが済んだようだ。
「命じられたからには、しっかりと君を鍛え上げてやる」
決心をした様子で、彼女は言う。
「早速特訓だ。身軽な恰好に着替えて霊珠の森の前に来い」
◆◇◆◇◆◇◆◇
と、いうことで。
運動用の衣服に着替え、蓮太郎は約束の場所までやって来た。
「来たか」
既に先にいた時雨が、蓮太郎を見遣る。
見上げる程の巨木が犇めき合い出来上がっている森――その入り口に、彼等は立っている。
「………」
蓮太郎は、時雨の格好を見て、一瞬ドキリとした。
今の蓮太郎の格好は、体育の時間や実践訓練の際に使用する、動き易い運動着だ。
一方時雨は、【アサシン】としての本格的な格好で来ていた。
(……そうか)
彼女は既に現役の【アサシン】に混じり、任務を受けていると聞く。
この学園では、成績優秀な者は実戦経験を積むため、プロに交じって仕事のサポートをする事もある。
彼女の格好は、全体的に体にフィットした、化学繊維でできたスーツである。
軽量化と先鋭化を果たしたボディスーツで、随所に装備が施されている。
問題は……機能性は高いが、露骨なまでに身体のラインが露わになる代物だという事だ。
頭身が高く、出るところは出て、絞るところは絞られた、煽情的なスタイル。
獅子原校長程ではないにしろ、組んだ腕の上に乗っかるほどの両胸も、その大きさも形もはっきりとわかってしまう。
キュッと締った腹部も、その中央のヘソも透けて見える。
柔らかそうな臀部から伸びた両足は、まるで美術品の様に美しい曲線を描いている。
「なんだ?」
黙ったままの蓮太郎を、時雨は訝る様に見る。
「いや、その……冷静に考えると、目のやり場に困ると言うか……」
「………」
「いや、ごめん、真面目にやらなくちゃいけないよな」
蓮太郎の言葉に、時雨は一瞬、ハッとした表情になって自身の姿を見る。
しかし、すぐに顔を引き締めると。
「……ふん、上等だ」
凛とした声音で、そう言った。
「任務中、相手が動揺してくれるのであればそれに越したことはないだろう。それに、私も異能暗殺者として篭絡のための性技……房中術の覚えはある。無垢な女などと思うな」
「……流石だな」
毅然とした時雨の態度に、蓮太郎は素直にそう賞賛したくなった。
そこで時雨は顔を背け、ボソリと呟く。
「……まぁ、学習しただけで実践などしたことは無いが」
「え?」
「何でも無い!」
若干、頬が紅く染まっているようにも見えたが、時雨は頭を振るうと、誤魔化すように蓮太郎へと叫ぶ。
「では、行くぞ。まずは、体力作りだ。今からこの森を駆け抜ける。私に付いて来い」
「ええ!?」
時雨が森を指差して言うと、蓮太郎は思わず声を上げてしまった。
この森――霊珠の森は、広大な敷地で昼間でも無暗に入ると出られなくなると言われている。
木の密度が濃く、樹海と言っても大袈裟ではない。
「それに、確か色々と野性の動物が住み着いてるとか……」
「だからこそ訓練なのだ」
時雨は厳しい目で、蓮太郎を見据える。
「言っておくが、この程度こなせないようではこの先が思いやられるぞ。それとも……」
森の方を指差していた指を、東郷学園の校舎の方へと向ける。
「何なら、ここで諦めてもいいぞ? 自分から辞退を校長に告げに行くんだ」
挑発とも取れるその言葉を聞き、蓮太郎は双眸を収斂する。
「……わかった」
はっきりと、そう言った。
それは時雨の物言いに腹が立ったからとか、怒り任せの対抗心から来たものだとか、そういった感情によるものではなく、純粋な向上心から来る決心――その決意から来る言葉のように聞こえた。
時雨は、少しだけ眉を持ち上げる。
「……言ったな、では行くぞ。私に付いて来い」
言うが早いか。
「最後まで、付いて来る事ができるならばな」
瞬間、跳躍。
時雨の体が、空中に飛翔した。
まるで鳥のように、宙で身を翻しながら、時雨は巨木の枝へと飛び乗る。
そして飛び乗ったと同時に、すぐさま次の枝へと跳ぶ。
瞬く間に、彼女の姿は森の中に消え、枝から枝を伝って更に奥へと向かって行く。
見事な動きである。
ここまでの体捌きは、時雨クラスでないと無理だ。
「さて……」
湿った空気の中を駆け抜けながら、時雨は思考する。
薄血頭領の天見蓮太郎。
今頃、自分の発言を後悔しているだろうか。
負けじと必死に地上を走っているだろうか。
流石に、自分が彼を見失うわけにはいかない。
彼の言う通り、この森は樹海に近い。
一度迷えば、そう簡単には出られない。
しかも、もうすぐ夜が来る。
迷い、行方がわからなくなり、野生動物に食われてしまったとなれば、自分の責任にもなるし、何より寝覚めが悪い。
せめて、少しは見える位置にいなければ……。
そう思いながら、時雨は振り返る。
――後方に、自分と同じく枝から枝へと飛び移って来る蓮太郎の姿が見えた。
「何……」
時雨は、思わず瞠目した。
「う、おッ!」
懸命に、決して楽そうにではない。
それでも、枝から枝へ、危うい体捌きではあるが、蓮太郎は付いて来ている。
驚く。
別に、突出して動きが良いわけではないが……まさか、このクラスの身体能力を持っていたとは、予想外だった。
(……才能も薄く、授業もまともに受けず努力を怠る落ちこぼれ……ではなかったのか?)
「あっ!」
そこで、だった。
着地をミスし、蓮太郎は足を踏み外す。
枝から滑り、その体が遥か地上へと投げ出されそうになる。
「危ない!」
咄嗟、察知した時雨は後方へバックステップ。
手を伸ばすと、バランスを失った蓮太郎の右手を掴んだ。
「あ、ありがとう」
「……ん?」
そこで、時雨は何かに気付いたように、小声を漏らす。
しかしすぐに蓮太郎を枝の上に持ち上げると、その手を離した。
「どうした?」
「……何でもない、グズグズするな」
◆◇◆◇◆◇◆◇
その後。
蓮太郎は何とか、最後まで時雨に付いていく事が出来、霊珠の森を駆け抜けることに成功した。
時雨は最初から森の中をどういう風に進むかルートを考えていたようで――レースの終着地点は、最初に来た森の入り口だった。
「何はともあれ、これで終わりだ」
「ハァ……ハァ……」
地面に横たわり、体を大きく揺らしながら呼吸している蓮太郎。
時雨も汗こそ掻いているが、二本の足でしっかりと立って、そんな彼を見下ろしていた。
「………」
時雨は、蓮太郎の体を見詰める。
よく見てみると、かなり鍛えられているのがわかる。
決して巨大な体格ではないが、筋肉は締まり、痩躯ながら機能性は悪くなさそうだ。
(……それに、さっきの手……)
時雨は、先程、偶然にも蓮太郎の〝手〟に触れた時の事を思い出す。
枝から落ちそうになった蓮太郎の手を掴んだ時。
その手はあまりにも、皮が厚く、ごつごつしていた
何度もマメを潰したような、収斂の跡が感じる、そんな手。
同じように鍛錬を欠かさない時雨には、嫌でも理解してしまう――そんな感触。
(……まさかな……)
すぐに頭を振って、思考を切り替える。
しかし現状、時雨の蓮太郎に対する評価は、少しずつ変わりつつあった。




