4 千代の薬
日々は流れ、子供たちは学び続ける。
この日、寺子屋に小さな違和感が落とされた。
「じいちゃんを知ってるの!?」
「飛鳥山の騒ぎを見ていたのですか?」
水絵と祐光師が同時に声を上げた。
鏡之介は、ははっと笑ってから、頷き、
「冬三は、腕のいい岡っ引きだったな」
と、少し遠い目をして言った。
鏡之介の言うとおり、水絵の祖父は岡っ引きだった。宇多川孝之進の兄である宇多川誠之進の手先を務めていたが、とある事件に巻き込まれて命を落とした。その時、誠之進も亡くなった。
冬三が得意としていたのが、飛鳥山で水絵がした「袖切り」という技だったのだ。
「あの技は、冬三に教わったのか?」
「教わったんじゃなくて、じいちゃんが家で稽古しているのを見て憶えたんです」
「そりゃあ、たいしたもんだが……。岡っ引きになるのはやめておいたほうがいいな。母親と二人暮らしなんだろ? 心配かけちゃいけねぇよ」
「わかってます!」
水絵は、自分でも驚くくらい大きな声を出していた。幼い頃は岡っ引きになるつもりでいたのだ。だが、女の身では危険すぎると、母や孝之進に諭され、泣く泣く諦めた。頭ではわかっていても、心はまだそれを望んでいる……今、鏡之介に言われて、水絵は、それを思い知らされた。
そして「寝た子を起こした」鏡之介を、八つ当たりとわかっていても、腹立たしく思ってしまった。
それから、数日は何事もなく過ぎていった。
鏡之介の教え方は、とても分かりやすかったが、子供への接し方はひどく素っ気なかった。だが、かえってそれがよかったのか、子供たちは次第に鏡之介に懐いていった。
そんなある日――。
祐光師が、帰り際の千代を呼び止めた。
「お祖父さんの具合が悪いそうだな」
問われた千代は、一瞬だけ気まずそうな表情を見せたが、すぐに笑顔を作った。
「はい。でも、今はずいぶんよくなってます」
無理に明るさを取り繕っているような言い方に、水絵は違和感をおぼえた。それは、鏡之介も同様らしく、千代の後ろ姿をじっと見つめていた。
そしてもうひとり……。帰りかけていた新吉も、足を止めてふたりの会話を聞いている。祐光師も、千代の不自然さに気づいていないはずはないだろうが、それを表に出すことはなかった。
「仕事は休んでいるのだろう?」
「休んでたけど……もうすぐ仕事にも行けるって、お祖父ちゃん、言ってます」
「それはよかった。でも、困ったことがあったら、遠慮なく言いなさい」
「はい。ありがとうございます」
千代は、ぴょこんと頭を下げると、なにかに追われるようにその場を立ち去った。
新吉が声をかけようとしたが、千代はそれを拒否するように走り去ってしまう。淋しげな表情を見せた新吉に、祐光師が声をかけた。
「千代のお祖父さんは本当によくなっているのか?」
「千代は嘘なんかつかない!」
ふてくされたような口調の新吉に、祐光師は苦笑した。
「それは知っているが、遠慮しているのじゃないかと思ってな」
「千代の祖父ちゃんは、本当によくなってる。薬もうちの母ちゃんが煎じて飲ましてるし……」
新吉の言葉は、そこで途切れた。なにか言いたそうだと水絵は思ったし、祐光師も同様だったのだろう。しばらく待っていたが、結局新吉はなにも言わなかった。
祐光師はあきらめたように微笑むと、
「お母さんには、私からもお礼を言わなくてはな。伝えておいてください」
とだけ言って、庫裏に戻ってしまった。
すると、鏡之介が千代の家のことを訊いてきたので、水絵と新吉が代わる代わるに説明する。
新吉と千代は、長屋の隣同士だ。水絵も同じ長屋だが、ふたりの家からは少し離れている。新吉は、父母と三人暮らし。父親は青物の振り売りをしている。
千代は、祖父・弥一との二人暮らし。千代の両親は、千代がまだ小さい頃、相次いで病で亡くなった。
祖父は、夜鷹蕎麦の商いで生計を立てていたが、このひと月ほど、病で伏せっている。わずかな蓄えが尽きた後は、新吉の母が二人の食事の面倒を見ている。
「千代の祖父ちゃんが遠慮するから、父ちゃんはよく『売れ残りだ』って言って、青物を届けたりしてたんだよ」
新吉が、少しだけ自慢げに付け加える。
「それで、薬もおまえの母ちゃんが煎じてやってるってわけか」
新吉が言いよどんだ直前の言葉を鏡之介は繰り返した。が、新吉はこのときも何も言わなかった。
「千代にはほかに身寄りはいないのか?」
「それは……。いえ、いません。ふたりだけです」
返答を一瞬ためらった水絵に、なにか事情があると鏡之介は察したようだったが、それ以上は追求してこなかった。そして、
「そうか。それじゃあ、早くよくなってもらわねぇとな」
と、話に区切りをつけた。だが、新吉は帰ろうとしなかった。なにかを話したげに水絵を見ているが、口は開こうとはしない。そんな新吉の様子に鏡之介が気づいた。ふっと苦笑すると、立ち上がり、
「俺は、先に帰るぜ。後始末、しといてくれ」
と水絵に言い、寺子屋を出て行った。新吉があからさまにほっとするのを見て、水絵はひやひやしたが、鏡之介はなにも言わなかった。
鏡之介の姿が見えなくなると、新吉はすぐに切り出した。
「水絵姉ちゃん、相談があるんだ。千代のことで」
珍しく思い詰めた表情に、水絵は黙って頷いた。
「これ、見てくれよ」
と、新吉が出したのは、薬の袋だった。
それは、千代が祖父のために煎じて欲しいと新吉の母に渡したものだという。薬は、千代の祖父が、まだ仕事に出ていた頃から飲んでいたものだという。
「じいちゃんが寝込んでしばらくしてから、薬は買えなくなってたんだ」
新吉が唇を噛む。年寄りひとりの夜鷹蕎麦の商いでは、蓄えなどあろうはずもない。
「父ちゃんや母ちゃんも心配してたけど、うちにだって余分な銭はないし。けど、ちょっと前、急に千代が薬を買ってきたんだ。それ飲んだら、じいちゃん少し良くなって……」
新吉は、水絵を睨むように見上げた。
「けど、銭なんてあるはずねえだろ」
千代がどうやって薬を手に入れたか、心配になるのは当然だ。だから、新吉の母も尋ねた。
「千代は、母ちゃんには『祐光先生にもらった』って言ったんだ」
「祐光先生が? でも、さっきの話じゃ……」
「先生はなにも知らないよね。千代のじいちゃんは、うちの父ちゃんが買ってくれたと思ってた。だから、千代にきいたんだ。そしたら、『水絵姉ちゃんにもらった』って」
「わたしにも、覚えはないわ。相手によって、もらった人の名前を変えているのね。千代ちゃん、なんでそんな嘘を……」
水絵は話を整理しようとしただけなのだが、新吉は頬を怒りに染めて叫んだ。
「千代は嘘つきなんかじゃない!」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
水絵の胸に芽生えた小さな違和感は、やがて彼女自身を動かすことになります。




