4−3: 設定・考証(世界の構築)
「3−1: タイトル」にて、タイトルに見られるのかもしれない傾向をちょっと書きました。今回は、世界設定に感じる傾向についてです。直接関係しそうなのは、相変わらずファンタジー、SF、それともしかしたらホラー、というくらいですが。
比較的最近見られる傾向は、実は一言で言えてしまいます――いや、昔からあるんですけどね。それは、「アンバランス」です。どこにどのようなアンバランスが存在するかは、作品によって違うように思いますが。いくつかの技術の間に見られるアンバランスもあれば、技術と文化の間に見られるアンバランスもあれば、文化のいくつかの側面の間に見られるアンバランスもあります。
古くからあるのは、技術と文化の間のアンバランスでは、「発達しすぎた科学技術によって云々」というものです。ですが、これはどうなんでしょう? 「発達しすぎた科学技術」。べつにかまわないんじゃないでしょうか。でも、そこで書かれたりするのは、「人間は悪くない」という言い訳であるように思えます。それはどうなのかなぁ?
それはともかく、どういうアンバランスであっても、そこに独自色がちゃんとあれば、それはそれでかまわないのですが。比較的最近見られる傾向は、強く言うなら、「あっちの作品からあれを持て来て、こっちの作品からこれを持って来て、そしてくっつけた」感のあるようなアンバランス。それはどうなのかなぁ? まぁ、そう感じているだけですが。
そういうようなアンバランスを、具体的にどう説明するのが妥当なのかはわかりません。可能性の一つとしては、たんにいろいろなサブジャンルが開拓されたというだけかもしれません。ものによっては、スチームパンクにおける懐古の流れからの派生があるのかもしれません――これが結構多いように思うのですが、どうでしょう? その懐古の流れは、どこから来ているのでしょうか――「最初からだ」という説もありますが。一つにはわかりやすさであり、言いかたを変えれば想像力の限界だろうと思います。その限界が、作り手の限界なのか、それとも受け手の限界を作り手が考慮したことによるのか、それはわかりません。
「アンバランスでも、練ってあればいいじゃないか」という意見もあるかと思います。さて、では質問です:
そのアンバランスは成立するのでしょうか?
科学とか科学技術の発展には、あるていどの順番があります。地球の人類の歴史の順番そのものではなく、多少の前後はあるかもしれません。ここでは、退行とか喪失、そしてそれらからの回復は無視します。
たとえば、ニュートンの時代とかその直後に、「重力波天文台」が構想されることはありえません。ニュートンの理論には、重力場も重力波も存在しません。にもかかわらず、突然、「重力波天文台を作ろう」という人が現れると考えるのは、かなり無理があります。数学でも物理でもどれでも同じです。「まず、この前提がなければ、次のこれは出てきようがない」という順番がそれなりにあります。そして、科学の各分野は相互に影響するので、科学そのものにも、発展とか発達の順番がそれなりに存在します。人類とまったく同じ順番とは限りませんが。
これは科学技術の中だけでなく、科学と文化の間にも言えます。印刷技術がない時代に、情報を大量に広めようとする発想が出るでしょうか。「どうにかできないか?」とは思うかもしれません。ですが、どうにもできません。どうにかしようとして、多くの筆耕を集めて筆写するという方法はとれます。もしかしたら銅版印刷でどうにかするかもしれません。さて、ではその方法や状況と、今の出版なんかの様子――あるいは江戸時代の瓦版や暦でもかまいませんが――を比べられるでしょうか。量の差ではあります。それであるとともに、識字率という話もあり、質の差でもあります。識字率が低い状況で、大量の出版をしてどうしようというのでしょう? 識字率をどうにかしようとしているくらいしか適当な理由は思いつきません。仮にそういう理由だとしても、ではなぜそういう理由が必要になったのでしょうか。
あるいは、機械は発達してるのに、印刷技術がないか貧弱という設定も考えられるでしょう。機械が発達していれば、マニュアルが必要なはずです。ネジ一本にいたるまですべてが一品ものの機械でないかぎり、そこには印刷技術が必要なはずです。そして、マニュアルがあるということは、識字率が高くはないとしても低くはないはずです。だとすれば、そうであるにもかかわらず文盲が大半を占めるという社会というのも、「どうなんだろう?」と思えます
このように、科学技術も含めた文化の発達とか発展も互いに関係し、そこそこの順序があります。
そういうことを確認した上でですが、もう一度確認しましょう:
そのアンバランスは成立するのでしょうか?
「絶対に成立しない」というものもあれば、「そうとも言い切れない」というものもあります。その見極めは必要です。また、「どうにか」というところでやっている作品もあります。そして、「どうにか」を簡単にやってしまう方法として、「遺物」とかそれに近いものを出すという方法があります(「南蛮渡来」でも可)。ですが、「どうにか」というところだと、根本的に無駄な努力です。
なぜ、無駄な努力なのでしょうか。それは、「借りものを貼り合わせただけ」だからかもしれませんし、あるいは「比較的容易に想像できる範疇でしかない」からかもしれませんし、「都合よくなにかを持ち出した」からかもしれません。そういう作品を、読む側であるとか視聴する側からすると、無駄な努力の理由はどうあれ、底の浅さを感じるのです。
ですが、「どうにか」というアンバランスは作る側にとっても読んだり観たりする側にとっても魅力的なようです。それはもともと「むりやりくっつけた」という、そもそも的なアンバランスが魅力を感じさせるのかもしれません。それが「社会の危機」のように受けとられることもあるのかもしれません。あるいは、作る側にとっては「それが簡単だったから」にすぎないのかもしれません。
その世界はどういう世界なのかを設定するにあたって、おそらくは根幹となる部分が必要なのだと思います。そしてそれは、「3−4: 構成( キャラクター)」で書いた:
投稿サイト界隈で見かけるのは、「キャラクターの特徴を書き出して」
というようなものだろう。投稿サイト界隈だけではなく、もしかしたら
あちこちの創作論でもそう書かれているのかもしれない。
という、外堀から埋めていくのとは、おそらく逆の方向になるでしょう。「どうにか」というアンバランスも、やはり「くっつけた」、つまりは外側から決めたもののように思えます。
キャラクターにしても世界にしても、外側を書けばいいのだし、結局は外側しか書けないのだという意見もあるでしょう。あるいは、レトリックないしは見せかたが――文章にせよ映像にせよ――重要なのだという意見もあるでしょう。それはそのとおりかもしれません。ですが、別の可能性を考えてみるのも無駄ではないと思います。
ところで、どのようなものであるにせよ大仰な世界設定はいらないジャンルも存在します。おおざっぱには現代モノが該当するかと思いますが。
では、現代モノは、とくに現実に近いものは、その分の労力を「話を練る」方向に使えるということでしょうか。あるいは「話をより練らなければならない」ということでしょうか。残念ながら、すこし違います。
先に、「(世界の設定には)根幹となる部分が必要」と書きましたが、現代モノの場合、ここをあまりいじれません。対して、ファンタジーでもSFでも、そこに手を入れられます。この話と「話を練る」ということとは無関係ではありません。「3−2: 捨てろ!」で、こう書きました:
というあたりで考えると、やたら長い作品においては、「なにを書く
のか」と「どう書くのか」の主客転倒がおきているように思える。
主客転倒は無視してください。世界設定ができるということは、「なにを書くのか」と「どう書くのか」と関係します。「なにを書くのか」と「どう書くのか」を、より効果的に見せる世界を作れるということです。対して現代モノの場合、とくに現実に近いものの場合、そこには手を出せないか、出しにくいでしょう。
別の言いかたをするなら、ファンタジーとかSFでは、「世界設定と、なにを書くのか」は不可分か、それに近いはずです。「どう書くのか」は、もしかしたらくらいかもしれませんが。「どうにか」というものに個人的に感じる底の浅さは、結局のところここの問題なのかもしれません。
対して、現代モノ、とくに現実に近いものの場合、なにを書くのかとどう書くのかをより効果的にする方法を持たないのです。それはつまるところ、「なにを書くのか」について限定することになり、その限定によって「どう書くのか」を問題にせざるをえないこととなるでしょう。
ファンタジーやSFでは「なにを書くのか」を中心にして、「世界設定」と「どう書くのか」についての自由があります。その自由はあまりに広い自由なので、その手綱を取ることすら難しいかもしれません。
その世界がどういう世界なのかを設定するにあたっては、“IF”が重要と言われたりもします。もっとも、あれやこれやのジャンルや作品で“IF”は入っているはずです。「もし、こうだったら」が存在しないと、話そのものがはじまらなかったりします。
たとえば、ミステリーで、「山荘に何人かが集まって、美味しい料理と温泉を堪能して帰った」とします。それ、ミステリーじゃないじゃん。「もし事件が起きたら」が必要です。
あるいは恋愛で、「そもそも恋愛やそれに近い状態に陥らない」とします。どうやって、それが恋愛ものになるんでしょう?
ヒューマンドラマだって、「ある状況がはじまらなかった」ら、いったいなにを書くのでしょう?
まぁ、それはそれとして。
世界の構築にあたって、“IF”をいくつも使っている作品もあります。それってどうなのでしょう? “IF”はすくないほどいいと思います。
なお、表面的にはいくつも“IF”を重ねているように見える作品もあります。ですが、読んでみれば、重要なのは一つか二つだったりする場合もあります。ここの区別が問題になります。
「4−5: モチーフなどの繰り返し」(予定)で、「神話素」というものを導入します。これは実際にそういうものがそういうふうに呼ばれているのですが、耳慣れない言葉かもしれません。それでですが、神話素くらいの見方で、使われている“IF”を見てみましょう。そして、「それ、なくても大差ないな」と思えるものであれば、それは重要な“IF”ではありません。そこで、世界の構築にあたっての、その“IF”の重要さを「IF深度」と呼んでみましょう。そして、仮に次のような感じとします:
IF深度 体感など
0 −
1 IFであると意識する対象外
2 IFであるとはいちいち気にしない
3 IFであるとはわかるが、細かいことは気にならない
4 IFであるとわかる。状況を成り立たせるのに必要とはわかる
5弱 そのIFについては、説明に相当するものが欲しいと感じる。
なくとも、類推などは可能
5強 そのIFについては、説明に相当するものがないと、世界の理
解に支障を感じる
6弱 そのIFがなければ、世界の維持が困難になる
6強 そのIFがなければ、作品を書いたり作る理由が存在しない
(大人の事情を除く)
7 同上
こういう見方を試してみると、ジャンルや作品において、「必要としている“IF”」や、「「使っている“IF”」そのものに、IF深度の違いがあることに気付くと思います。ミステリで事件が起こるというのはIF深度で4としましょう。ミステリに必要なのは、現実に近い世界を舞台にするなら、ここまでのIF深度です。ほかのジャンルや、個別の作品についても、どの程度IF深度の“IF”を必要としているのか、あるいは使っているのかを、ためしに意識して読んでみてください。
ただし、その際に注意して欲しいのは、IF深度は現実からどれくらい離れているかの指標ではないということです。あくまで“IF”の深度です。それは見た目には、現実からどれくらい離れているかに見えるかもしれませんが、まったくの別物であると考えてください。
というあたりでまとめると、アンバランスとかも含めて、「いかにすくなく、しかしIF深度が大きい “IF”を使うか」が重要だろうと思います。あるいは言い換えるなら「どれだけ鋭く問題を突くか」とも言えると思います。
今回もまとまりのないものになりましたが。今回書いたようなことも意識してみると、面白いかもしれません。