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雨上がり

作者: HB

雨が降っていた。

仕事を終え、社員通用口の前の僅かな屋根の下に立ち、黒い空を見上げる。

俺の知らない、どこか遠くの国から長い旅をしてきた雫達が、額に弾け、こめかみのあたりを流れ落ちた。


雨の日は、猫がおとなしくなる。

雨が降ると動物達はみんな巣から出てこなくなる為、獲物が捕れないのだ。

だから、猫にとっても雨の日は体力を温存し、空腹をしのぐための休息日になるのだ。

彼らはそれを、誰に教わるでもなく、知っている。

太古の祖先から脈々と受け継がれてきた、野生の本能。

だから狩りをする必要のない家猫であっても、湿度だとか気圧の変化なんかを敏感に感じ取って、条件反射的におとなしくなるのだろう。

遺伝子の中に、雨という気象変化に対応するための記憶情報が、本能として生まれつき備わっているのだ。

果たして、人間も同じだろうか。

雨の歴史は、火のそれよりも遥かに古い。人類の誕生するずっと前から、地球に生命が生まれるずっとずっと前から、この地上には絶えることなく雨は降り注いできたのだ。

人類もまた、生まれて初めて体験する雨を本能で知っていただろうか。

そしてそれがいつか止むなんて、知っていただろうか。

少なくとも俺は、初めての雨を覚えていない。その時の俺は、生まれて初めて体験する雨に、何を感じただろうか。


雨の匂いは、いつもどこか懐かしい。

その匂いは、鼻腔を通り抜け、脳の奥の記憶の領域を刺激していく。


雨が、降っていた。

駅の階段を降り、夜のロータリーを見渡すと、タクシー乗り場には数人の列が出来ていた。


「タクシー、待つ?」


俺は彼女の横顔を覗う。

天気が悪いという時点で、彼女はすでにややご機嫌斜めな表情だ。


「うーん、結構並んでるよ」


待つのはイヤってか。

俺は暫し考えてから、傘を買いに向かいのコンビニにダッシュした。

深夜、雨の降る中、一本の傘に肩を寄せ合い歩いた橋の上の風景。あるいは、晴れた日のディズニーランドや人のいない映画館、冬の箱根、池袋のサンシャイン、真夜中の代々木公園。その全てが色濃く、しかしどれもピントがぼやけたように、時折、朧げに甦るのだった。


ホテルに着くと、彼女はようやく不満を漏らし始めた。


「濡れちゃった、新しいコート」


そのコートは俺が買ってあげたものなのだが。


「だからタクシー待とうかって言ったじゃん」


すると彼女は口を尖らせた。


「だって、お金掛かるからさ。悪いかなぁって思って」


結局傘は買ったわけで、どっちにしろ金は掛かっている、というような事を俺が言うと、彼女は益々もって不機嫌になった。


「傘の方が安い」


そうですか。

なんだか、今日の空模様のように、どんよりと重たい空気になってきた。

これからイチャつこうという場所で、ケンカなんかしたくない。

俺は、ビニール傘の価格とタクシーの初乗り料金の関係に関する小話を始め、その場の雰囲気をかき消そうとしたが、そんな話でお茶を濁せる筈もなく、ただただ彼女の機嫌と空気を濁すばかりであった。


「雨と言えば...」


嵐の夜に。

車を運転し、バス停の前を通りかかると、三人の男女が目に入った。

一人は病気の老人。

一人は親友であり、命の恩人。

一人は理想の運命の相手。

バスはまだまだ来る気配はない。

そしてこの車は二人乗りだ。

さて、誰を乗せる?


「うーん」


これは一見、心理テストのようにも思えるが、実は誰もが納得する答えが一つだけあった。

彼女は「病気の老人」と答えた。

彼女らしい、まっとうな答えだった。


雨の降る、生暖かいようで少し肌寒い夜には、あのホテルでの出来事を思い出す。取るに足りない、些細なやり取りのことを。

可愛い彼女。

どうしようもなくワガママだった彼女。

服が欲しいなどと言っては、まだ学生だった俺から、なけなしの財産の内のいくらかをせしめて行った彼女。

携帯代や、専門学校の授業料を払ってやったこともあった。

それでも俺は、彼女がどうしようもなく愛おしかった。


俺が与えるばかりでなく、彼女もまた俺に色々なモノをくれた。

片方だけのシルバーのピアス。

修理屋にビビられたシャネルそっくりの白い腕時計。

ブルームのペアリング。

手にのせると喋るヒヨコ。

付き合う前にもらった、車に乗ったアトム。

あと、愛とか勇気とか、目に見えないよくわからないものも。

ただ、一つだけ彼女から貰えなかった物があった。

ティンバーランドの白のブーツ。

俺の誕生日に買ってくれたらしいのだが、彼女はそれを上野駅のトイレに忘れてきてしまったのだと言う。

だから誕生日プレゼントが無くてごめんと、彼女は泣きながら言うのだった。

それからしばらくして、俺は新しいブーツを買った。

ティンバーランドの白いやつを。


「これはお前がくれた物だから、大事に履くよ」


俺がそう言うと彼女はまた泣いた。

そして、


「あたしのは、もっと高くて、なんか限定品みたいのだった」


と言って少しはにかみ、笑いながら、涙をこぼし、ささやかな反抗をした。

俺は、そんな彼女がどうしようもなく愛おしかったのだ。


今はもう身に着けなくなったそれらは、今もまだ、押し入れの中に眠っている。

未練なんてない。

捨てたって罪悪感もない。

かと言って特に捨てる理由だってない。

補助輪を外したばかりの少年のように。まだいいじゃないか、と。後ろにいて支えているはずの大人がが、黙って手を離すまで、彼は成長できないのだ。

ああ、いっそ気付かぬ内に全部無くなってしまえばいいのに。そうしたらもっと、いいものを拾えるのに。


「俺なら、親友に車を貸して老人を送らせ、自分は運命の人と二人、嵐のなかでバスを待つよ」


そう言ったときの彼女の笑顔を、今も覚えている。



雨が降っている。

この胸を濡らし、頬を流れ落ちる。

あちこちに水溜りをいくつも作っていく。

いつか雨が止んで、そこに陽が射したら、きっとキラキラと輝くのだろう。

虹が見れたらいいな。


社員通用口の前に立ち、一人そんなことを考えていた。


雨が、上がっていた。


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