6−6: キャラクター
「3−4: 構成( キャラクター)」で、キャラクターを作ることについて触れた。ここではすこし違う面から見てみたい。
「キャラクターを作ることはそもそも的に可能なのか」という点だ。これについて、「そもそも的に自分のこと以外、わかるはずもない」という方向を取るなら、日本文芸における自然主義が陥った袋小路に向かうしかない。
では、作れるのか? どう作ったにせよ、どういう行動を取らせたにせよ、なにを言わせたにせよ、自然主義の流れ(それには結局反自然主義なども含まれるが)から見れば、「それらは作者の一部」ということになるだろう。人によってはなつかしいかもしれないが、キャラクターの行動やセリフを持ってきて「ここで作者はなにを言いたかったのか」というような国語の問題を思い浮かべてもらえばいいかもしれない。まぁ、笑い話として、作者に直接聞いたら「字数をかせぐため」だったというようなこともあるが。
さて、キャラクターに機能以外の肉付けをしたいのであれば、方法はある。そのためには、すこしこれを考えてみて欲しい:
自分とは誰なのか。どのように定義するのか
という問題だ。これは馬鹿げた疑問だろうか? いや、そうではない:
あなたは、今、これを読んでる
のであるから、内容を理解しようとしまいと、賛成しようとしまいと、あなたは私自身のの影響を受けている。そして、受けた影響は、あなた自身のことである。この「私自身のこと」なしに、その「あなた自身のこと」はありえただろうか(もちろん、ありえる。この論はすでに存在しているからだ。それを知っているなら、私自身のことによる影響などないようなものだろう)。そして、私が、このような私自身のことを書いたということは、書いていることに賛成しようがしまいが、あなたに転写されている。私自身のことを、あなたは知っている。すこしの訓練を行なえば、このような私自身のことを知らなかったあなた自身のことと、知ったうえでのあなた自身のことを区別できる。
ここで、もう一度簡単な問題に戻ることができる。つまり:
自分とは誰なのか。どのように定義するのか
だ。一つの答えは、「そんなものは存在しない」である。あなたは、もちろん私も、他人からの転写の集まりだ。そして一つの答えは、「それは存在する」である。あなたは、もちろん私も、他人からの転写の集まりだ。幻想としての自分自身などというものは存在しない。だが、転写の集まりとしての自分自身は存在する。誰からの転写か、どのような転写かは、人によって違うだろう。
そして、もう一つの答えがある。「あなた自身は、人間の進化の過程を引きずっている、ただの本能の集まりにすぎない」というものだ。ここにおいては、自分自身などというものはただの妄想だ。あなた自身もそれがあると信じている妄想だ。そんなものは実際には存在しない。だとするなら、自分のこととはいったいなんなのか。ある状況において、あなたはなにかを感じた、あるいはなにかを考えた。だが、それは妄想だ。感じたと思う妄想であり、考えたと思う妄想だ。人間の脳が空白の石版であるという神話は、すでに崩されている。日々、進化の過程を引きずっているにすぎないと確認されている。あなたは、なにかを「怖いと思った」のではない。「ある反応によって、それを怖いと思ったという妄想が生じた」だけだ。あるいはなにかに共感したとしよう。それに共感する回路が脳に生得的に存在するだけだ。あるいは、共感するような回路を脳に構成するための生得的な機能、ないし情報によって、それに共感する回路が脳に構成されただけだ。
では、その前提で、キャラクターを書けるのかどうかを考えてみよう。
まず、私は私自身ではないし、あなたはあなた自身ではない。確固たる自分自身というものと、自分自身などというものはどういう形でも存在しないという、二つの立場の隙間にこそ自分自身がいる。自分自身であってもそこにしか存在できないし、その自分自身は実のところ自分自身ではない。数多くの転写の集りだ。ここにヒントがある。
あとはその隙間にあるものをどうにかして掬い取ってやればいい。条件を変えて何回でも掬い取ってやればいい。
ただし、二つだけ例外がある。それは「天才」と「狂人」だ。それを合わせた「マッド・サイエンティスト」というものもフィクションにおいては存在する。あなたは「天才」だろうか。たぶん違うだろう。あなたは「狂人」だろうか。たぶん違うだろう。あなたの中から「天才」や「狂人」を掬い取ろうとしても、それはすでに「作られた天才」であったり、「作られた狂人」でしかない。
その結果、小説家になろうにおける作品に限らず、プロ作家の作品においても「都合のいい道具としての天才」や「都合のいい道具としての狂人」がはびこることになる。
先に「共感」という言葉を使ったりもしたが、この二つにおいては「共感」のためのものではないように思う。
ここで天才と言えば「推理モノ」だという私の偏見から書いてみよう。
推理モノでは、おおむね、「数百人の人の中から十人程度の容疑者を絞り込む」過程は描かれない。個人的にはよくある推理モノよりも、こっちのほうがすごいと思うのだが。対して十人ほどのなかから、一人の容疑者に絞り込むことが多かろうと思う。一人に絞り込むのではなくとも、背景にある事情を絞り込むのでも同じだ。数百人の背景を精査するなどということは、おそらく書かれないだろう。数人から一人の背景というところか。そしてそれを行なうのは「天才(的)探偵」だ。いや、まぁ探偵には限らないが。
では、この「天才(的)探偵」とはなにものなのだろうか。もちろん、なにものでもない。作者が都合良くでっちあげた出来事を、都合良く解釈し、都合よく読者に示してくれる道具にすぎない。
では、そういう謎解きも含めて、読者はなにを期待しているのだろう? 謎の真相だろうか? そんなものは作者が都合良くでっちあげたものにすぎない。ついでに言うなら、話の最後から読めばいい。だから、違うだろう。
謎の真相が解明されることによるカタルシスだろうか? 繰り返して言っておくが、推理モノなどは作者が都合よくでっちあげたものだ。そんなものでカタルシスを得られるとしたら、ずいぶん安っぽいものだ。だから、違うだろう。
だとしたら、「天才(的)探偵」が解明したことを自分も理解できるという快感だろうか。まぁ言うなら「天才願望」とでも言えるのかもしれない。
「天才は理解できないとしても、それが行なう行為(つまり謎解き)は理解できる」というのは快感かもしれない。だが、それは結局、作者が都合よくでっちあげたことがらを「天才(的)探偵」が説明してみせたという、ただの自作自演でしかない。それを「理解できる」と思うことも、それによる「快感」も、ずいぶん安っぽいものだ。いっそ、「あ〜! そうだったのかー!」が定番だった作品のほうが清々しさすら感じる。
さて、「天才」と「狂人」を挙げてみたが、実のところこの二つに限らないようにも思う。「異性にモテてしょうがない(いや、べつに同性にでもかまわないが)」でも、「主人公最強」でも、そんなものを「都合良く作られたそれら」以外として、自分の中に転写されている人など、そうはいないだろう。「主人公最強」は、まだ武術の師範なんかで見たことはあるかもしれないが。
さて、そういうわけでまとめてみよう。あなたに「天才」などは、書けるのだろうか。すくなくとも「人間らしさ云々」を持ったキャラクターとして書けるのだろうか。答えは簡単だ。「あなたが天才( など)でないかぎり書けない」、あるいは「身近に天才( など)がいないかぎり書けない」。どっちにしろ、ほとんどの作者にとって、それらは書けない。あなたの中から掬い取れる要素がないからだ。掬い取れたとしても、「誰かが作った都合のいい天才( など)」を掬い取ることしかできない。
そのため、作品の中におけるそれらは、ただのガジェットとしてしか扱うことができない。これはプロ作家、さらには大家と呼ばれる人でも同じだ。
だけれども、そういうキャラクターをキャラクターとして出したいという欲求はあるのかもしれない。そのための言い訳を用意してくれるのが、「キャラクターの設定表」だとか「キャラクターの特徴表」だとかというものだ。なるほど、それを埋めれば、そのキャラクターのことがなにかわかった気持にはなるかもしれない。だが、そのキャラクターは、中に綿が入った縫い包みですらない。言わば陶器人形だ。表面はガチガチにできているかもしれないが、中身はがらんどうだ。
そういうキャラクターの行動は虚しいばかりで、言葉は「4−4: 引用と用語の借用」で書いたように、「誰々はこう言ってたもん。それって正しいと思うもん。だって誰々が言ってたんだもん」という空虚なものだ。オートマタのほうが、ずっと中身に対しての興味を持たせる。そんなキャラクターだ。さらに言うなら、そういう作を書く作者にも同じことが言える。「4−6: オリジナリティ」でアイディアの消化というようなことを書いた。誰かの言葉をキャラクターに喋らせる作者には、どれほどの中身があるのだろう。答えは簡単だ。その作者には中身などはない。アイディアを消化していないのだ。いいとこ、なにかを放り込んである柳行李でしかない。
だが、もし、すべてのキャラクターをガジェットとして扱うなら、そこにはある種の一貫性が生まれるかもしれない。古いパルプ系の作品などは、言ってしまえばそういうものだ。にもかかわらず、ル=グインが言う亜神話となっているものもある。なにがそれらを亜神話とするのか。ル=グインは活力と言っていたが、実際のところそれがどういうものなのかはわからない。