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創作雑感 Revised 1  作者: 宮沢弘
1: 表現
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1−4: 形容と説明、描写は悪手

 文芸においては、形容と説明はただの悪手でしかありません。もちろん描写も悪手です。

 説明が悪手というのは、おそらく異論はないと思います。地の文での説明だけでなく、セリフにおける説明も、もちろん悪手です。これについてもおそらく異論はないと思います。これは、興ざめだからなどという理由ではありません。形容が悪手だというのと同じ理由で悪手なのです。

 形容が悪手というのは、異論があるかもしれません。ですが、一つめとして、こういう場合を考えてみましょう。形容をするというのであれば、「のような」とか「のように」という言葉、あるいは文字列を使うだろう。なら、1ページにしても見開きにしても1話にしても、その範囲にいくつ、そういう「よう」を書くつもりでしょうか?

 話はそれでは終わりません。形容というのだから形容詞も、もちろんそれに加えて数えてみましょう。形容詞を加えるのなら、当然副詞もそれに加えて数えてみましょう。いったいいくつ、それらの言葉を書くつもりでしょうか?

 二つめとしては、書く際にしても読む際にしても、人間の認知能力は極めて限られているということを考える必要があります。文にせよ段落にせよ、長くなればなるだけ、認知能力に負荷がかかります。そのために、書けば書くほど、そこにいったいなにが書かれているのかの理解からは遠ざかるだけになってしまいます。

 三つめとしては、二つめの他に、そもそも形容は曖昧だという理由もあります。

 四つめとしては、それらは直接的だということが挙げられます。このようなことを思い描けと直接書いてしまうだけでしかありません。説明が悪手だというのは、実際にはここから派生したものです。

 この四つによって形容も悪手となってしまいます。しかも、書けば書くだけ、なおさら悪手に突き進むだけとなってしまいます。とくに言うなら、三つめと四つめの組み合わせによって、まず悪手になります。曖昧でありながら直接的という、よくわからないものになってしまうからです。読み手に直接「これを思い描け」と言いながら、その実、その内容は曖昧なものしか提示していないのですから。しかもそれに二つめのものが重なり、曖昧なものはなおさら曖昧になり、しかも理解から遠ざかります。そして一つめがもたらす単調さが加わるのです。これが悪手以外のなにかになることはありえないでしょう。

 では次に描写について考えてみよう。描写と聞いて思い描くものはどういうものでしょう? それはおよそ説明と形容からなるものに近いはずです。そういうことなので、描写も悪手でしかないわけです。


 説明も形容も描写もしない。では文芸においてなにをするのでしょうか。それは表現です。表現されるものがないなら、それは書かれる理由を持ちません。では、表現とはなんでしょうか。表現とは思想のためにあります。表現されるものは思想でしかありえません。では思想とはなんでしょうか。思想とは疑問です。「これこれは、これこれである」というのは思想ではありません。それはいいとこ命題であり、せいぜい言明であり、読み手からすれば「あぁ、そうですか」と受け流すものでしかありません。疑問であってこそ、つまり読み手に問いかけるからこそ思想でありうるのです。

 もちろん、この疑問は、作中における謎というものではありえません。作中に現れた謎なら、それは作中において解決される謎です。それは読み手への問いかけではありえません。

 また同様に、その疑問は、作中において結論が出るものでもありえません。結論がでるなら、結局は、「私はこう考えた」、「私はこう思った」という書き手による命題、言明であり、読み手からすれば「あぁ、そうですか」と受け流すものでしかないからです。

 ここで言う疑問は、読み手にひっかかりを残すものです。それは作中において解決されることはありえず、結論が書かれるものでもありえません。

 もちろん、そのようなことがらであるのですから、読み手は作品に納得するなどということもあってはならないし、あるはずもないのです。もし納得するなら、なぜ書き手は疑問を書いたのかというそもそもの疑問を否定するだけのことになります。つまり、納得するなら、その作品そのものを否定することになるのです。言いかえるなら、その作品は書かれる理由や意義がそもそもなかったという理解をしたということになります。もちろん、それはそのまま作品だけでなく、作者に対しての否定となります。

 このことは特定の作品についてだけでなく、文芸全般に対しても同じように言えます。書き手においても読み手においても、作品に共感や安心や納得や理解というものを求めたり期待するなら、それは文芸を否定しているのです。

 文芸は表現をするものである。表現は思想のためにある。思想は読み手に引っかかりを残すためにある。ならば、共感などなどに対する期待は、その根底を否定するものでしかありません。

 ですが、作品を読むということは、作者の「私はこう考えた」であるとか、作者の「私はこう思った」ということがらに共感することや、共感することによって安心すること、あるいは結末によって安心することだと思う人もいるでしょう。もちろん、そういう共感などなどを求めている作品も多数あります。それはなぜでしょうか?

 ありえないとも思える答えがあります。それは「そもそも作者が疑問など持っていない」、「書かなければならないと思うものなど持っていない」というものです。日本の文芸における自然主義は、「私はこう思った」、「私はこう感じた」を書くことを至上としています。それ以上の現実は存在しないという言い分も、まったくの間違いとは言えないでしょう。そして、下火になったとは言え、あるいは反自然主義への運動を経ても、まだ日本の文芸の奥底には、そういうものが依然としてあります。ただただ共感や安心を求めるのですから、「そもそもとして読み手に問いたい疑問」などは、存在するはずもないし、存在してはいけないのです。

 日本の文芸ではつまらないことをしつこくネチネチと書いたりします。これは気楽さを求める、あるいは提供するパルプ系の作品――あるいは、現代の日本であればライト・ノベルが相当するでしょうか――とは対極にあるように思えるかもしれません。ですが、すくなくともこの「共感など」において、それらは同じものなのです。書くことがらを作者が持っていないのですから、「ボクちゃん、こう思ったの。みんな同じだよね? 共感してね! 共感してね! 面白いって言ってね!」と言うしかないのです。

 さらにはネチネチ書くというあたりについては、それを描写や表現の技巧として見る向きもあります。ネチネチ書くことで分量をかせぐというのは、それはたしかに技巧の一種でしょう。ですが、そういう技巧であるというだけでしかありません。書く内容がないのですから、どこに技巧や巧拙を求めるかといえば、そういう技巧に求めるしかないのです。これは、ベクトルとしては逆の方向かもしれませんが、そういう技巧をまず求めるという点においては、パルプ系の作品――あるいはライト・ノベル――との、もう一つの共通点と言えるでしょう。


 本稿をまとめると、こうなるでしょう。

   - 書かないことによってこそ書く。

   - 思想以外に書かれる理由を持つものはありえない。

   - 共感などを求めるなら、内容がないことを自ら明らかにしている


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