第一話 三十路未婚女性の正月
――2016年1月1日。
今年も私は一人だ。
【1月1日 10:15 東京都某所】
「旦那がほしい……」
自虐を通り越し自殺に近い懺悔を呟き、私は実家から送られてきたミカンをむしゃむしゃ頬張った。
旦那がほしい――思えば、彼氏ではなく旦那が欲しいと感じるようになったのは何時頃からだろうか。一人の正月が苦痛に感じるようになったのも、きっと似たような年齢だったはずだ。
(クソシマスに彼氏がいなくて平気になることを……成長と呼ぶのかしら)
きっと、老化である。
山手線の駅から徒歩15分、家賃月々12万円のワンルームアパートにて――熱燗片手に下着姿でコタツに包まる女性は一体誰なのだろうか。
35歳独身、性別女性、病院に勤めてよりかれこれ13年。
恋人いない歴は年齢。
貴方はだぁれ? ――私だ。
「私の人生……もはやホラー映画よね」
口にして余りの悲しさに涙が溢れてきたが、女の涙も見せる相手がいなければ尿と価値も成分も一緒だ。怖くなると漏れるあたりが特に似ている。差なんてアンモニアの代わりにユーモアが含まれてるくらいだろうか。面白くも無いわ。
酔いも程よく回り躰は温かいのに、心は凍死寸前である。
(あー熱燗切れた……昨日呑み過ぎたか)
一滴も溢れなくなった徳久利(100均)を意地汚く舐め、遣る瀬ない気持ちのままコタツに突っ伏した。
正月……。そうよ、全部正月が悪いのよ。
思い返せば去年の正月も散々だったわ。実家に帰省して、軒並み結婚する従姉弟の中で晒しあげられて、何故か勝ち組どもの子供にお金を恵む羽目になって、挙句の果てに子供のいない私だけは回収すらままならない。
考えてみれば。お正月は憂鬱だ。お節料理は独りで食べてると寂しくなるし、友人は殆ど旦那と一家団欒で出てこないし、年賀状だって毎年一度の独身宣言みたいなもんじゃない。ドMの境地に達しそうだっつーの。
まるで独身の業を断罪するかのようなイベントの数々。正月は独身女性に恨みでもあるのだろうか? ちくせう。
酒も切れ、手持ち無沙汰のまま、ぺろり、とテーブルの端の年賀状の束から一枚めくる。ハガキには仲睦まじい後輩夫婦の写真が添付されていて、やるせなさは加速する一方だった。
「ネルフェも遂に新婚っすかぁー……」
患者と結婚だかなんだか知らないけどね、夫と腕を組む写真を添付するなんて丑の刻参りにでも使用して欲しいのかしら? こちとら載せられる写真が一枚もないから、小躍りする羊の絵だぞ。
小躍りする羊の絵だぞ?
「面白い番組も……ぜーんぜんやって、ないし」
手癖でリモコンを弄りチャンネルを回す。お笑い、お笑い、食べ物リポート、新春特別ドラマ、お笑い、そしてTVを切って暗い画面に映る光景も――お笑いだ。
「ぷふ……あはは」
初笑をありがとうございます。芸人も私くらい身体張らないとだめよー。
「あはは……はは……あー」
死にたい。
例年の居た堪れなさから今年は帰省を取りやめたものの、やることがなさ過ぎて虚しさは助長されるばかりだ。やばい、このままじゃベランダに飾ったラベンダー(ベランダにラベンダーのダジャレが言いたくて衝動買いした、後悔している)と同じ末路をたどる。放置され、一人ひっそり枯れてしまう。
「……初売りでも見に行きますか」
ヌコやかな(ぬくぬく気持ちがいいの意、私が作った造語)コタツに別れを告げ、立ち上がる。確か最寄り駅の近くに大型電気量販店ができたっけな。
(めかしこむ必要もないかしらね)
部屋干しの洗濯ものからジーパンとトレーナーをむしりとる。
多少生乾きだけれど、着てりゃ乾くっしょ。手早く着替え、コート羽織って手袋はめて、鍵と財布だけをポッケに突っ込み部屋を飛び出した。
「いかんいかん、携帯携帯っと」
あけおめメールなし、着信ナシ。
徹頭徹尾ホラーだ。
「うひぃ……寒ぅ。てか、雪降ってるじゃない」
『本日は全国的に大雪の模様。家族でお出かけの際は注意しましょうね♪』と私が嫌いなアナウンサーに忠告された気がするけど、東京は雪耐性をガン積みしているし、どうせ降らんだろうと少し高を括りすぎていた。2階の手すりから表通りを見下ろしてみると、アスファルトが薄っすらと白みを帯び始めている。
「行くのやめようかしら……」
一人寝正月を家で過ごす心の寒さと、雪が僅かに積もる外の寒さと天秤にかけてみる。秤が勢いよくぶっ壊れた。よし、初売りを見に行こう。
タンタンと安っぽい階段をスニーカーでならし、表通りを右へと進んだ。
雪がベージュの髪に触れ、僅かに溶けては湿らせた。
※ ※ ※
「虎印の電気ケトルが1,500円……こりゃ買いね」
人が賑わう家電売場にて、限定100台の新商品を片手にニヤついた。
スイッチ一つで湯沸かし30秒、倒れても溢れない湯漏れ防止機能搭載、置き場所を選ばない蒸気レス仕様。
「カルキ抜きモードまでついてるじゃない……紅茶が滾るわね」
最新電気ケトル恐るべし。なにかと不精になる一人暮らしの強い味方となりそうだ。
幸運なことに私が握るこの一品が最後の1台、しかも5色バリエーションがあるにも関わらず、私が一番好きなパッションピンクが残っていた。こういう時は基本『白』が売れ残るもんだけど、どっかの誰かが白の大量買でもしてくれたのだろうか。何れにせよ僥倖だ。
(カルキ抜きって、カップ麺も美味しくなるのかしら……ちょっと楽しみ)
ふふ、独身でもめげず腐らず、草の根の如き不屈の闘志で立派に生きてきた私へのご褒美よ、きっと。かの偉人もゆーじゃないか、『果報は寝て待て』と。あー幸せー、寒いなか初売出しを見に来てよかったわ。
私は小さな箱を両手で抱え、るんるん気分でレジへ向かい、
「――あちゃー、もう売り切れてるよ」
と、不意に背後で聞き覚えのある声に立ち止まった。
(今の声ってたしか?)
反射的に考えなしに私は振り返る。すると電気ケトル売り場の前に、見覚えある青年が立っているではないか。青いミドルヘアに狐のように細い目、女性みたいなトレンチコートを違和感なく着こなす青年を、私は知っている。
(甲斐村……良旗!)
間違いない。職業が高校教師のくせして犯罪組織の参謀みたいな顔した胡散臭い雰囲気は、100%良旗そのヒトだ。
(こ、ここ、こいつ……何でアベックカメラにいんのよ……)
良旗の住所は記憶が正しければ神奈川県だったはずだ。正月も正月に、こいつは東京の外れの電気量販店で何をしてるんだろうか。
まさか――私に会いに来たとでもいうのだろうか?
だとしたら――胸が高鳴る。
(ま、ままま、まさかね)
正直に告白いたしましょう。わたくし灰呂リイア、35歳にして恋人いない歴年齢ではありますが、別に恋をしたことがなかったわけではない。寧ろ恋なら絶賛進行形でしている最中です。
元日から地元の電気量販店で偶然出くわすくらい、赤い糸で結ばれた想い人がいるのです。
(ちょ……ちょちょ、け、化粧してくれば良かった)
化粧の有用性を真の意味で理解した30歳の春、あれいらい最低限の化粧なしで出かけるのはやめようと誓っていたのに。ちくせう、元日だからって油断した。否、ほろ酔いで油断していた。化粧をしていない私なんて、生姜の入ってないジンジャーエールみたいなものだというのに……(意味不明)。挙句、やや酒臭いと来ている。救いようがねぇ。
(け、けど元日から電気量販店に一人で来るなんて……絶対暇人ね? きっと一人で家にいて、心がしんどくなって、人肌恋に飢えてしまったのよね?)
ここで逃げたら女がすたる。
元日に巡り会えた行幸を、あまつさえ化粧程度で逃すほど――リイアの35年目は生ぬるくない。
行け、行くのよ私。守って得られるものが無いんじゃない! 守るものがもうないのよ!
深呼吸をし、意を決し震える唇に力を籠めた。
「あれー、よ、良旗じゃな……」
「――おい軟弱、ケトルはあったのか?」
が――しかし、遮られる。
歩み寄ろうとした私より、遥か近くの売り場から顔を出した女性が良旗に声を掛けたのだ。しかも女性である。更にあろうことか女性なのだ。
(あれ……? 一人じゃないの……?)
端的に言って頗る美しい女性である。洗練された八頭身にメリハリある胸と腰は、ベージュのコートの上からも一目で分かり、モデルさんかと目を疑ってしまう。挑発的なまでに長い睫毛に、耽美な顔、そして美容院で染めたであろう綺羅びやかな桃髪をポニーテールとして結い上げ、僅かに見えるうなじは女性でありながら心拍音が早くなるほど魅力的だった。
はい? 誰でせうか?
「あ、美瑠花ちゃん」
良旗は私には全く気づかず、女性の名前を軽やか呼んだ。どうやらあの女性はミルカと言うらしい。
「それが残念、売り切れちゃったみたいでさ」
「はぁ? 売り切れちゃっただと? ちゃった、だと?」
美留香さんは馴れ馴れくも横柄な態度で眉を歪め「ふざけるなよ」と、良旗の胸ぐらを掴みあげた。
売り場のどまんなかで。
ちょっと、眼が点である。
「ちょ、美留香ちゃん?! ここ店の中だから、家じゃないんだけど」
「知っている。まるで全て被害者みたいな口ぶりだが軟弱。貴様が着替えるのにモタモタしていたのが原因じゃないのか? 違うか?」
「いやぁ……美留香ちゃんが服を中々着なかったんじゃ……」
「んだと殺すぞ!」
元暴走族上がりの女性なのだろうか。年季の入った啖呵は売り場中に響き渡り、店員客ともども震撼とさせた。かくいう私もその強烈な怒号には怖じたものの、とはいえ、一番恐怖を覚えたのは女性の別の台詞であった。
(キガエルノガモタモタ……? フクヲナカナカキナカッタンジャ?)
ドウイウ、イミカシラ?
「い、一旦落ち着こう美留香ちゃん? 怒って得するのはジャンプの主人公くらいなんだぜ」
「怒らせているのは貴様だろう」
「か、かもね。なら美留香ちゃんを笑わせるのも僕でありたいなー、とかなんとか……いっちゃ……ってすいません調子にのりましたのでその拳だけは振り下ろさないで」
胡散臭いキツネ目で飄々と恍ける良旗の姿に、美留香は「……はぁ、もういい」と胸ぐらを開放し「私が直談判してくる」とレジカウンターへとズカズカ歩き出した。
「まって!? 直談判のダンパンに、別にパンチ的な意味はないから袖捲るのやめようぜ?!」
「ええい、纏わりつくな。限定100名だかなんだかしらないが、101名にさせれば全てが丸く収まるだろう」
「全然収まってないよ?! 限界突破だから!」
「限界に挑戦する店、との謳い文句が空言じゃないことを祈るばかりだ」
「僕は譫言にならないか心配してるんだけどぉぉぉ美留香ちゃん落ち着いて!」
女性の腰に背中から抱きつき引き止める姿はシュールですらあったが、わたくし灰呂リイアの目には仲睦まじくさえ見える。
とはいえ、良旗が困っているのは本当のようだった。
周囲から奇異の目に晒され、暴虐な女性を必死に食い止める姿はかわいそうにすら映る。
うう、あの可哀想で――可愛そうな顔。助けてあげたい。そう心の底から感情が湧き出てしまう私は色々終わっているのだろうか。
ケトルは大切な独身のお供だ。美味しい紅茶、うまうましいカプラメン、その他エトセトラ、乾いた生活に一滴の潤いをもたらすかもしれないこのケトル。けど……、良旗が喜んでくれるのなら、そのほうがいい……のか。
ぐぬぬ、仕方あるまい。
「……あのー、これ譲りましょうか?」
決死の覚悟を固め、私は歩み寄って名乗り上げた。
良旗と美留香さんはぴたり、と私を見留める。
「このケトル……私やっぱりいらないので、よければどうかなと……」
二人は4秒ほど思考してから「あれ? リイアちゃ」「――今の言葉、本当か?」と、桃色の女性が瞳を僅かに輝かせた。
近くで見るとなんて美しい顔なんだろう。外人さん……ではないけれど、鼻も高くて肌もつややかでお人形さんみたいな顔だ。吸い込まれそうなほど麗しき瞳に、カサカサの悲しき女性が映り込むのはまことに直視ができない。
「本当に、そのケトルを私にくれるのか?」
「か、構いませんけど……」
「ふむ」と、美留香さんは細長い指で唇を撫でながら数秒考え、「いや、やはり施しは受けない」とレジカウンターへと歩き出した。
この女予想以上にメンドクサ! 良いのは顔だけか! バーカ!
「や、やあ、リイアちゃんここで会うなんて奇遇、なんだぜ!」
良旗は嬉々として私の名前を呼んでくれた。おそらく美留香さんを止める為に、わざと大声を出したのだろうと分かって、ちょっぴり悲しい。
「ん? なんだ、おい軟弱」
計略通りというか、案の定、美留香なる女性は引っかかり、「この女は貴様の知り合いだったのか?」と邪知暴虐な足取りを止めた。
だが、私はこの美留香さんの雰囲気で感じ取ってしまった。否、良旗がどう思っているかは知らないが(そもそも良旗は割りと色々鈍い気がする)女性は敏感ですぐに気付く。『この桃色の女、良旗に気があるな』と。
「そうだね。妹ちゃんの担当医さんかな」
素敵な回答を期待していた訳じゃないけど、そっけなく紹介されてまたちょっぴり悲しい。
「どうも、よしき……あ、いや甲斐村さんの妹さんを看させて頂いてます、灰呂リイアです」
紹介されたからには律儀に一礼してみせる。普段は良旗の前で敬語なんて使わないけれど、仕事が半分絡んでいるため他人の前では丁寧にならざるを得ない。
無論、自己紹介の流れにし、美留香なる女性の情報を聞き出す公算もある。
「ふん、そうか。興味はない」
だが美留香さんは嗜虐的な視線をくれるだけで、愛想悪く鼻を鳴らした。
この人……感じ悪すぎる。人が折角好意で名乗りでて上げたっていうのにその態度は酷い。まるで会話をする気がない様子だ。
良旗もなんでこんな糞女(急速な格下げ)と一緒にいるのよ。むしゃくしゃする……こんな奴に私のケトルを絶対譲りたくない。けど、一度抜いた以上、斬らずに刀を鞘に戻す訳にはいかない。
「あの、本当にケトル良かったらいりませんか? 私、偶々残ってたんで手にとっただけで、あまりお湯をわかす機会が少ないので」
患者との対話はなにかとデリケートな部分が多く、他人の地雷を踏み抜かずにしゃべるスキルは人より高い自信はあった。出来る限り美留香さんの自尊心を傷つけないような言葉を選び、ケトルを差し出してみる。
それもこれも、良旗が暴虐な女性の手によって困らないためである。決して美留香さんのためではない(ぷらす店員さんのためでもある)。
美留香なる女性は「ふぅむ」と一考、しかし脳内プライド議会の承認が降りないのか顔をあげる気配がない。なんて……面倒臭い女。同じ女としてこの面倒くささは軽蔑を通り越して逆に尊敬に値する。
「じゃ、美留香ちゃんがもらわないなら僕が貰おうかな。ありがとうなんだぜ、リイアちゃん」
そして良旗は何故そんな女をフォローするのだろうか?
良旗は私から嬉しそうにケトルを受け取り(振りだろうけど)、後生大事そうに胸に掻き抱いた。美留香なる女性を第三者にすることでプライド議会を閉廷させるつもりなのだ。
「一台あれば、ケトルがあれば十分だよね実際。二台あっても邪魔になる気がするけど、美留香ちゃんはどう思う?」
美留香なる女性も「まぁ……貴様がそれでいいなら構わん。私は不服だがな」と腕を組んでそっぽ向いた。良旗は『やれやれ怒らせちゃったか』と凹んだ感じだったが、同性の私から見れば一目瞭然、美留香なる女性のグラマラスなお尻から尻尾が生え、ゆらゆら揺れているのがよく見える。
てか良旗、一台あればってどういう意味? ま、まさかご一緒に住んでらっしゃるのかしら? そもそもこんな女性として終わってるような面倒くさい女が好みなの? 好きな女性のタイプは『終わってるくらい面倒くさい人』なの? 終わってる具合なら私だって世間をしてかくやと言わしめる終わり具合だわよ?
ファック。
「あの、良旗。ちょっといい?」
本音を良旗には絶対悟られないように、あくまで超自然な体で伺う。平常心、平常心。対患者で鍛えたポーカーフェイスは伊達じゃないはずよ。
「こちらの女性は?」
「あ、えっと鍵淵美留香、僕の仕事の同僚だよ」
へぇ……な、なるほどー。同僚ということは彼女も高校教師だったのか。この女が? GT○じゃあるまいし、一般モラルが欠如した不良教師に教わる子供たちが可哀想すぎる。
まぁーでも、つまりはさっき二人が会話していた『着替え』とは、教師用のスーツか何かからの着替えの話だったのかー。そして『一台あれば』は『仕事場に一台あれば』だったのかー。仕事帰りなのか二人共―。なんだー。納得ー。たとえ教師が今どきスーツじゃなかったとしても、今日が全国のお仕事がお休みな元旦なのだとしても、納得ー。
「な、なんでリイアちゃんなきそうなの……?」
泣いてないわよ! 馬鹿! と、電気量販店で叫べば痛い女もいいところなので、「目にゴミが入っただけよ」と淑女らしく誤魔化した。ていうか、私泣いてるの? はは、はははー。
「美留香さんも高校教師だったんですね」
本人に話を振ってみたが、何が気に入らないのか「先に帰る」と踵を返し、かつかつブーツを鳴らして量販店を後にしてしまった。
個人的に邪魔者が消えるのは願ったり叶ったりだけど……最後に棘の様に残しやがった『先に』という言葉が肺に刺さってうまく息ができない。
「……追いかけなくていいの、怒ってたわよ?」
微塵も心にない言葉を口にし、いい女を演じるダメな女がここにいる。
「いや、いつものことだから気にしなくて大丈夫かな。殴られなかったし、今日は随分と機嫌がいい方だと思うぜ」
「殴られるのがデフォルトなの……?」
「いや、延髄割りがデフォかな」
どっちも病院紹介するレベルだろそれ。
「苦労してるのね……てか、アンタもなんでそんな娘と一緒にいるのよ」
「僕も不思議だったりする。気がついたら僕の家に転がり込んでたんだよね」
ぐぶぁッ! 藪から棒に銃弾が飛んできたッ。急所はギリギリ回避っ。けどこれ以上被弾したら死んじゃうわッ。
確か良旗は未婚とはいえ実家ぐらしではなかったはず。つまりは30歳前後の男女が、同じ屋根の下、暮らしているというのだろうか? あれ、よくよく見れば良旗が着ているトレンチコート、女性物じゃない?
「へ、へぇー……そそそそ、そーなんだ。じゃあ二人は同居してるのねー」
「んー、同居になるのかな。美留香ちゃんは保健体育の教師だし、僕も家庭科で主要五教科外だったから以外と接点が多くて、2年前くらいから僕の家から帰らなくなったね」
「あら、睦まじいのね。結婚とかしちゃうコースじゃないそれ」
「結婚どころか、恋人ですらいないけど」
「えー、みんなそんなこと言いながら結婚するのよー。大事にして上げなさいよ、もっと彼女を」
人間とは不思議である。好意を寄せる相手の恋愛など微塵も成就して欲しくないくせして、許容しがたい現実を前にすると否定するどころか却って肯定して推し進めてしまう。強がって言わずもがなのことを言ってしまう。強がる余裕なんて、私にないはずなのに。
「ほら、さっさとケトルをレジに持ってって、美留香さんを追いかけてあげなさいよ」
止まれリイア! その発言は完全に暴走だ! 恋の人身事故だ! これ以上傷口を痛めつけるな! 寧ろそんな女の話題はさっさと切り替えて、自分を売るのよ! 闇を払おうともがくのなら、新たな光を用意した方が早いのよ!
「女性が逃げる時は、80%追いかけて欲しい時なのよ」
「20%の時だったら、確実に殴られるけどね」
「追いかけないで80%の場合だったら、禍根残るわよー」
それは怖いかもね怖くないくらいに、と良旗は肩を竦める。
いいか、リイア。今貴様が口にすべき台詞は『この後一緒にお茶でもしない?』だ。早く言え、早く言うのだ。
「元旦早々、病院のお世話になるのは縁起でもないし、ここはリイアちゃんのご教授通りにさせてもらおうかな」
「そうよ。そうしなさい。あと彼女が好きなお菓子でも買って帰りなさい。甘いお菓子があれば世は事もなし」
「ご助言感謝、なんだぜ」
糸目を更に細くして会釈するや、良旗はレジカウンターがあるフロアへと消えていった。彼の背中を笑顔で見送った私は、そのか細い腕を、へたり、と下に垂れさせる。
トボトボと、ケトルも全て捨て、買い物もせず、無言のまま帰途についた。中途空から降り注ぐ雪が髪を白く染め上げるが、傘をさしさえもしない。アパートの立て付けの悪い階段を踏み鳴らし、玄関の扉を開け、徳利の転がった部屋へと踏み入れる。
炬燵を通り過ぎ、布団を押入れから引き釣りだす。
毛布も引き釣り出す。
もごもご、と毛布に篭もる。
外界の音も、明かりも遮断し、真っ暗闇に篭もる。
頭がぼーっとする、顔が熱くなる。
涙が、出てくる。
「うぅ……女性が強がるときわぁ……察して欲しい時なのよぉバカァ……ばぁぁぁかッ」
この涙が報われる日は、未だ遠そうだった。
こうして灰呂リイアの30歳元旦は、色彩なく過ぎていく。
雪にも染まらぬ、灰色に。




