2−1: わかりやすさ(用語)
とても大切な話です。SFよりの内容になっていますが、それに限らず大切な話です。ファンタジーについてはもちろんですし、それが実在しようとしまいと一風変わったガジェットなりギミックが出てくるような場合にも言えることです。
もはや普通の感覚では大昔、パルプ系の雑誌が氾濫していたころ――あるいは、それは今もライト・ノベルという形で続いているのだが――、そのころは「それっぽさ」を出すためには面倒くさい言葉、あるいは耳慣れない言葉を使えばよかった。それだけで充分だったし、書き手も読み手もそれ以上のことなどできなかったし、期待してもいなかった。一部の書き手と読み手を除いてであることは言うまでもないことですが。
その面倒くさい言葉は、「なんとかかんとか云々装置」であったし、「なんたらニウムという新元素」であったりもした。それで充分だった。というのも、それは「なにものでもなかったから」だ。ただ「なにか出てるなぁ」で済んだものだったからだ。「なにか出てるなぁ」を超えたものなど、読み手は期待していなかったし、書き手も考えることなどなかった。
当時はそれでよかった。「なんちゃら装置」で、読み手はそれを科学っぽいと、未来っぽいと、宇宙っぽいと思ったし(いや、思わなかったかもしれないが)、書き手もそれで科学っぽさや未来っぽさ、宇宙っぽさになったし、充分だと思った(いや、思わなかったかもしれないが)。
パルプ系フィクションの用語は、まさになんでもよかった。それはなんでもなかったのだから。科学技術っぽい、あるいは未来っぽい、それとも宇宙っぽいフレーバーを感じさせるだけだったとしてもだ。あるいはそういうフレーバーを感じさせられるだけでよかったし、そういうフレーバーを感じさせることだけが目的だった――もちろん、考えてみればそれにはセンスが必要だろうことはわかる。あるいは、パルプ系として探偵ものも無視できない。「指紋」が出てきたあたりから、捜査や分析にそれっぽい用語を使うことが、それっぽさや意外さを出す演出となっている。
では現在に話を戻して、そのあたりのライト・ノベル、軽めの小説などなどを眺めてみて欲しい。そこには、「なにものかである用語」は、雰囲気作りだけではない用語は存在しているだろうか? ここで注意して欲しいのは、その用語の中には実在するものもあるという点だ。だが、実在する用語を使うことが、その用語が「なにものかである用語」であることを意味するわけではない。それっぽさを演出するだけのために使われている、面倒な、あるいは耳慣れない言葉であるにすぎないことが多々ある。
そこで言うなら、クラークが言った世界にあなたはすでに住んでいるのだと自覚して欲しい。ただ、「科学技術によってそれができている」と知っているのみにすぎないのだ。ではそれは、「魔法によってそれができている」と知っているのみというのとどこがどう違うのだろうか? 結局、世の人々はすでに「魔法の世界」に住んでいるのだ。
たとえば、現在の情報系の技術を見てみよう。あなたの目の前にある計算機やスマホは、あなたにとってなんだろうか? 中でなにがどのように動いているのかを知っているだろうか。外となにをどのようにやりとりして動いているのかを知っているだろうか。知ってなどいないと書いておけば、まぁ、ほとんどの人に対しての正解となるだろうから、そう書いておこう。
そして今、あなたは魔法の世界の住人として、魔法としての用語を使っている、あるいは使おうとしてる。それによって科学技術っぽい、未来っぽい、宇宙っぽいフレーバーを出せるだろうと、あるいはむしろ現実味を出そうと、もしかしたら考えているのかもしれない。だが、そのようなフレーバーの出しかたは大昔の方法であり、「なにものでもない」ものやことがらを指し示すことしかできない。だが、「なにものでもない」ものやことがらに名前をつけたとしても、それはいったいなにを指し示しているというのだろう? あるいは、読み手にとってそれがなんなのかがわからない、実在する用語を出すことにどれほどの効果があるだろう。結局フレーバーにしかならないのだ。
だが、パルプ系の全盛期からは100年、あるいは短いとしても50年が経った。今はもう、フレーバーのための用語で、書き手も読み手も満足していい時代ではないと思う。
たとえば、TVでもネットでも、科学番組なり科学についての啓発番組でも見てもらったとしよう。科学者やナビゲーターがどれほど噛み砕いた、あるいは理解しやすい話しかたをしているのか、そこに注意して見て欲しい。そして仮に実際の理論や観測から見れば正確ではなかったとしても、できるだけ近いものにしようとしているのかをわかって欲しい――と同時に、「今は細かい話はどうでもいい」という場合もあるのだが。
あるいは、サイエンス・コミュニケータという方々がいる。その方々が、どれほどわかりやすく、そして興味を持たれやすいように公演などを構成し、そして言葉を選んでいるかを知って欲しい。
耳慣れない言葉を使うということが、実はどれだけ大変なことなのかを知って欲しい。そして、耳慣れない言葉がなにものかであるなら、そこには伝える内容がある。その内容を伝えることの大変さも知って欲しい。もちろん、フレーバーではない、なにものかである用語を使ったことがある人なら、そのような苦労にすでに対面しているだろう。
用語によってそれっぽさを出す時代など、もはや恐竜がいた時代と同じくらいの過去の話だ。
もはや現在の科学技術でさえ、世の人々の理解を超えている。SFまわりであれば、それをさらに超えるだろう。そこで必要になるのは、面倒くさい用語ではない。それっぽい用語ではい。雰囲気づくりのための用語ではない。その用語が実際に存在しているとしてもだ。そんなごまかしではない。
そういう言葉を使うにしても、科学者とサイエンス・コミュニケータが直面している絶望に対面せざるをえない。それがなんなのかを伝える言葉が必要だ。
あるいは、こう言ってもいいだろう。ごまかし用語を使うのは、内容がないからだと。内容があるなら、内容を伝えるためにこそ、科学者とサイエンス・コミュニケータが向き合っているものと同じ、あるいはよく似ている問題に向き合わなければならないはずだ――もっともここで、どこまで書くのかという問題にも向き合うことになるのだが。
もし面倒くさい言葉を、それっぽい用語を、フレーバーとして使っているのだとしたら、ただそれだけによって内容がないことを自白しているということを理解しよう。