2 寺子屋師匠見習い
江戸の片隅で、小さな謎に首を突っ込む娘がいました。
これは、そんな水絵が出会う最初の事件です。
水絵が最初に巾着切りに気づいたのは、春太が、御隠居に財布の有無を確かめていたときだった。
春太が見失いそうだったので巾着切りの後を付けたが、しばらくしても春太は追いついてこない。自分ひとりで巾着切りを捕まえるのは到底無理と考え、水絵は裏技を使った。
水絵は裁縫が得意だ。なので、巾着切りの隙を見て、左袖の縫い糸を解き、袂に入っている財布ごと手に入れたのだ。巾着切りが盗んだ物を袂に隠しているのは、袖の形から分かっていたので。
「そんだけのことをしてんのに、あいつはまったく気づいてなかったとは……驚きだな」
春太は半ば呆れたような口調で言う。
「袖に入っていた財布はひとつやふたつじゃなかったでしょ?」
水絵が尋ねると、春太は頷いた。巾着切りが掏摸取った財布は、五つになったそうだ。
「持ち主を捜すのは、ちょっと骨だぜ」
言葉と裏腹に、春太の口調は弾んでいる。仕事を任されたのが嬉しいのだろう。
「春太兄ちゃんも食べる?」
子供達に誘われ、春太は、ささやかな花見重の前に座った。握り飯をほおばり、のどに詰まらせそうになった春太を見て、水絵や子供達がけらけらと笑う。
その楽しそうな様子に、祐光師は説教の続きを諦めた。
「そろそろ諦めて寝たら?」
算題を前にうなっている水絵に、母の志津が笑いをかみ殺した声で言った。
「もうちょっとで解けるの。組み合わせを数えればいいってことは分かってるんだから……」
「そんなにむきにならなくても、算法は祐光先生が教えていらっしゃるのでしょう? あなたが解けなくても……」
無駄だとわかっていながら、志津は言わずにはいられない。
「駄目よ。礼次が解けたって言ってたの。礼次に負けるわけにはいかないわ」
「はいはい。わかりました。わたしは先に休むけど、できないからって夜明かしは駄目よ。適当なところで切りをつけて、少しでも眠らないと」
「大丈夫、もうすぐ解けるから」
そう言う水絵を、志津は「信用できない」という表情で見ていたが、それ以上はなにも言わなかった。
――翌朝。
「水絵姉ちゃん、目が赤いぜ。さては、例の算題が解けなくて夜更かししたんだろ?」
妙に鋭いところのある新吉に図星を指されたが、水絵は必死になってそれを顔に出さないようにした。
「違うわよ。夜更かししたのは、急ぎの縫い物があったから」
新吉は頷いたが、信じてないのは明らかだった。
「それで、解けたの、算題?」
「もちろん」
「よかったね、礼次に負けなくて」
「算法に勝ち負けはありません」
祐光師の口調を真似して、少しだけ師匠ぶって言うと、新吉はけらけらと笑った。
ここは中山道沿いにある眞性寺だ。
八代将軍吉宗公も参詣したという由緒正しき寺で、街道口に置かれた江戸六地蔵のひとつがある。
五年ほど前に亡くなった水絵の祖父は、この寺にある墓に、埋葬されている。同じ時に水絵の父も亡くなったのだが、父はここには埋葬されていない。それどころか、水絵の家――この近く、巣鴨の長屋だ――には父の位牌もない。
祖父の位牌はある。水絵は、祖父の位牌に手を合わせるとき、心の中で、父にも手を合わせている。
眞性寺では、寺の一角を使って僧侶の祐光が寺子屋を開いていた。
水絵は、六歳の時に寺子になった。
祐光師は、寺子屋師匠として有能だった。子どもひとりひとりの能力を見抜き、素質のある部分を上手にのばしていく。祐光師の寺子屋は評判となり、寺子の数はじわじわと増えていき、今ではかなりの数の寺子がいる。
一年ほど前、水絵が十五歳になったとき、祐光師に「寺子屋師匠見習いにならないか?」と言われた。
夕暮れの本堂。西日が障子を透かして、祐光師の横顔を赤く染めていた。
「わたしが……ですか?」
「読み書きに関しては、水絵が一番だ。小さい子らも、水絵を姉のように思っているでな」
「でも……」
水絵がためらったのは、算法が得意でないという自覚があったからだ。
「まあ、すぐに返事はしなくてよい。よく考えて……」
と言いながら、祐光師は目の前の手本を取り上げようとして……取り損ねた。
それを見た瞬間、水絵は、
「やります! 師匠見習いにしてください」
と言っていた。
寺子の人数が増えて手が足りないことも理由だった。だが、それ以上に深刻な理由があることに、水絵は気づいていた。
祐光師はまだ若いのだが、最近、急に視力が衰えてきたようだ。寺子たちには詳しく言わないが、どうやら、病気を抱えているらしい。
江戸の町では、寺子屋の女師匠はめずらしくない……いや、男より数が多いくらいだから……と、祐光師は言った。
一度はためらったものの、水絵は、正直なところ嬉しかった。
十歳の頃から、母の針仕事を手伝っていた。器用な質だったので、今では、母と比べても遜色ない腕前になっている。だから、このまま仕立屋になるものだと、母も仕事を回してくれる親方も思っていただろう。水絵自身も、それしか道はないだろうと感じていた。
だが、針仕事はあまり好きではない。生活のため母のために仕立物に精を出してはいるが、針の尻をつつくより往来物を読んでいるほうが楽しい。文字を書くのも大好きだった。だから、祐光師の申し出は、仏の御利益に思えたものだった。
もともと寺子屋で姉貴分だった水絵に、子どもたちはすぐに懐いた。今では祐光師の補助というより、子どもたちを組み分けして、半分は水絵が教えていることのほうが多い。
「読み」「書き」は、能力別に分けて、初級者を水絵が教える。「算法-そろばんー」は、水絵は得意ではないから、祐光師がすべて教えているが、むずかしい算法を必要としない女の子を集めて、裁縫や料理を教えることもある。
「水絵のおかげで、女の寺子が増えた」
祐光師にそんなふうに言われ、この仕事にもようやく自信がついてきた。だが、算法が苦手なのは、やはり気になってしまう。特に、ここ数ヶ月はその気持ちが強まっている。その理由は、祐光師が算法の宿題を出すようになったからだ。
宿題といっても、強制的なものではない。ちょっと知恵を必要とする問題が貼り出される。答える期日が決められていて、解法がわかった者は、その日にみんなの前で発表する仕組みになっている。
やらなければならないものではないから、新吉などは問題を読みもしないし、年少の子にはまず無理だ。毎回挑戦するのは、水絵と、算法が得意な礼次くらいだ。
礼次は、髪結いどころの息子で、妹のるいとふたりで通っている。
年下の礼次に負けたくないという気持ちもあるが、水絵は、祐光師がそんな風に算題を提示し始めた理由が気になっている。もしかして、目の病気が思った以上に悪いのかもしれない。いずれ、教えられなくなることを見越して、算法を教えられる者を捜しているのだとしたら……。
それなら、わたしが頑張らなければと思うのだが、苦手なものが、そう簡単に得意になるわけではない。今のところ、礼次には負けずにすんでいるが、近いうちに追い抜かされる予感はある。礼次が師匠になるのは反対しないが、十二歳はやはり年若すぎると思う。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
水絵という娘と、彼女を取り巻く人々の物語が始まりました。
次回も、江戸の片隅の謎をお楽しみいただければ幸いです。




