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創作雑感 Revised 1  作者: 宮沢弘
4: 設定・考証
18/38

4−1: ジャンル

 ファンタジーとSFは、他のジャンルとは根本的なところで違っているというあたりについて。


 小説家になろうのジャンルは、こうなっている:

   - 恋愛

   - ファンタジー

   - 文芸:

     - ヒューマンドラマ

     - 歴史

     - 推理

     - ホラー

     - アクション

     - コメディー

   - SF

   - その他

     - 童話


 文芸と童話だけ下位ジャンルを挙げているのは、見てわかるとおり、書店などではそれらが独立したジャンルとして扱われていたり配架されていたりするからだ。


 とりあえず、小説家になろうのジャンルの解説を確認して欲しい。

 その中で、説明を見てもわかりにくいものは、ファンタジーとSFだろう。ちょっとそこから見てみようと思う。


 上の解説ページでは触れられていないし、他の方の基準とは違うかもしれないが、ともかくファンタジーにおいては魔法が重要だとしよう。その時点で、ファンタジーは大まかにこのように分類できる:

   - ハイ・ファンタジー

   - ファンタジー

   - ローファンタジー


 これはなにによって分けられるかと言えば、基本的には魔法による。

 ハイ・ファンタジーと言われた場合、どのようなものを思い描くだろうか。ゲド戦記( アース・シー)を思い浮かべられた方、かなり近い。指輪物語( ミドル・アース)を思い浮かべられた方、基準が甘い。コナンを思い浮かべられた方、ハズレだ。

 ハイからローは、一つの基準として、魔法がどれほどありふれているかによる。この基準で言うなら、私達が電気を使うのと同じくらいに魔法がありふれているのがハイ・ファンタジーだ。ただのファンタジーは、魔法はあるものの、一定の条件や人物によることが必要なものだ。そしてロー・ファンタジーは、魔法はあるものの、そうそうあるものではないというものだ。そして、もしかしたらあると思われているものの、実はないのかもしれない。

 ゲド戦記はハイ・ファンタジーに近い。ミドル・アースはハイ・ファンタジーとファンタジーの間。あるいはファンタジーの基準として用いてもいい。そしてコナンはロー・ファンタジーに近い。

 ここで、コナンはシャーマンっぽい人がいたり、変身する神官( ?)がいたりすることからハイ・ファンタジーと思われる人もいるだろう。だが、それらの人がありふれてはいない。そこそこありふれてさえいない。

 小説家になろうのジャンルの説明では、現実世界に近いか遠いかだけでファンタジーというジャンルを説明している。これは、一つの選択肢としては悪いものではないと思う。舞台には制限がないからだ。しかし、ロー・ファンタジーの説明で、「ファンタジー要素」と書いてあるのはさすがにいただけない。それはともかく、「現実世界とはそれなりに違う」ということであると、SFとの区別がわからなくなる。さらには、「フェアリーテイル」とか、そういうたぐいのジャンルが存在しないことも問題と言えば問題だろう。フェアリーテイルに相当するものは、その他-童話として投稿されているのかもしれないが、それらは同じものではない。あるいは、ジャンル再編の前後で聞いた話だが、一部はロー・ファンタジーにするという方もおられたようだ。

 それはともかく、たとえば、AD&DのサプリメントにSpelljammerというものがある。あれでは、AD&Dの種族が宇宙船を持ち、宇宙に乗り出している。では、宇宙であるから、それはSFだろうか。そうかもしれないし、やっぱりファンタジーなのかもしれない。

 あるいは、SPACE: 1889という、スチーム・パンクで火星などでも大冒険というTRPGもある。これではエーテルとかフロギストンとかを登場させて、そういう世界だと頑張っている。これはSFだろうか。そうかもしれないし、やっぱりファンタジーなのかもしれない。


 では、SFはどうだろう。ファンタジーの魔法に対して、科学技術という声がでてくるかもしれない。なら、その科学技術の範囲はどこからどこまでなのだろう。

 どこからどこまでなのかというのは重要な点だ。現在はまだ存在しない科学技術を想定したとしよう。それは現実の科学技術の発達により、やはりただの空想だったということになるかもしれない。では、SFはどの作品もいずれは、書かれた時代においてはSFだったが、「今となってはファンタジーだ」ということになる運命なのか。SciFi創作論にも書いたが、ヴェルヌの作は今となってはファンタジーなのだろうか。違うだろう。

 ならば、科学技術は要素にはなるとしても、ファンタジーにおける魔法ほどにすら基準にはならないということだ。

 だいたい、SpelljammerにしてもSPACE: 1889にしても、科学技術の理屈づけはそれなりに行なわれている。そして、それらは言うならスペース・オペラをやろうというもの、それか、

できるというものだ。小説家になろうなら、SFの宇宙ジャンルと、ファンタジーと、どちらにすればいいのやら区別がつかない。

 あるいは「社会派SF」はどうだろう。社会科学という言葉は出てくるかもしれないが、社会派SFにおいては科学技術はどうでもいい。普通にありふれている科学技術が現れるだけでもかまわない。あるいは、時代を遡った科学技術でもかまわない。


 これはまた、「SciFi創作論」で書いたことでもあるのだが、ファンタジーとSFというジャンルは存在しないということでもある。それはただ、小説家になろうのジャンルの説明を見てみるだけでも雰囲気はわかるだろう。そこにおいては、ファンタジーは「舞台」という言葉で説明されてる。SF-VRゲームでは「主体」という言葉が使われているが、SF-宇宙では「舞台」、SF-空想科学では「要素を含む」、SF-パニックでは「舞台」となっている。文芸ジャンルと比べてもらばわかりやすいだろう。文芸ジャンルでは、およそ「主体」なり「主題」なりという言葉を使って説明されている。

 たしかに、「なにについて書かれたものがファンタジー/SFであるのか」であるとか、「なにがおこるのがファンタジー/SFであるのか」というのは説明しにくい。

 では、ファンタジーもSFも、なにをもってファンタジーであり、SFであるのだろう。それはただ、作者がその作品をファンタジーであろうとし続け、SFであろうとし続けるという姿勢のみによってなされるとしか言えない。それは科学において、科学たろうとすることによって科学足りえるのと似ている、あるいはおそらくは同じだろう。

 つまるところ、ファンタジーもSFも、そういうジャンルはそもそも存在しないのだ。すくなくとも定義や説明が可能なものとしては存在しないのだ。だが、ファンタジー好きの人や、SF好きの人にとっては、たしかにそれらのジャンルは存在するだろう。

 なら、言いかたを変えてみよう。他のジャンルでは主体や主題によって、作品が入る箱が現在ではすでに存在しており、各作品はその箱に放り込まれる。対してファンタジーやSFでは、そういう箱はなく、作品の集りによってジャンルが示される。他のジャンルは、作品に先立ってジャンルが存在しているとしても、ファンタジーとSFについては、作品に先立って存在するファンタジーやSFというジャンルは存在しない。さらに言うなら、読書より先に執筆をはじめる人はそうはいないだろう。その読書によって、各人にファンタジーとかSFの概念が組み立てられる。あとは、その概念に合致するか、近いから付け加えられるかというかたちで、さらに各人の中でのファンタジーやSFというジャンルが形作られていく。主体だとか主題だとかによって、「箱」を書けないのだから、そのようなありかたでしかファンタジーもSFも、ジャンルを定めることはできない。

 まぁ、だからSFにおいてはいろいろと論争もあるし、起こりやすいとも言えるだろう。各人の持つSFというジャンルについての概念がそもそも違うのだから。


 というあたりで、論争としてはこういうことが起こるかもしれないというようなことを考えてみよう。

 「SFアクション」あるいは「アクションSF」をSFジャンルに投稿したとしよう。その時点では「SF」であると著者は言っている。なら、「SFアクション」あるいは「アクションSF」から「SF」を除いてもいいだろう。すると残るのは「アクション」だ。ここで、その作品は「SF」なのか「アクション」なのかという疑問が出てくる。

 「巨大ロボットSF」(そういう作品があるとしてだが)にしても同じことが言える。「巨大ロボットバトルSF」(そういう作品があるとしてだが)にしても同じことが言える。「異能バトルSF」(そういう作品があるとしてだが。ジャンル再編で「アクション」に移ってるとは思うけど)にしても同じことが言える。

 巨大ロボットについては補足が必要かもしれない。それは作中において魔法によるゴーレムとどう違うのだろうか。「3−4: 構成( キャラクター)」をすでに書いているから、ここではこう書いてもいいだろう。その巨大ロボットは、ゴーレムとは、作中において果たす機能に違いがあるのかと。違いがないなら、それは巨大ロボットである必要はない。

 あるいは、HMDを使ったり、脳と計算機を接続するという設定の作品のそれなりの割合は、小説家になろうのSF-VRゲームということになるだろう。ちょっとここで、「では、そういう設定でなにが書かれているのか」を考えてみて欲しい。あるいは、そういう設定において、そういう装置、つまりガジェットは作品においてどういう機能を持っているのかを考えてみて欲しい。たとえばの話だが、今どきはないだろうと思うが、雑誌の文通相手募集かなにかがきっかけで、男女が文通をはじめたとする。そして、文通の内容は、架空の世界――ネバーランドでも未来の社会でもなんでもいい――での二人の交流だとする。そこには恋愛だろうと冒険だろうと、なにが書かれるかわからないし、なにが書かれてもいい。そして、もし必要なら、そういうフィクションが書かれたとする。では、その文通や、あるいは作品はいったいなんなのだろうか? HMDを使ったり接続したりしても、起こることはその文通と同じことではないだろうか? では、HMDを使ったり接続したりというのは、SFだろうか? 最低でも、文通によって書くことができることを超えたなにかがなければ、SFと呼ぶにはあまりに寂しいと思う。

 そうなると、こうも言えるだろう。SF風の世界で恋愛ものを書いたなら、それは恋愛ものだ。SF風の世界でミステリを書いたなら、それはミステリだ。

 それはファンタジーも同じだ。ファンタジー風の世界で恋愛ものを書いたなら、それは恋愛ものだ。ファンタジー風の世界でミステリを書いたなら、それはミステリだ。

 ファンタジーもSFも、ファンタジーたろうとSFたろうとする姿勢から生まれる。その姿勢を持たないなら、一見どれほど見事なファンタジーやSFであろうとも、実際にはファンタジーやSFではありえない。その作品はファンタジーやSF以外のものとして書くこともできるだろうからだ。ならば、SFなどという余計な要素は捨てて、そちらで書けばいい。あるいは、SFの要素はあったとしても、SFと名乗る必要などないだろう。


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