3−8: 書くか書かないか
描写などとも関係しないわけでもないが。
私ごとだが、ある方から評された:
予備知識なしで読んだ場合、解釈のほとんどを読者に委ねているからで
す。
このように評されたとおり、解釈を読者に委ねるというのは意識的にやっている。
なぜそうしているのかには個人的な理由がある。もちろん、描写を多くし、解釈も読者が絞り込めるほうが――あるいは、それは曖昧にするだけなのだが――、普通にはいいのだろうが。
理由だが、アイザック・アシモフの「二百周年を迎えた男」(Bicentennial Man)という中編(だろうか?)がある。それを長編化した「アンドリュー NDR-114」(原題: The Positronic Man)がある。
この長編版は実に見事な、とんでもない長編化だ。中編のほうを読んで、まぁ一ヶ月とか経ち適度に詳細が頭から抜けたころに長編版を読んでみることを勧める。すると、実に奇妙な感覚を覚えるのではないかと思う:
同じことしか書いてないのに、なぜ長編になっているのか!?
いや、一文字と違わず同じことしか書いていないのに、出版社はなぜそれを長編として出版したのかというような話ではない。間違いなく長編になっている。分量はどう数えてもはかっても増えている。それにもかかわらず、「同じことしか書いていない」と感じるのだ。
もちろん追加のエピソードもある。だが、それすらも中編の流れにおいてありうるものであり、あるはずのものだ。そして、そういう追加のエピソードは、片手の指に収まるのではないかと思う。念のために、両手の指としておけば、まぁ大丈夫だろう。
では、どこで増えているのか。表現が増えている。アジモフは書かなかったが、シルヴァーバーグは書いた。ただそれだけで長編化している。しかも、「同じことしか書いてないのに」と思わせるほどに違和感なしにだ。こんな長編化ができる人がどれほどいるだろう。
だが、たった一つ、シルヴァーバーグが書いてしまったことによって、アジモフ版から失われたものがある。それは、どちらの版でも最後の2、3ページだ。ここを実感してもらうためには、この二冊を読んでもらわなければならない。ぜひ読んで欲しい。
アジモフ版では、ある一言で終わっている。
対してシルヴァーバーグ版では、「あの人はアンドリューのことをわかっていた」というようなことを書いてしまっている。
二つの版で決定的に違うのは、ここだけだ。そして、たったこれだけが決定的な違いになっている。シルヴァーバーグはここを書いてしまった。だが、書いてしまったことで、アジモフ版の最後のたった一言が持っていた、広さ、深さ、なにかはわからないがそういうものを、「あの人はわかっていたんだ」というところだけにしてしまっている。それを読むと、「それだけではない」と思う。その最後の部分はアンドリューの夢ともなんともつかない部分だ。アンドリューの夢かなにかを書いただけなのかもしれない。だとしても、アジモフ版では一言でシルヴァーバーグ版よりも多くを描いている。
この二編によって、言うなら、「書かないことこそ、書くことだ」と思った。まぁ、少し弱めに「書かないことが書くことにもなる」でもかまわない。あるいは、こうも言えるだろう。「書くことによってこそ失われるものがある」。
雑感のあちこちに関連する箇所があるが。ちょっと本格派と呼ばれる人の、短かめの作品を読んでみて欲しい。「書かれていないにもかかわらず、書かれている」と思えることが、たぶんある。
書くことで、うまくやれば伝えたいことをうまく書けるかもしれない。しかし、書くことで、伝わるものが制限されてしまうかもしれない。書かないことによってこそ伝わったかもしれないことがある。書き手には想像もしなかったことが伝わることもある。伝わるというか読み取られるというほうが正確だろうが。書いてしまえば、それらは失われる。
書きたい、伝えたいという気持ちがあるのはわかる。だが、書かないことでこそ、伝えないことでこそ、書くことができる、伝えることができるという方法、あるいは方向もあることは知っておいて損はないと思う。