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創作雑感 Revised 1  作者: 宮沢弘
5: 思弁
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5−1: 思弁・思索/メッセージをどう書くか

 「1−4: 形容と説明、描写は悪手」と、「7−1: 読むとはどういうことか」(予定)とも関係しますが。

 思弁や思索をどうするかは、どの文芸においても考える必要があることでしょう。


 私はSF人であって、SFとはスペキュラティブ・フィクション(あるいはスペキュレイティブ・フィクション)である派です。そうであるとともに、作の中で思弁や思索を書くのは避けたほうがいいとも考えています。私自身の作でどうなっているかは無視してください。ともかく、地の文でも、セリフでも、作者の思弁や思索を書くのは避けたほうがいいと考えています。

 「スペラティブ・フィクション派であるにもかかわず、それを書かないのか?」と思われるかもしれません。はい。書くのは避けたほうがいいと考えています。理由は、「1−4: 形容と説明、描写は悪手」に書いていることと同じです。

 作中における思索や思弁は、説明などとは違うという意見もあるでしょう。これについては、違う場合もあれば、そうでない場合もあるとしか言えません。


 ここで問題になるのは、思索・思弁の主体は誰なのかということです。主体は作者でしょうか。もちろん、そうです。しかしそれは半分でしかありません。思弁・思索の主体は作者と読者です。思弁・思索において読者は受け取るだけの存在ではありません。「7−1: 読むとはどういうことか」(予定)に書いたように、読むとは能動的な行為です。

 読むという行為を能動的なものとするのは、誰でしょうか? もちろん、読者であり、読者の姿勢です。ですが、これもまた半分でしかありません。作者と読者が、読むという行為を能動的なものにします。思索・思弁の主体も、同じく作者であり、読者です。


 ここで、問題がおこります。というのも、作者の思弁をそのまま書いてしまうということです。それがキャラクターの思弁という形をとっていたとしてもです。

 そして、こう言ってかまわなければですが、そのような思弁をありがたがる読者が存在します。そして、思弁を作者が作中で、どういう形であれ、述べる小説をこそ思弁小説だと誤解する読み手と書き手が存在します。それは、プロでさえです。

 「1−4: 形容と説明、描写は悪手」では、書く内容は疑問であり思想だということを書いていました。作中の思索・思弁について、ちょっとハードルを上げましょう。

 思索や思弁は作中に現れないのが望ましいと考えます。ついでにこう考えてみましょう。思弁や思索を書くのは簡単です。ですが、それを書いてしまうのは逃げです。

 作中には思索や思弁は現れないにもかかわらず、まさにその疑問を読者が考える機会を用意する。あるいは、それは設定にさえ現れないのがベストかもしれません。まったく現れないというのは、思弁や思索の内容によってはかなり無理があるでしょう。そこでこう考えてみましょう。「すくなくとも、それに直接的には触れずにどれだけ書けるか」。あるいは、「疑問を訴えるにしても、記述はどこまで減らせるか」。もし、記述がなくてもかまわない可能性があるなら、それらはおそらくいらないのです。あるいは、使わない、書かない方向を検討する必要があるのです。

 直接は書かないのだとしたら、状況、表現によって、読者が読みとるようにするのが望ましいでしょう。もちろん、それだと読み取られないかもしれません。ですが、そこで思索・思弁を書くのは逃げです。読み取れるように状況や表現を作りましょう。そして、可能なら、読んでいる最中には思索・思弁にはまったく気づかないようにしてしまうのが最良です。読み終わって総括したときに、「あぁ、そういうことなのかもしれない」と気づくのが最良です。

 もし、それでも書かなければならないと感じるのであれば、それは「2−3: わかりやすさ(世界・設定)」に書いたように、それがなんなのかを書き手自身がわかっていないのかもしれません。

 そしてもう一つ。「2−2: わかりやすさ (用語)」に書いたように、思索・思弁は、書くにせよ書かないにせよわかりやすさが第一です。それは、簡単な疑問の形を取るという話ではありません。もちろん、簡単な疑問なのではなく、根本的な疑問こそ扱う価値があるものです。それは、根本的であるがゆえに、簡単な疑問の形をとるかもしれません。あるいは、複雑な思弁になるかもしれません。ですが、複雑な思弁だとしても、それをどれだけわかりやすく書けるか、そしてさらには書かずにすら書くことができるのかも考える必要もあるのかもしれません。

 さて、この最良なのと、悪手なのの間には、実ははっきり目に見える違いがあります。大雑把に言えば、最良な場合、作中のあらゆる場所に分散して書かれており、隠れて書かれており、背後に書かれています。もちろん、それは書かれていないと書くこともできます。

 それに対し、悪手なのは、「ここに書いてある」と指差すことができるものです。

 なぜ、それが悪手なのでしょうか。話は簡単で、描写とかについて書いたのと同じく、「こう思え」と読み手に押し付けてしまうからです。あるいは、もっと単純に言えば、白けるからです。

 思索や思弁は存在しなければなりません。それと同時に、存在してはなりません。

 面倒くさい話です。ですが、おそらくはただ、それがなんなのかを書き手自身がわかっているならば、それができる可能性はあるだろうと思います。


 あるいはメッセージと思索・思弁の違いをついでに考えてみます。

 思索・思弁は「こういうことについてどう思うだろう」という読者への問いかけだとします。対してメッセージは「私はこう思う」だとします。この場合、はっきりした違いがあります。思索・思弁では答えを出していませんが、メッセージでは答えを受け入れることを読み手に要求しています。

 ジャンルによっては、そういうメッセージこそ思索・思弁と思われているようです。ですが、先に書いたように、この稿では思索・思弁の主体は書き手と読み手の両方と考えています。ですから、このようなメッセージは思索・思弁とは別のなにかと考えます。それは、むしろ共感を求めていることがらなのかもしれません。ですが、はっきり書いてしまえば、思索・思弁は読み手にとって、あるいは書き手にとっても、不快なものです。素直に共感し、そのまま受け入れるのは難しいことがらです。だからこそ、読み手にザワザワとした感覚を残し、そのために読み手も考えざるをえないようなことがらです。


 自身の作品において、思索・思弁、そしてメッセージを意識されている方は、もう一度、自身が思索・思弁、メッセージをどう考えているのかを意識してみるのもいいかもしれません。


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