5−2: 思弁・思索(それは本当に問題なのか?)
思弁・思索について考えるさいには、「それは本当に問題なのか?」を、まず考える必要がある。
たとえば、ある人が実は養子だったとしよう。そして、その人の遺伝上での父親(あるいは母親)が現れたとする。これはなにか問題となるだろうか?
あきらかに、それだけであれば問題になりえない。相続とかなんとかという話においてどうなるのかは知らないが。
問題になりえないと言い切っていることに疑問を持つ人もいるかもしれない。ならば、いったいなにが問題になりえるのか? その人が実際には誰かということか? そんな問題は存在しえない。その人はその人であるからだ。
こう書いていると、こういう声も聞こえそうだ:
本人にとっては問題ではないのか?
もちろん、本人にとっても問題になり得ない。もし問題になるのだとしたら、そもそも、そしてそれまでは、その人はいったい誰だったというのだろう?
あるいはこういう声も聞こえてきそうだ:
本人でもないのになにがわかるのか?
そう。わからない。その上で、一つだけ書いておこうと思う。この問題であれば、一言くらいは私が言ってもいいだろうと思う理由だ。幼少のころ、養子の話が来た。私の両親になにか問題があったのではなく、養子にもらえないかと言ってきた家において子宝に恵まれなかったからだ。さて、ここはちょっと普通ではないかもしれないが、私の両親は幼少時の私に、その話をした。だから私も考えもした。もちろん、遺伝上の親がいることを知らなかったというのとは違う。だが、どうだろう? 一言くらいは言ってもいいのではないかと思う。
あるいは拙作の場合「人間はなぜこんなにバカなのか」を、テーマだとか、あるいは扱っていたりもする。これは、人々の行動を観察して得られた、私にとってのパラダイム・シフトだった。人間は考えている「はず」であるというのが、それまでの持論だったのだが、それでは説明がつかないことのほうが多過ぎるのだ。それに対し、「人間は考えてなどいない」という前提を持ってくると、多くの疑問が存在しなくなる。残るのは「それでもごく一部の人たちは考えているように見える」のと、「そういう人たちはどのように考えているのか」くらいだ。
つまり、「人間が考えているとはどういうことか」という問題は、問題の立てかたが間違っていた。「なぜほとんどの人は、一部の人の能力に対するフリー・ライダーなのか」という問題を立てなければならず、あるいは「なぜ、人間は――おもにフリー・ライダーがだが――考えていると勘違いしているのか」という問題を立てなければならなかったのだ。まぁ、後者は日本の場合であれば学校教育によるということになるのだろう。学校教育が悪いと言っているわけではない。その前提によると書いたほうが適切かもしれない。「人間の能力は( おおむね)等しい」という幻想がだ。
あることがらが問題であると考えたなら、それが本当に問題なのかを考えてみる必要がある。それはただ、あなたにおいてのみ問題であるのかもしれないからだ。あるいは、それは安っぽい問題であるのかもしれないからだ。
さて、私に養子の話があったというのは本当のことだろうか? どうであるにせよ、いろいろな方面から考えてみよう。