1−1: 「正しい日本語」は存在しない
日本語に限りませんが、小説家になろうなどの日本の小説投稿サイトは基本日本語のものだと思うので。
小説に限らず、「正しい日本語」という指摘が入ることもあるかと思います。まぁ、誤字脱字の指摘をいただいたら、それはありがたいことです。
ですが、誤用とか読みにくいとか、そういう場合、気にしなくていいです。
なぜでしょうか? そのあたりについては、「正しい日本語」というのは存在しないからです。通時的に見た場合には誤用ということもあるでしょう。「元来はこういう意味だったのに、今はこういう意味で使われることがある」というような場合です。「元来はこういう意味だった」というのは、それはそれで重要ですが、今、使われている使われかたがあるなら、それこそが「正しい日本語」です。通用しているのでしょうから、なおさらです。
あるいは、小説という表現手法を使う以上、誤用やら今までなかった使いかたとか、表現とか言葉とか、どんどん使い、作るくらいの気持ちでいいと思います。新しい使いかたや、作った言葉が受け入れられたなら、誰がなんと言おうと、それが「正しい日本語」です。通用するようになった以上、誰にも「間違っている」と言うことはできません。「間違っている」ことより「通用している」ことのほうが意味がありますね。たとえばというほどのことではありませんが、味噌汁を「おみおつけ」と言ったりします。これなんか、「どんだけだ!」と言える例ですが、そういう言葉として通用しています。ある程度、ある範囲で定着したら、その使いかたはもうありと認めるしかないのです。
このあたり、語学系の人と言語学系の人は対応が違いますね。語学系、とくに日本語の語学系の人の場合、「間違っている!」と言います。言語学系は「そうなったものはしかたないな」という対応をとります。言語学系の一部には自然言語処理という情報工学の一部も含まれますが、ここにいたっては「コーパスにあるものはどうしようもない」という対応をとります。正しいとかどうかではなく、使われているのですから、そのことに文句を言ってもしかたがありません。そこに文句をつけるなら、言語学系にせよ自然言語処理にせよ、妥当な言語モデルは得られません。そんなのを作ったって、現に使われている言葉を処理する役には立ちません。
「それでは通じなくなる。読みにくくなる」という意見もあるでしょう。上等です。言語の地平を広げること、それこそが文学がやることがらの一つなのですから。