6−5: リアリティ (文章技法)
リアリティというのは難しい。それはファンタジーだから、SFだからというような話ではない。虚構において、あるいはノンフィクション、ドキュメンタリーにおいてすら難しい。
ただ、言ってしまうのは簡単ではある。かなり昔にもリアリティについて考えたことがあるのだが、いまだに「それらしく感じられる」というだけよりもいい根拠は思いつかない。し、「それらしく感じられる」こと自体の根拠もよくわからない。だが、たんに「リアリティ」とだけ書くよりも、こう言い換えただけで、わずかばかりではあってもなんとなく、どうすればいいのかが見えるようにも思う。
では、文章技法としてはどうなるだろう。たとえばこんな例を考えてみよう。なお元ネタは虚構新聞だ:
私は両足を揃えて立った状態から、右足を30cm前に出し、
それととも重心もそちらに移しながら、右足を地面につけた。
続いて左足を60cm前に出し、それとともに重心もそちらに
移しながら、左足を地面につけた。…… 私は右足を60cm前に
出し、それととも重心もそちらに移しながら、右足を地面につけた。
続いて左足を60cm前に出し、それとともに重心もそちらに移しながら、
左足を地面につけた。……
これがたとえば30分の移動中や散歩の間にずっと続いたとしよう。まぁ、それが「リアル」であることを否定する人はいないだろう。おっと、この「リアル」は「現実」という意味ではない。「リアリティよりも、なにがかは知らないがもちっと具体的」くらいの意味だ。では、そこにリアリティはあるだろうか。実験文学や、ほかのものであっても特別な条件をつけなければ、あると答える人は…… まぁ変わり者だろう。
これはあくまで文章技法の話だ。それもとても単純な部類の。だが、文章技法においては、リアルに書くことがリアリティに繋がるわけではないということはわかる。
ではどうするのか。抽象的にするとか細部は省くとか、それか書かないかだ。たとえばこのように:
私は30分散歩した。
あるいはこのように:
私は駅についた。
実際にどう思われるかは知らないが、上のものよりもコッチのほうがリアリティはあるだろう。
これは「1−4: 形容と説明、描写は悪手」で書いたこととも通じる。書けばいいというものではない。むしろ、いかに書かないかが重要だ。
もちろん、「(作品にとって)細部こそ重要」とか「(リアリティにとって)細部こそ重要」という意見もあるだろう。それを主張するなら、上の例のように、全編が書かれているものを書いてから言ってほしい。たぶん、そもそもできないだろう。それなら、どういうやりかたかは知らないが、細部を省くなどのことをどこかでやっているのだ。そして、それができるというのは文芸の特徴でもある。
映画を考えてみよう。一画面だけでいい。そこにはカメラに映ったものが全部映っている。合成やCGがあたりまえの昨今の映画では、そう単純でもないのだが、そこは置いておいて欲しい。映画では一画面だけでも、あるいは一カットだけでも、映ってしまうものは全部映ってしまう。「一画面のここは映さない」というのは、原理的にはできない。ではあっても、とくに古い白黒の映画を観てもらえたらと思う。光、あるいは影の使い方がすばらしい。光、あるいは影の使い方によって、「細部の省略」や、「焦点をあてているところ」を実現しているとも言える。別の見方をすれば、心情の表現と言われることもある。
すこし話がずれてしまった感があるが。文芸においては、ただひたすら書く。あるいはそれは列挙するのに近いかもしれないが。それは、そもそも的に「できないこと」となっている。すくなくとも「見えることがら」についてはそうだ。
それに対し、ただひたすら書くという方向を取れる部分もある。自分自身やキャラクターの内省、つまりは考えたり感じたことだ。だが、それもまた、おそらくは意識されない省略がなされている。上の例に戻ろう。これを主人公の意識していることがらとして読んでみて欲しい。ここでもかなりの省略がされている。すくなくとも、どの筋肉を動かしというあたりは省略されている。
そこで、こうまとめてみようかと思う。リアリティとは省略である。
あるいは、以前ツイッターで書いたことだが、脳直結――そうでなくてもかまわないが――のVRMMOがあったとしよう。その場合、サーバ側でユーザに伝える情報を全部計算して伝える必要があるだろうか。それは現実的ではないだろうと思う。むしろ現在のオンラインゲームなどにおいて、サーバからの指示によってクライアントが見えているものを描くように、そういうVRMMOにおいても人間の脳の連想などによって、人間側で画面などの構築をする方向もあるだろう。それが可能かどうかはしらないが。だが、文芸はそれに近いだろうと思う。膨大な文字数やbit数によって描き出すよりも、受け手の脳にいかに訴えるか。つまりは、受け手の脳自身によって、言ってしまうなら、いかにして誤解させるか。それがリアリティの一つの側面ではないかと思う。
こちらから見てもやはりこうまとめられるだろう。つまり、リアリティとは省略である。