2−3: わかりやすさ(世界・設定)
「4: 考証・設定」(予定)なんかとも関係することですが。
根がSFの人間なので、SFをひきあいにすることが多くなってしまいますが。ファンタジーやSFを書いていると、世界や設定、ガジェットが出てきたらそれの説明が必要になることがあります。「1−4: 形容と説明、描写は悪手」にも書いたことですが、どういう形であっても、それらを説明するのは悪手です。ですが、「2−1: わかりやすさ(用語)」に書いたように、ただのフレーバーとするのは、それも違います。
たぶん、「説明に入ってしまう」ことがよくない理由として、一番納得とかうなずいてもらえそうな理由はこれではないかと思います:
そこで話のテンポが崩れる。
これを挙げておけば、まぁ、それで充分なのかもしれません。説明に入ってしまうことで、流れていた話がそこで一旦止まってしまいます。
ですが、ちょっと考えてみましょう。世界にせよ設定にせよガジェットにせよ、なぜ説明が必要になってしまうのでしょうか。結局は馴染みがないからということではないかと思います。この、「馴染みがない」というのが誰にとってなのかが実のところ重要だったりします。
「SFってなんなんだろう?」あたりを読んでもらうとわかりますが、私は、SFは冒頭で一気に世界を構築する方法が正統だろうと考えています。ですが、説明をしてしまうことは悪手だと考えています。「冒頭で世界を構築するのに、説明はしない」というのは、矛盾しているように思われるかもしれません。ですが、書き手が「その世界、設定、ガジェットがなんなのかを知っている」なら、「ネーミング、どこでどれだけ書くか、どういう流れで書くか」とかその組み合わせが選べるだろうと思います。ある用語がはじめて出てきたときに、その説明をきっちりしなければならないわけではないということです。
「ネーミング、どこでどれだけ書くか、どういう流れで書くか」を選べないということは、書き手個人の文章技法の話もあるのかもしれませんが、それ以前に、こういうことがあるのだろうと思います:
それがなんなのかを書き手自身がわかっていない
致命的です。書いた設定メモから書き写すしかありません。
それではあっても、「ネーミング、どこでどれだけ書くか、どういう流れで書くか」を意識する方法はあります。新聞記事の構成については、概略から詳細へと言われます。もちろん、その方法をとるかどうか、またそこでの概略に相当するものが名前なのか、なにをするものなのか、どう使うものなのかなどのどれを選ぶかを考える必要はあります。ですが、はじめて出てきたときに、それについてなにもかも説明をしなければならないわけではないという参考にはなるかと思います。もちろん、はじめて出てきたときに、なにも説明しないというのも、選択肢としてはありますが、特別な理由がないかぎり避けたいところです。
あるいは、「時を彷徨い」からひいてみましょう。説明を書かないというのとは逆に、説明しか書いていない例です。「500年まえ」にこういう部分があります:
奇妙な道具もいくつか見せてもらった。木で作った長い坂に
ボールを転がす。そうすると坂の上にいくつか付けられたベルが
一定の間隔でチリンチリンと鳴った。あるいは穴のあいた板が
付いた妙な棒も。遠い星が見えた。
これらの装置を知っている人は(そしてほとんどの人が知っているはずですが)、「あれかぁ」とわかります。なぜそれらの装置の名前を書いていないのでしょうか。簡単なことで、「時を彷徨い」の主人公は装置の名前を知らなかった、あるいは聞いたけど憶えていなかったからです。そのために書けません。さらには、名前を書く必要なんかないし、むしろ名前で書いたら野暮だからです。
さて、前半の話と、「時を彷徨い」の例は、「読み手にわかるかどうか」というところに行き着きます。
ただし、ここで一つの問題があります。もし、読み手がこちらが想定している知識を持っていなかったら? その場合、書いたことは伝わりません。これこそが致命的と思う人もいるでしょう。だからこそ親切な説明が必要だと思われるかもしれません。確かに致命的です。ですが、それは読み手に準備ができていないという点においてです。責任は書き手にあるのではなく、読み手にあるわけです。
そこで、先の「ネーミング、どこでどれだけ書くか、どういう流れで書くか」に、一つ追加しようと思います。世界や設定のわかりやすさとは、なにもかもを説明することではなく、説明しなくてもわかるように状況などを作ることというのを入れてみます――すくなくとも、それを視野に入れて考える必要はあるだろうと思います。そしてあとは読み手の問題です。
「誰にでもわかるのが理想」という人もいるでしょう。理想ではありますが、それは「現実とほとんど変わらない世界」で、「現実とほとんど変わらないこと」をやる場合に限られるでしょう。そして、その「現実」も、結局は読み手まかせです。
というところで、すこしまとめます。
「読み手に理解できる」の基準をどこにおくか。それが一つの問題だということは考えてみる必要があることがらでしょう。
そして、そもそも書き手が、世界にせよガジェットにせよ、それがなんなのかを知っているのかをもう一度考えてみましょう。
その上で、技法として説明するかしないか、説明するとしてもどのように説明するのかの選択も視野に入って来ると考えましょう。