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3 賢木鏡之介

春の陽気に包まれ、寺子屋では今日も子供たちの元気な声が響く。

江戸の風に乗って、知恵と心の駆け引きが始まる――。


「それでは、算題の解答を見せてもらおうか」


 祐光師の問いかけに、はいと返事をしたのは、やはり水絵と礼次のふたりだけだった。


「二人だけか?」


 祐光師が苦笑すると、新吉がおどけて言った。


「おいらたちには無理無理! 難しすぎるもん」


 子どもたちがくすくすと笑い、ため息をついた祐光師に、


「せめて問題を読むくらいはしなさい」


 と言われ、新吉は、渋々問題文を読み上げた。


「大原の里から京の町に出てきて、花を売り歩く娘がいます。弥生三日、ある人が呼び止め花を買いました。娘は、桃、椿、柳、桜の四種を持っていて、その人は四種すべて買いました。翌日、同じ人が同じ花を買おうとしたら、その日は、桃、椿、柳、梅の四種で桜がありませんでした。娘が言うには、五種の花のうち毎日違う四種を選んで売り歩いているとのことでした。娘が弥生三日と同じ四種を売り歩くのは、何日になりますか」


 新吉が読み終えると、祐光師はまず水絵に答えを言うように指示する。

 水絵は立ち上がり、手元の覚え書きを見ながら答えを言った。


「娘は毎日違う四種を持ってくるので、その組み合わせがいくつあればいいか、数えればいいんです。五種の花のうち四種を選ぶ組み合わせは……。


 桃、椿、柳、桜

 桃、椿、柳、梅

 桃、柳、梅、桜

 桃、梅、桜、椿

 梅、桜、椿、柳


 全部で五組。なので五日後、弥生八日です」


 なるほど……と祐光師は頷き、次に礼次をうながした。立ち上がった礼次は、水絵のように覚え書きを見ることもせずに、空ですらすらと答えを言う。


「五種のうちから毎日四種選ぶってことは、毎日一種類だけ持っていかないってこと。三日は梅を持っていかなくて、花は五種だから、同じ梅を持っていかないのは五日後、つまり八日」


「うむ……。道筋は違うが、ふたりとも合っている。見事だった」


 祐光師に言われ、水絵がほっと胸をなで下ろした時――。


「それはちょっと甘いんじゃないか」


 低い男の声がして、庭からひとりの男が入ってきた。


賢木(さかき)殿……」


 祐光師は驚いた様子もなく、男の名前を呼んだ。そして、男のほうもためらいなく、祐光師の隣に座った。

 髪は束髪で、着流し姿。緑がかった鼠色の小紋に、真田帯を貝の口に締めている。浪人のように見えるが、腰には脇差し一本だけだった。


「答えは同じでも、解き方は雲泥の差だ。こっちは……」


 と、礼次の解答を指す。


「一番の近道で答えを導いている。粋だねぇ。けど、こっちは」


 ちらっと水絵の顔を見て、賢木はにやっと笑った。


「努力は買うが、手間が多過ぎだ。こういう野暮ったい解き方、嫌いじゃねえが……俺はごめんだな」


「……それだって、正しい答えが出てるんだからいいじゃないですか」


 思わず言い返すと、賢木はまた笑った。


「そうじゃねぇよ。目的地に着きさえすれば、どの道を通ってもいいって言っちまえばそれまでだが。近道を行けば、道を間違えることも少なくなる。けど、あっちこっちぐるぐる回ってると、袋小路に入っちまうことも多くなるってわけだ。花が五種なら全部あげるのもさほどの手間じゃねえが、これが十種、百種ってなったら大変だろ? だから、手間を少なく解くってのは大事なことなんだ。ま、今回は礼次の一本ってとこだな」


 悔しいが、賢木の言っていることは正しい。それでも、悔しさは隠せない。

 すると、賢木はははっと声を上げて笑った。


「河豚みてぇに膨れるな。ま、悔しいって気持ちは大事だがな」


「河豚って……」


 言い返そうとする水絵を遮って、祐光師がいつもの言葉を告げた。


「算法に勝ち負けはありません」


「そうでした。失礼しました」


 すんなりと頭を下げた賢木を、祐光師は子供たちに紹介した。


「こちらは、賢木鏡之介(きょうのすけ)殿。明日から、私に変わって、みなに算法を教えてくださる。鏡之介先生とお呼びするように」


「えええっ!?」


 子供たちの叫び声は、寺子屋どころか、眞性寺の境内にまで響き渡った。



 子供たちが帰ってから、改めて鏡之介を紹介された。そして、最近出されていた算題は、すべて鏡之介が考えたものだと知らされた。

 祐光師のためと思って必死に解いていたのに、最初から鏡之介の手の内にいた自分が愚かしく思える。水絵は気落ちし、そして鏡之介に少しだけ反感を抱いた。だが、それを表に出すほど子供ではなかった。


 祐光師は、鏡之介の紹介を続けていた。歳は二十九歳。浪人だが、どこの藩にいたかは教えられないとのことだった。


「御家族は?」


 その年なら、妻子がいてもおかしくないと思い尋ねる。


「そんな贅沢なものは持ってない」


 人を物扱いする言動に眉をひそめると、


「水絵は俺が気に入らないようだな」


 と、からかう口調で言われた。


「いきなり呼び捨てですか?」


「構わねぇだろ。俺のほうが一回り年上だ。それとも、水絵ちゃんと呼ぼうか?」


 わざとらしく小首をかしげられて、水絵も負けずと言い返した。


「わたしはなんとお呼びすれば? 賢木大先生ですか?」


 すると、鏡之介は声を上げて笑った。


「鏡之介で結構。子供らにはけじめってもんがあるから『先生』と呼ばせるが、あんたは師匠仲間だ。『先生』はいらねぇよ」


 師匠仲間と言われて、水絵の心から刺々しいものが少し消えた。それでも、まだ表情を曇らせていると、今度は心配そうに訊かれた。


「やっぱり、俺が師匠なのは気にくわねぇか?」


「いえ。わたしが心配なのは、祐光先生の目です。そんなにお悪いんですか?」


 祐光のほうを向き直ると、苦笑された。


「確かに、少しずつ悪くはなってますが。賢木殿にお願いしたのは、最近、寺の仕事のほうが忙しくなっているからですよ」


 それが本当のことなのか、水絵を安心させるための嘘なのかはわからないが、問い詰める気にはなれない。


「そんな顔をしないでください。寺子屋の師匠をまるっきり辞めてしまうわけではないんですから。少なくとも、一日に一度は顔を出しますよ」


 そう言われて、少し安心した。ほっとして心に余裕が出たとき、不意にそれに気づいた。


「七転八起? 確かに、七転八起だわ!」


 祐光師はきょとんとした顔をしたが、鏡之介はにやりと笑った。


「気づいたか。さすがだな」


「お侍さんなのに、いわれ小紋なんか着るんですね」


「浪々の身じゃ、定め紋は着れねぇよ」


 江戸小紋は、そもそも武士が裃に使用した文様だから、「鮫」や「角通し」「霰」などは家柄を表していて、庶民は使えない。

 それで、似てはいるが違う文様を着るのだが、そこは、遊び好きの江戸っ子のこと。桜や松の縁起物だけでは飽き足らず、判じ物の柄も登場した。たとえば、富士山・鷹、茄子で「初夢」、大根とおろし金で「大根おろし」は「あたらない」という意味だ。


 一見花模様のように見えて、実は文字を描いているのも多い。「家内安全」「寿」十二支などが描かれているが、細かい模様なので、近くで見ても、言われないとわからないことも多い。

 今、鏡之介が来ているのは「七転八起」の文字が巧みに組み合わされている。それに、今気づいたのだ。


「祐光先生のおっしゃるとおり、水絵の読み書きの力はたいしたもんだ」


「算法はからっきしだけどって付け足したいのでしょう?」


「それでいいじゃねぇか。何でもできる人間なんて、この世にはいねぇ。水絵は、読み書きに、裁縫、それに……」


 鏡之介は、なにかを懐かしむような表情で水絵を見た。


「袖切り冬三(とうぞう)譲りの、捕り物の技量もありそうだ」


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

江戸の寺子屋で育つ、知恵と友情の物語は、まだ始まったばかり。

次回も、江戸の片隅の謎をお楽しみいただければ幸いです。

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