1−5: 夢、あるいは言葉の限界
「1−1: 正しい日本語」で書いたこととも関係します。
ここでは「夢」という言葉を考えてみます。先に断っておくと、私が知らないだけで、そういう言葉はあるのかもしれません。
夢という言葉には二つの意味があります。一つは寝たときに見る夢。もう一つは、将来や未来において、こうなりたいなとか、こうなったらいいなという夢。
この二つの意味である限り、私が書きたいことの中にはどうやっても書けないことがあります。それは、「すでに確定した未来としてわかっていること」です。確定したといっても、誰かに決められたのではなく、私自身としてそうであり、そうでしかありえないというものです。
未来のことですから、それを「確定した」と書く、あるいは考えるのはおかしいと思われるかもしれません。なにが起こるかわかりませんから。でも、それは問題ではありません。なぜなら、「それはもう確定している」からです。努力? 根性? そんなものとも無縁です。「ただ、それはもうそのように確定している」からです。それが確定しているのなら、他人からは努力とかと見えたとしても、それは努力などではありません。「確定している」ことがらにいたる、「当然確定している、やること」にすぎません。「やるべきこと」ですらありません。「ただ、やること」です。
このようなことがらは、望みでもなく、希望でもなく、願いでもなく、予定でもなく、計画でもなく、想像でもなく、妄想でもなく、ましてや意思ですらありません。「ただ、そう確定している」というだけのものです。
さて、これを説明した上で、では「その確定した未来」をなんと呼べばいいのでしょう? 残念ながら私は知りません。
もし、それを指す言葉がないのだとしたら、もしかしたらほとんどの人にとってそういう言葉は必要なかったのかもしれません。ホモ属の歴史において、ほとんどの人にとってそういう言葉は必要なかったのかもしれません。
ですが、残念なことに私たちはそういう「確定した未来」を持つ人がいることを知っています。知っているはずです。その人たちは、それをなんと呼んでいるのでしょう。
ここでは夢という単純と思えるだろう言葉を例に書きました。ですが、この程度のことすら言葉は書けないのです。ならばこそ、言葉を破壊し、概念を破壊しなければなりません。そうでなければ、このような簡単なことすら書けないのです。これは安易な造語という問題ではありません。それとして呼ぶ概念そのものを人類は持っていない、あるいは持っていても希薄か例外かもしれないのです。人類の歴史を見れば、それを呼ぶ言葉があってもいいはずのものです。それにもかかわらず存在しないのだとしたら、それは人間の認識の外にあるものですらあるのかもしれないのです。こんなに簡単で単純なことがらであるにもかかわらず。
今ある言葉をどのようにうまく使おうかという方向も重要でしょう。ですが、言葉では書けないことだらけであり、人間の認識はそれらによって、あるいは機能によってきわめて強く制限されているという前提に立つことも必要でしょう。