3−2: 捨てろ!
「3−3: 話を主導するもの」(予定)とも関係する話です。「3−8: 解釈・理解」(予定)とも「4: 考証・設定」(予定)とも関係します。また、SciFi創作論にも書いていることでもあります。
感想を書こうと思い、ちょこちょこ見ていたりすると、そこで感じることがある。その疑問は単純なものです:
なぜこんなにダラダラと書いているのだろう?
文字数を稼ぐため? なら、それはなんのために?
書かなくては、書きたいことを伝えられないから? なら、作者は、なにを書きたいのかわかっているのだろうか?
「よろこびにつつまれて」という拙作があります。そちらは別の要素も入っているからいくらか長いが、それと共通するある要素に注目した場合、どこまで短くできるか、そしてどれだけ書けば充分か、それを示すのがこちら:
ユニファイド・ビー
これは日本語版と英語版を書いてあります。
ここまで短くできるし、これ以上書くことはなにもない。自分で書いたが、英語版のほうが実をいうと好みです。そこには「誰か」さえ現れていない。日本語版でさえ、これだけではどういうことか読みとれないという声もあるかもしれない。なら、「2−3 わかりやすさ(世界・設定)」に「『読み手に理解できる』の基準」と書いたように、あなたは、こちらが想定した基準に到達していないだけだろう。到達していないという書きかたは誤解を生むかもしれないから、言い直してみよう。理解するために必要な、共有できているはずの知識にズレがある。そして「ユニファイド・ビー」はだいたい最近の状況だけからわかることだけを書いている。そう、つまりあなたは読むために必要な現状の情報系技術についてすら知識が欠落しているのだ。……あれ?
読み取れないとしたら、「1−4: 形容と説明、描写は悪手」に書いたことだが、おそらく読む際においても描写にのみ考えが向いているのではないだろうか。
書き手のほうに話を戻そう。描写に考えが傾いているというのはおかしい。雑感でこれまで書いたように、あるいは他に書いたように、それらはまず最初に捨てなければならない。その作品の根幹はなんなのか、まずはそれを見つめなければならない。そして必要なら、必要な分だけを描写などをすればいい。
というあたりで考えると、やたら長い作品においては、「なにを書くのか」と「どう書くのか」の主客転倒がおきているように思える。いや、主客転倒どころではない。「書きたいなにか」がそもそも存在していないとさえ思えるものがある。感想などを書こうと思って読んだとき、よく感じることはそういうことだ。
もちろん、これにはこういう声もあるだろう:
きちんと詳しく書かなければ伝わらない。
ならば、それは「詳しく書かなければ伝わらない」という曖昧な、ぼんやりとしたことを書こうとしているということだ。だとすれば、書けるわけがない。そして、それでも書こうとするなら、それは「1−4: 形容と説明、描写は悪手」に書いたとおり、ただの悪手だ。
あるいは複雑な人情は簡単には書けないという意見もあるだろう。それは、「3−4: 構成( キャラクター)」(予定)において書くように、その人物の機能がなんなのかがわかっていないからだ。
ここで、指輪とかの長編はどうなのかという話もでてくるだろう。書けるなら書けばいい。それだけだ。
詳しく書くことというようなあたりだが、ちょっとこんな例を考えてもらおう:
「絹のシャツを着た」
と、あったとしましょう。そうしたら、その一文だけで、手触り、肌触り、軽さ、馴染み、心地よさとか、そういうのは全部伝わるはずだ。「絹のシャツを着た」という一文に加えて、「肌触りが軽かった」とかを書いても、それは「絹のシャツを着た。絹のシャツを着た」と、同じ文を二度繰り返すのと同じでしかない。常識とか想像がつくとか、中には普通にある共感覚なんてのもある。情景描写でも心理描写でも同じようなことが言える。
「馬から落馬」なんてのは重言と言われたり、この場合だと二重表現になったりするわけですが、そういうのは「あまりよろしくない」と言われる。その割に、情景描写や心理描写がいくつも重なるのは、むしろ奨励さえされるように思う。それっておかしくありませんか?
ですが、情景にせよ心理にせよ、詳細に詳細に詳細に詳細に書くことがよしとされているように思う。詳細に詳細に詳細に書くなら、そりゃぁ文字数は増えるでしょう。そして、それが――常にではないとしても――、わかりやすさと呼ばれるものであることも知ってはいます。でも、それって意味があるのかなぁ。
「大量に書かれることによって描かれる、微妙なところが大事なんだ」という声もあるだろう。大事かもしれません。もし、そここそが作品において重要ならですが。このあたりは、「6−4: リアリティ (文章技法)」(予定)に書くだろうこととも関係するかもしれない。
あるいは、詳しく書くのとは別に、ともかく長いというほうに目を向けてみよう。これは、「3−3: 話を主導するもの」(予定)や「3−4: 構成( キャラクター)」(予定)、「3−5: 構成(リズムと終わること)」(予定)で触れるように、「それってエピソードの連鎖になっていませんか?」ということ関係する――なにをエピソードと呼ぶかは、ひとまず置いておく。その場合、本当にその一つの作品として書く理由があるのかを考えてみる必要がある。もしかしたら、あるエピソードを書くには、もっと適した世界や設定やキャラクターがあるかもしれない。
捨てに捨てた上で、それでも書かなければならないことがらと、とりあえず書いておこうというのは全くの別物だ。
そしてもちろん、長ければいいというのも幻想だ。もっとも、ポイントなどを考えると長期連載のほうが有利かもしれないし、小説投稿サイトでのコンペは、およそこれからも文庫化一冊分を基準に行なわれるだろう。そちらを目指す人は、ともかく水増しするというのもたしかに一つの方法だろう。いや、そもそも書きたいなにかが存在しないのだとしたら、某アニメ時空で延々とエピソードを書き続けることこそが正道なのかもしれない。
長く書くことをくさしてきたが、とは言え、書き手のタイプというものもある――タイプというほどでなくとも、性分でもかまわないが――(別のエッセイ、「文学の書き手のタイプ」を参照)。そこを無視してもいい結果にはならないだろうとも思う。だが、その場合でも、自分がどういうタイプなのかの自覚がないと、どうにもならない。性分に合った書きかたをするにせよ、性分から外れた書きかたをするにせよ、自分の性分に合わせて訓練し、性分から外れたものを書くなら、どのように外れればいいのかわからなければ、どうにもならない。
私の場合、俳句とまではいかない。ただ「阿吽」のみで終わらせられるのが理想だ。