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9 消えた若旦那

今回は、料理屋の若旦那消失の一件。

鏡之介の“推し量り”が冴えます。


「その長男――若旦那について、近所の連中はなにか言ってなかったか?」


「そう言えば……やくざ者に絡まれてるのを見たとか、最近怪我が多いとか……」


 そう答えてから、水絵ははっと気づいた。


「誰かが、若旦那を傷つけようとしているってことですか?」


 鏡之介は答えなかった。それが答えだと、水絵は思った。


「いったい、誰がそんなことを……」


 自分の声が震えているのを、水絵は感じていた。


「若旦那が消えて、得するのは誰だ?」


 水絵の震えに気づかないはずはないのに、鏡之介はそれを無視して続けた。


「……二若旦那……です」


「違う」


「それじゃあ……」


「もうひとり。……それを望んでいるのは誰だ?」


 頭に思い浮かぶ人はいる。けれど、それを口にするのはためらわれた。けれど、水絵が察したことに気づいた鏡之介が言った。


「自分の子供のためなら、人を傷つけることも厭わない……そういう母親も、いるかもしれねえってことだ」


「そんなひどいこと……だって、お母さんなのに……」


 鏡之介は、感情の全く見えない顔つきで、続けた。


「血の繋がりはない」


 冷徹なひと言に、水絵は泣きそうになる。前妻の子で血の繋がりはなかったとしても、 一緒に暮らしていた母子なら、少しは情というものがあるのではないか……そんなのは、甘い考えなのだろうか? 家族でも、傷つけ合うことがある――その事実が悲しかった。


 その時、祐光師が口調を変えて、水絵に聞いた。


「屋台を借りていた人は、その二若旦那ですか?」


 水絵は、こくりと頷いた。そして、涙を振り切るように、説明した。


「間違いないと思います。近所の人に聞いた風体が、屋台を借りていた人と同じでしたから」


「よく調べ上げたな。お手柄だ」


 そう褒めてくれた鏡之介は、さっきとは違って笑顔になっていたが、水絵は素直に喜べなかった。


「もしかしたら、鏡之介さんには最初から分かってたんじゃないですか?」


「そんなことは……ねえよ」


 ふいっと横を向いた顔の表情はわからなかったが、耳は赤くなっていた。


「存外、嘘が下手なんですね」


 文句をいおうとした鏡之介の口を封じるように、水絵は続ける。


「それにしても、よくわかりましたね。こんな番付だけで」


 鏡之介は、あきらめたようにため息をつくと、言った。


「俺は知っていたんだよ、浅葱屋が大坂から来た店だってことを」


「大坂から来た店だってだけで、あの人が浅葱屋の板前だって気づいたんですか?」


 だとすると、鏡之介の理を読む才は目を見張るものがある……などと水絵が考えていたら、鏡之介は照れたような表情で言った。


「さすがに番付を見ただけじゃあ、分からねえよ。あいつがうどんを作ってて、かすかに大坂なまりがあったから、気づいたんだ」


 大坂なまりには全然気づかなかった……と、水絵が悔しがると、


「江戸育ちの水絵には無理だ」


 と、あっさりと言われた。

 つまり、大坂にいたことがあるということなのだろう。だが、それを問いただせる隙を、鏡之介は見せなかった。


「この後は、私たちの役目です。そうですね、賢木殿?」


 ふたりのやりとりを黙って聞いていた祐光師が口を開いた。


「今夜、あいつが千代の家の屋台を借りたら、話をつけるってことですね」


「わたしも……」


 行きますと水絵が言うより先に、祐光師が首を横に振った。


「若い娘が、夜中に、岡っ引きまがいのことなど、絶対に駄目です」


 強い口調で言われ、水絵は、それ以上食い下がることができなかった。

 

 翌朝、水絵はじっとしていられず、いつもよりずっと早く寺子屋に向かった。いつもより早い時刻であったにもかかわらず、寺子屋には祐光師と鏡之介の姿があった。


「二若旦那さん、どうなったんですか?」


 挨拶もそこそこに尋ねる水絵に、祐光師が苦笑する。


「少し落ち着きなさい。ちゃんと説明しますから」


 ふたりは、仕事終わりの男に声をかけ、そのまま眞性寺まで連れてきたという。三人で話し合ったが、「もう、浅葱屋には戻らない」という二若旦那の決意は固かった。


「あいつが家を出たのは、兄貴のためだけじゃなかった。母親のためだったんだ」


 鏡之介が浮かべた苦笑は、なぜかとても優しかった。


「お母さんのためって?」


「母親を咎人にしたくなかったんだろうよ」


 つまり、母が兄を害するかもしれないと恐れた二若旦那は、自分さえいなければ、そんなことにはならないと思ったのだろう。


「お母さんと、お兄さんのために……。優しい人だったんですね」


 祐光師は頷いたが、水絵には気にかかることがあった。


「それじゃあ、二若旦那は、これからどうなるんです?」


 すると、鏡之介がニヤリと笑った。


「だから、祐光先生が、弥一さんの所に連れて行ったんだよ」


 祐光師の姿を見ると、弥一は薬の礼を言った。


「薬を買ったのは、花吉ですよ」


「え!?」


 祐光師の言葉に、弥一はひどく驚いた。

 だが、祐光師はその驚きには気づかぬふりで、隣に座る二若旦那を指し示した。


「花吉です。毎晩、弥一さんの屋台を引いて商いをしていたんです。薬代も、花吉が稼いだんです。」


 自分の姿をまじまじと見ている弥一に、二若旦那――花吉は深々と頭を下げた。


「長い間、祖父ちゃんと千代には苦労をかけた。これからは、心を入れ替えて働くから、どうか、どうか、ここにいさせてください」


 弥一の表情が、驚きから納得に変わる。


「このように。長い間の不孝を詫びています。許してやってはくれませんか」


 弥一は、涙ぐみながら頷き、


「……目が覚めたら、千代が喜ぶ」


 と言った。


 花吉は、今はうどんしか作れないが、弥一が元気になったら、蕎麦打ちを教わるそうだ。


「ひとつの屋台で、蕎麦もうどんも食えるんだぜ? きっと評判になるな」


「番付で、『大関』になるかもしれないですね」


 はははっ……と、鏡之介は声を上げて笑った。

 水絵も一緒に笑いながら、あることを思い出した。


「そういえば、あの人、本当の名前は……」


「花吉ですよ。あの人はもう『花吉』なんです。それ以外の名前はありません」


 穏やかに言う祐光師の言葉に、水絵はもう大丈夫だと安堵のため息を漏らしたが、すぐに気づいた。

 長屋の連中は花吉の顔を覚えている。似ても似つかぬ男が「花吉」として暮らし始めたら、不審に思うだろう。そう疑問を口にすると、祐光と鏡之介が立ち上がった。


「おまえの言うとおりだ。だから、これから、俺と祐光先生が長屋の人ひとりひとりに事情を話しに行く」


「それなら、わたしも……」


 腰を浮かし掛けた水絵を、鏡之介が押しとどめる。


「ばーか。おまえまでいなかったら、寺子が困るだろうが」


 そう言われて、水絵は気づいた。水絵ひとりでも大丈夫と思ってくれたのだ。


「……そう思っていいんですか?」


 すでに門近くにいる二人に呼びかける。返事は、はははは……と言う鏡之介の笑い声と、祐光師の頷きだった。



お読みいただきありがとうございました。

水絵は、また一つ、世の苦さを知りました。

次回もよろしくお願いいたします。

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