その1
トンサクラク第七国は辺鄙な山間にあった。十六代トンサクラク上王が、王位継承の望みなど全くない末の息子に与えた領土だったので、地の利も持たなければ産業と言える産業もない国だった。 当時は平和な時代が続いていたので、そのような小国でも人々は不自由なく暮らすことができたのだ。
たいして誇れる物もないこの山奥の国にも、唯一人々が自慢できるものがあった。それは王の一人息子、キリアン王子だ。王は王妃が身篭ったと知ると、父である上王に頼んで領内すべての国どころか近隣の国々からも魔法使い達を集めさせた。彼らの祝福のお陰で、王子は生まれ落ちた時から自ら光を放つかのように美しかった。金色の巻き毛に空の色の瞳、彼が微笑めば誰もが心を奪われたのだった。
そのような美貌に恵まれた王子ではあったが、城の中には同じ年頃の子供がいなかったので、城下の子供達と遊ぶしかなかった。この小さな国では貴族と平民の間の垣根がたいへん低かったのだ。王子はおっとりした性格で喧嘩も強いほうではなかったし、子供達も彼が王子だからと言って遠慮なんてしなかったが、それでもがさつな子供達に混じって毎日楽しく遊び歩いていた。
さて、城下の町にヒナギクという女の子が住んでいた。 ヒナギクはパン屋の娘で、二人の兄は王子とは遊び友達だった。彼女は王子よりも三つ年下だったが、兄達のお陰でいつも遊びの仲間に入れてもらうことができた。ヒナギクにとっては王子も兄の一人のようなものだったのだ。
もう一人の兄と言えるのが、衛兵の息子のアキームだ。彼は王子と仲がよく、王子が城下にいるときには彼から離れることがなかった。
男の子達と共にヒナギクは野山を駆け回った。だが、きれいな蝶や珍しい花を見つけると夢中で観察を始めるので置いてきぼりにされそうになった。 そんなヒナギクをいつも王子は辛抱強く待ってやるのだった。こんなときに限って彼は王子の威厳を見せるので、兄達はうんざりした顔でヒナギクが飽きてしまうのを待つしかなかった。
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いつしか年月は流れ、ヒナギクは今年の春、十九になった。女は十六にもなると嫁ぐのが普通なのにヒナギクにはいまだに結婚話がなかった。その上、突然、森の奥に住む陶芸家の爺さんに弟子入りしてしまったのだ。
父親はひどく反対した。だが、パン屋は上の兄夫婦が継ぐことになっているし、結婚もしない娘をいつまでも置いていくほどの余裕はなかった。一方、爺さんは腕はよいのにひどい頑固者で今まで弟子を取ろうとはしなかった。町の人たちの説得もあって、父親はしぶしぶヒナギクの弟子入りを認めることになった。
当時、結婚前の男女の逢瀬は至極普通のことだった。家柄など気にしなくてもよい平民達は自由に恋愛を楽しみ、やがて生涯を共にする伴侶に出会ったのだ。 当然、子供が出来てしまうこともあった。相手の男が好ましくなかった場合、娘達は自分の子は精霊の子だと言い張った。当時、精霊に孕まされる女は多くはなかったがいることはいたので、そんな言い分でも認められたのだ。
だが、ヒナギクにはそういう相手さえいなかった。自分が変わり者だと思われているのは知っていたから、男が避けるのも仕方がないと思っていた。 そんなヒナギクをアキームはひどく心配しているようだった。背も高くハンサムで王子と気心の知れたアキームは、成人後、王子の従者として働いていたのだ。
ある晩、城からの帰り道、ぶらりと立ち寄った彼がヒナギクに尋ねた。
「気になる男はいないのか?」
「いないけど」
「急がないと全部取られちまうぞ。もうあんまりいいのは残ってない」
「それならそれでいいわ」
アキームは突然ヒナギクを抱き寄せ、唇にキスをした。
「俺が付き合ってやってもいいぞ」
「気を使ってもらわなくてもいいの。でもありがとう」
彼は本気で言ったのだが、キスされても顔色一つ変えないヒナギクを見ると「どういたしまして」とつぶやくしかなかった。
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王子はとうに二十歳を過ぎていた。この歳でまだ結婚相手さえ決まっていないのは王族では異例のことだ。十八になった時、隣国の姫君がお見合いにやってきた。裏ではすでに結婚が決まっていたという話で、王子と同じ金の髪をしたかわいらしい姫君は国を挙げての歓迎を受けた。
だが何が気に入らなかったのか、縁談は破談になった。姫君は予定されていた滞在期間が明けぬうちに逃げるように国へ帰り、二度と戻っては来なかった。 それからも数人のお姫様が招かれたのだが、王子の結婚は一向に決まる様子がなかった。
町の人たちは美しい王子の結婚相手がいつまでも見つからないのが不思議でならなかった。「綺麗な顔をしていても男は男。奥さんなしじゃつらいでしょうねえ」 下世話な女房たちが王子は欲求不満だと噂しているのをヒナギクはよく耳にしたものだった。
城下にはヒナギクより少し若いシラユリという娘がいた。シラユリは数年前から城に通って洗濯の手伝いをしていたので、町では彼女が王子のお相手をしているのではないかと噂されていた。そしてシラユリは決してそれを否定しようとはしなかった。
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ある日、ヒナギクがろくろを回していると王子が入ってきた。小さな国なので王子はいたるところに出没する。爺さんに邪魔にならないところに座っていろと言われ、おとなしく部屋の隅に腰をおろした。
その日一日、王子はヒナギクが花瓶の形を作り上げるのを眺めていた。王子の後をついて回らなければならないアキームは、退屈極まりないという態度で小屋の外で昼寝をして待った。
ヒナギクは子供の頃と変わらず美しいものが好きだった。老人の焼いた陶器を見て心を奪われたのものそのせいだ。彼女は王子を眺めるのも大好きだった。金色の巻き毛に長い睫毛、空の色の瞳、桃色の唇。物語に出てくる妖精のようだと彼女は思った。
「ねえ、王子」
「なんだ」
「焼き物が好きなんですか?」
「ああ。泥の固まりが形になっていく様子が面白いな」
王子はヒナギクの顔を見て、ぼんやりと答えた。
「知りませんでした」
「また来る」
その日、王子はそう言い残して帰っていった。
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翌日から王子は毎日小屋に来るようになった。爺さんも最初は驚いたようだったが、今では気にもとめない。アキームは開き直って木陰で昼寝をすることに決めたようだ。
ある日、王子はヒナギクの仕事が終わるまで小屋の中で待っていた。帰り支度をしていると王子が彼女に声をかけた。
「家まで送ってやろう」
馬に乗せてもらえれば楽だと思って承知したのに、王子は歩きたいようだった。森のはずれまで来た時、王子が立ち止まった。
「キスをしたことはあるか?」
「アキームと一度だけしました」
王子の後ろでアキームが気まずそうな顔をした。
「でも一度きりです。もうしたいとは思いませんし」
目を剥くアキームを振り返り、王子は言った。
「お前は先に戻っておれ」
「でも、俺がお城で叱られちまうよ」
アキームは従者のくせに子供の頃の癖がぬけず、王子に対しても態度が大きい。
「案ずるな。すぐに追いつく」
彼がいなくなると王子は尋ねた。
「あいつとはどういう関係だ?」
「幼馴染です。王子もご存知でしょう?」
「それだけか」
「それだけですよ」
「ならいいのだ。ヒナギク、私とキスをしろ」
「私ですか?」
王子はヒナギクの身体を大きな杉の幹に押し付けると、唇を重ねてきた。
このまつげ、なんて優美な曲線を描いてるんだろう。肌だって上等の磁器のようだわ。どんな釉薬を使えば、この透き通った色を出せるのかしら。
ヒナギクの視線に気づき王子が言った。
「目を閉じんか」
「でも見えませんよ」
「見なくてもよいのだ」
王子は最初からキスをやりなおした。
「もうやりたいとは思わないか?」
王子の息は甘い香りがする。ヒナギクは王子とのキスが気に入った。
「いえ、いつでもどうぞ」
「そうか」
王子はうなずくともう一度ヒナギクにキスをした。
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しばらくすると王子が再びお見合いをするという噂が広まった。何度も失敗が続いているので、お祭り騒ぎどころか極秘で行われるという始末だ。だが、お城で働いているのは城下町の人間ばかりだったので、秘密などあってないようなものだった。 お見合いの準備のためか、ここしばらく王子はヒナギクの職場に現れていなかった。
ある日、ヒナギクが家に戻ると兄たちが王子の噂をしているところだった。
「またうまく行かなかったそうだ。姫君は自ら馬に乗って逃げ帰ったそうだよ」
「また? どうしてなのかしら?」
兄達はヒナギクの顔を見て、一瞬黙り込んだ。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない。今日はずいぶんと早かったじゃないか」
上の兄が慌てたように言った。
「そうそう、そう言えば、王子にはおかしな性癖があるという噂を聞いたぞ」
次に二番目の兄が言った。
「おかしいって?」
「大工の頭が言うには、荒縄で縛ったり叩いたりするって話だ」
だからお姫様たちは逃げ帰ってしまうのかしら。けれどもヒナギクにはあの優しい笑顔の王子が美しく気高い姫たちを荒縄で叩いているところを想像することはできなかった。
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その翌日、王子は小屋に現れた。
「あの、お見合いがうまく行かなかったそうで」
「ああ、聞いたのか」
アキームが王子の肩越しに獰猛な目つきで睨んだが、ヒナギクは無視した。
王子は疲れた笑みを浮かべるとヒナギクを抱き寄せた。キスするのはいつも帰り道だと決まっている。仕事中に邪魔することなんかなかったのに。
爺さんは王子を見たが、何も言わなかった。
王子はヒナギクにキスをした。キスした後も彼女を腕に抱いたまま離そうとしない。姫君をものにできなかったので欲求が溜まっているのかもしれない。
ぎゅうぎゅうと抱きしめられてヒナギクはふうと息をもらした。 王子が慌てて腕を緩めた。
「すまない。苦しかったか?」
「いえ、王子に抱きしめられるの、好きです」
王子は少し驚いたような表情を浮かべたが、すぐにアキームを振り返った。
「アキーム、帰るぞ」
散々抱きしめておいてさっさと帰る王子をヒナギクは不思議そうに眺めた。欲求不満のせいで少し頭がおかしくなったのかもしれない。このあと、城に戻ってシラユリを抱くのだろうか。
その日は花瓶を作っても全部おかしな形になった。いつも厳しい爺さんは何も言わなかった。
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仕事を終えて、家に戻ると父親が飛び出してきた。
「さっき城から使いが来てな。お前に城に上がれと言ってきた」
「この間、掃除に行ったとこじゃない」
町からは定期的に城に奉仕に上がることになっている。
「そうじゃない。王子様がお前をお召しになりたいのだと」
「はあ?」
「明日の晩、来いって言ってるんだ」
「なんなのかしら? 用があるんだったら自分で言えばいいのに」
「わからんのか。夜来いと言ってるんだ。決まってるだろうが」
「ええ?」
「王子のお相手だよ」
「……つまりお姫様たちと同じ? 」
父が呆れた顔をした。
「そんなはずがあるか。夜伽のお相手に決まってるだろう」
この男は自分の娘を夜伽の相手に差し出すつもりらしい。 シラユリはどうしたんだろう。もう飽きたのかしら。
「悪い話じゃないぞ。運がよければ妾にしてもらえるかもしれん」
この国ではいくら王家の者とは言え、国民が嫌がることを無理強いはしなかった。断ろうと思えば断ることもできる。でもヒナギクは断ろうとは思わなかった。
あの綺麗な王子がほわんと笑うのを近くで見ていられるのなら、妾になるのもそう悪くはない。
「気に入られて来いよ」
父親が嬉しそうな顔で言った。
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次の日も王子は小屋にやってきた。
「うちにお使いが来ました」
「そうか」
目を合わせようともせず王子が答えた。
「あの……」
「来るのか?」
「そのつもりです」
「それでは今夜会おう」
「どうして私ですか?」
「それは今夜話す」
そこで王子は初めてヒナギクの顔を見て、寂しそうな笑顔で彼女にキスした。あんまり長いキスだったのでヒナギクの頭はくらくらした。きっと酸欠になったのだろうと彼女は思った。