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1 花見と巾着切り

江戸の片隅で、小さな謎に首を突っ込む娘がいました。

これは、そんな水絵が出会う最初の事件です。


 花見客で賑わう飛鳥山に、人垣ができていた。その中心にいたのは、睨み合うふたりの男だった。


 人垣の外から、その様子を冷静に見つめる娘がひとりいる。


 にらみ合うふたりのうち、ひとりはまだ年若い男で、尻端折りに房無しの十手を構えているところから、岡っ引きに間違いなかった。

 だが、差し出された十手の先が小刻みに震えている。必死に相手の男を睨み付けてはいるが、明らかに腰が引けていて、逃げ出さないでいるのが精一杯といった風情だ。


 それに反して、対峙している男のほうはふてぶてしいまでに落ち着いていた。まだ三十前と見えるその男は、お店者風の藍染めを身につけていたが、鋭い目つきや隙のない身のこなしから、雇われ人とは思えない。

 薄ら笑いを浮かべながら、若い岡っ引きを見下ろしているが、ひとつ不思議なのは、左の片袖がないことだった。破れているのではない。袖付け部分からきれいに外れている。まるで、そこだけ洗い張りのために解いたようにも見えた。だが、男は、そんなことにまるで頓着していない様子だった。


「し、神妙に罪を認めろ!」


 岡っ引きは叫んだが、その声は裏返ってしまい、相手の男どころか、周囲の観客にまで失笑を買ってしまう。

 恥ずかしさから岡っ引きの頬がたちまち紅潮し、さらに失笑を買う。


「おまえが巾着切りなのは分かってるんだ。掏摸取った物を返して、神妙にお縄につけ」


 今度は声が裏返ることはなく、岡っ引きの言葉に周囲の観客がざわつく。


「俺が巾着切り? とんでもねぇ。そんなら、その証を見せてみな。掏摸取った物とやらは、いったいどこにあるんでぇ?」


 両手を広げて見せた男に、岡っ引きが近づく。その懐や、残っている右の片袖、帯の隙間など隈無く調べたが、それらしき物は出てこない。


「さあて、この落とし前はどうつけてもらおうか?」


 男は、岡っ引きの顔をのぞき込むようにしてせせら笑う。岡っ引きの額から冷や汗が流れ落ちたその時――。


「私の手先がなにか無礼を働いたようだが……」


 涼しげで凜とした声とともに、人垣からひとりの若侍が姿を現した。黒紋付きに着流し姿を見て、岡っ引きは半泣き顔になる。安心と申し訳なさが綯い交ぜになった表情だった。


宇多川(うだがわ)の旦那……」


 と、岡っ引きが言うまでもなく、若侍が同心なのはその風体から分かっていた。


「八丁堀の旦那のお出ましか。けど、俺は巾着切りなんかじゃあねぇ。全くの濡れ衣だ。こんな大勢の前で恥かかされた落とし前は、旦那がつけてくれるんですか?」


 男は、自分より頭ひとつ分背が高い同心を精一杯の虚勢で睨み付けた。


「てめぇ! 旦那になんて口をっ」


 くってかかる岡っ引きを宇多川が引き留めた。


春太(しゅんた)! よせ」


 春太と呼ばれた岡っ引きは、唇をかみしめて引き下がる。


「おまえは、なにを根拠にこの者が巾着切りだと言ったのだ?」


 宇多川に尋ねられ、春太は、ぽつぽつと事情を語り始めた。


 見回っているとき、この男が商家の隠居風の老人の懐から財布を抜き取るのを目にした。念のため老人に確かめた後、慌てて男を追ったが、人混みに見失ってしまった。だが、風体は記憶していた。あちらこちらを捜し、ようやく見つけ、詰め寄ったが……。


「盗んだ財布は所持していない……そういうことだな?」


「へぇ」


「だから、この間抜けが見間違えたんだよ。おおかた、俺によく似た巾着切りだったんだろうが、俺じゃあねぇ」


 勝ち誇ったように言う男に返す言葉もなく春太がうなだれた時、再び人垣から声がした。


「いいえ。その人は間違いなく巾着切りです」


 声を発したのは、ふっくらした頬にまだ幼さの残る娘だった。

 葡萄色の縞柄の小袖は、花見のための一張羅なのだろう。髪もきちんと島田髷に結い、茜色の帯は吉弥結びだ。


水絵(みずえ)


「水絵ちゃん」


 宇多川と春太が同時に名を呼ぶ。春太は嬉しそうだが、宇多川は眉をひそめた。


孝之進(こうのしん)様、これを」


 水絵が差し出したのは、片袖――布地から、巾着切りと疑われた男の物であることが明らかな――だった。受け取った孝之進は、重さを確かめてから、それを春太に渡した。


「中をあらためよ」


「へぇ」


 春太が片袖に手を入れ、にたりと笑う。

 その刹那――。

 きびすを返して逃げ出そうとした男の手を、孝之進が逆手に取ってねじ上げていた。



「ここ、飛鳥山が江戸の名所となったのは、八代将軍吉宗さまの時代ね」


 飛鳥山で、花見を楽しむ人々の中に、水絵の姿もあった。

 質素ながらも作り手の温かい気持ちのこもった花見弁当を囲みながら、水絵は、寺子屋の子供たちに、飛鳥山について、得意げに語っていた。


「吉宗さまは、しょっちゅうここに、鷹狩りにいらっしゃってたのよ。それで、吉宗さまの故郷の……ええと……」


「紀州ですね。紀伊國飛鳥明神」


 言葉につまった水絵に、寺子屋の師である祐光(ゆうこう)が助け船を出す。


「そうです、それ! その明神と縁の深い飛鳥山に、千本の桜を植えて……そのほか、楓や松も植えて、花見のおなりをなさったのよ!」


 水絵を教え子である子供たちは、感心して聞いていたが、ひとりだけ、新吉(しんきち)という寺子が、


「祐光先生に助けてもらったくせに」


 とからかった。水絵は、新吉の頭を軽く叩きながら、


「ちょっと忘れただけですよー」


 と、舌を出した。新吉が何か言いかえそうとした時、


「飛鳥山は、近くていいよね」


 と、言いながら、同じ寺子の礼次(れいじ)が味噌を塗って焼いた握り飯を新吉に差し出した。


「そうね、ここは、上野と違って仮装ができるから、みんな楽しそう」


 仮装だけでなく「酒宴」もできるのだが、寺子屋の子供たちと来ているので、その話題には触れない。


 その時、春太がやってきて、水絵に声をかけた。


「水絵ちゃん」


「巾着切り、どうなった?」


 水絵が性急に尋ねると、春太は複雑な表情で答えた。


「宇多川の旦那が、大番屋で取調中だ」


 それを聞いて、水絵は胸をなで下ろした。自身番でなく大番屋まで行ったのなら、罪状は確定したのも同然だ。満足げに微笑む水絵だったが、春太に水を差される。


「宇多川の旦那からの伝言だ。『今日のような危険な真似は、二度とするな』だってさ」


「なに言ってるのよ、わたしがあの袖を手に入れなかったら、あいつを御用にできなかったでしょ?」


「それにしたって」


「水絵姉ちゃん、さっきの、格好良かったぜ」


 説教を続けようとした春太の言葉を遮ったのは、新吉だった。


「水絵姉ちゃんの裁縫の腕は、ずば抜けてるよね」


 と続けたのは、礼次。新吉は九歳、礼次は十二歳だ。


「千代はちょっと怖かった」


「るいも!」


 と言ったふたりはともに、七歳。るいは礼次の妹だ。


「宇多川様の言うとおりだ。あまり危険なことをするものじゃない」


 説教の続きを言ったのは、祐光師だった。


「すみません」


 殊勝に頭を下げた水絵だったが、


「それにしても、あの片袖、どうやって手に入れたんだ?」


 と春太に尋ねられると、得意げに事の次第を説明し始めた。


水絵の物語は、まだ始まったばかりです。

次回も、江戸の片隅の謎をお楽しみいただければ幸いです。

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