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(2)


 教室内で見かけた姿そのままに、手には段ボール箱を持って歩いている。

 大人二人と子供一人が並んでも余裕のある廊下。常日頃から清潔に保たれ、管理人の趣味により花が飾られているただの通路が、一瞬にしてランウェイになった。

 背後のエレベーターが閉まる。

 その小さな音で僕は我に返った。

 だがそれはあまりにも遅かった。


「こんにちは」


 あっという間に距離を詰めた彼が微笑む。

 それに胸が高鳴ると同時に、僕を幼馴染だと気付かない現実に悲しくなる。

 それでいい筈なのに。


「あの」

「あ、すみません。こんにちは」


 顔を見ないよう伏せたまま、軽く会釈して横を通り抜け――られなかった。


「間違ってたらすみません。十都棗さんですか?」

「っ、」


 ぎくりと身が強張る。

 肯定するべきか迷う僕に、彼は慌てて言葉を重ねた。


「あ、いや。突然すみません。俺のボックスに荷物が間違って置かれてて」


 どうやら不審者にカテゴライズされるのを避けたかったようだ。まだ僕だと気付かれていない事実にほっとしつつ、僕は頭を下げてマイナンバーカードを提示した。


「そ、れはすみませんでした。僕が十都です」

「確かに。じゃあ、これ」


 段ボール箱が手渡される。

 差出人を確認すれば先輩の名前。癖のある字と共に部屋番号のところがちょうど雨に濡れたのか、滲んで読み難くなっていた。


「ありがとうございます」

「いや気にしないで。あ。俺、隣の505の久貫。久貫凌です」

「ご丁寧にどうも。それじゃあ」


 もうこれ以上傍にいたくなかった。

 会釈した僕は脇を通り過ぎ、玄関前に立つ。そして平静を装い、鍵を差そうとするも震えて上手く刺さらない。

 どうしてこんな時に。

 4度目のトライを試みた刹那、掌からこぼれ落ちたそれが床に、硬質な音を響かせる。

 空気が凍ったようだった。見なくても彼の視線が向けられているのが分かる。

 慌てて鍵を拾いながら、僕の中は悶絶したい気持ちと羞恥に苛まれる。穴があったらノータイムで入りたい醜態だ。

 顔に熱が集中する中、どうにか解錠に成功し安堵に胸を撫で下ろしたその時、彼が声をかけてくる。


「あの、十都さん。間違ってたらすみません。もしかして十都さんて冨士野小に通ってました?」

「え」

「突然ごめんね。同じ中学に同姓同名の親友がいてもしかしたらって思ってさ」


 親友。その単語に二つの相反する感情が生まれる。


「えと」

「うん」

「すみません。僕、昔ちょっと色々あって幼い頃の記憶が朧げで、その、貴方の事もちょっと」


 僕は嘘をついた。

 本当は全て覚えているし、何一つとして忘れてない。でもそれを肯定してしまえば、彼は昔と同じように接してくるかもしれない。それだけは耐えられない。


「じゃ、じゃあそういう事なので。荷物ありがとうございまし」

「ならまた友達になろうよ。もしかしたら色々思い出すかもしれないじゃん」


 被せるように言い放った彼が、軽く操作した携帯を差し出す。

 画面の中にはQRコード。

 もしかしなくてもそれを読み取って友達追加してという意味だろう。


「あれ、ナツ。もしかしてイソスタもLINIもやってない? ならメアドの方がいいかな。番号教えて」

「ナツ、――あ、いえ。少し驚いただけで一応どちらもアカウントはあります」


 正直気は進まなかったが、このままだんまりを続ける訳にもいかず、LINIのみ友達登録した。

 どうせ陽の民特有の距離感と社交辞令だろう。事務的な会話に留めておけば後は勝手に察してくれる筈だ。

 だからそれまでの辛抱だと自らに言い聞かせ、送られてきた『これからよろしく』というスタンプを複雑な気持ちで眺めた。


「よし、ちゃんと送れてるな。よろしくな、ナツ。俺の事は昔みたく凌君でも呼び捨てでもいいから」

「いえ、そういう訳には。あの、それじゃあ僕はこれで」

「あ、うん」


 足早に玄関へ入り、そのまま膝を折った途端、手の中の携帯が短く音を鳴らす。

 画面には久貫凌からの通知。

 中身は再会を喜ぶ文面が一行。

 心臓がきゅう、と痛む。


「……僕は嬉しくないよ」


 罰ゲームだって言った癖に。

 打ち込んだそれを少しだけ迷って消し、代わりにお辞儀するスタンプを返した。

 直ぐについた既読の文字。

 同時に僕の事を訊く文章が投下される。

 これだから教えたくなかったのだ。

 溢れた溜め息が宙に溶け、画面と睨めっこする事5秒。

 手洗いうがいを済ませた僕は、台所の収納棚から陶器の龜を机に移し、その中に手を突っ込む。

 湿り気のある土のような感触が皮膚を通して伝わり、僕は空気を送り込むように上下を入れ替えるように掻き混ぜていく。

 腐敗臭とは違う独特な香りが鼻腔が擽る。

 手塩にかけて育てた僕のぬか床。野菜を美味しく美味しく漬けるだけに留まらず、僕の心も癒してくれる最高のアイテムだ。

 混ぜ終えた後、一昨日漬けたばかりの胡瓜と茄子を発掘する。


 店で購入した際は張りのある姿だったが、今は少し柔らかい。人によっては更に置いたりするらしいが、僕は大体いつもこのぐらいにしている。

 糠を落として口に入れれば自分好みの味が口いっぱいに広がった。

 

「――うん、美味し、っ」

 

 机上の携帯がまた一つ震える。

 上昇した気持ちが一気に冷えた。

 見るべきか見ないべきか。迷いに迷い、恐る恐る画面を覗けば、違う名前が視界に入る。楠寿暁人(なづあきひと)

 中高と世話になった人であり、先程の間違い荷の差出人だ。


「届いたって、微妙に間違えてるし――え。今日ご飯食べに来るの!?」


 驚いて手つかずのままだった段ボールを開封すれば、中にしじみと鮪の柵が2本。

 それとネギトロだ。


「届くのは聞いてたけどさぁ……ま、でも丁度相談に乗ってもらえるからいっか」


 ぬか床を元の位置に戻し、僕は調理に入る。本日のメニューはしじみの味噌汁と鮪の漬け丼だ。

 冷蔵庫から醤油とみりんとお酒を取り出して、丼用の漬けダレを作る。

 先輩は少し甘めの味が好みだ。みりんと酒を耐熱容器に入れて、レンジでアルコールを飛ばしてそこへ醤油を加えたら漬けダレは完成。あとはそれに、そぎ切りにした鮪を漬けて冷蔵庫に戻す。

 しじみも本来はじっくりと砂を吐かせたいところだが、あと3時間もすれば先輩は仕事あがりなのでその時間はない。

 仕方なく湯を使う時短テクで砂抜きし、味噌汁を作成し、その合間にご飯を炊く。

 続けて副菜とデザートまで取り掛かると、いつの間にか帰宅時刻の1時間を切っていた。




 * * *




 食事の支度を終えた時、玄関の鍵が開く。

 入って来たのはスーツ姿の男性。年の頃は20代前半、幼馴染ほどではないも、格好いいイケメンだ。


「お疲れ様です、先輩」

「おう」


 出迎えた僕の頭を先輩が撫でる。


「よしよし」

「あ、もしかしてその顔は、僕が友達作れなかったと思ってますね! ちゃんと出来ましたよ」

「マジか。じゃあ今日はお祝いだな」


 あの食材は慰め用の品だったな、と口を尖らせた僕の頬を、先輩は長い指でぶにっと挟んだ。


「ハハッ。ぶちゃいく」

「あしょばないでくらしゃい」


 てしてしと腹の辺りを軽く小突くと、先輩は、太陽のように、にっかりと笑った。


「で、今日の飯は?」

「鮪の漬け丼としじみの味噌汁、胡瓜と茄子のぬか漬け、だし巻き卵にひじきの煮物、あとは昨日の残りのアスパラの肉巻きです。あ、デザートは時間あんまりなかったのでフルーツポンチですよ」

「やりぃ。めっちゃご馳走」


 そう言うと手洗いうがいを済ませた先輩は勝手知ってるとばかりに奥へと進み、颯爽と席についた。


「いただきます&おめでとう」 


 早速鮪の漬け丼に手を伸ばした先輩は、幸せそうに「くぅ~」と鳴く。


「やっぱ旨い。つーか全部俺好み」

「手土産というか、まあお礼ですので」

「――それで今度は何悩んでるんだ?」

「……分かっちゃいます?」


 僕の苦笑いに彼は「ここまで好物を揃えておいて」と肩を竦めた。

 それに申し訳なさを覚えつつ、僕は彼に一連の出来事を語った。


「――という訳なんです」

「お前なぁ……」


 やはり悪手だっただろうか。

 びくびくと窺う僕に、箸を置いた彼は盛大に溜め息をついた。


「まずこれだけは言わせてくれ。アホか」

「仰る通りでございます」

「勿論、ナツの気持ちも分からなくはない。けどな嘘をつけば必ず何処かで綻びが生じるし、ナツ自身の為にも良くない」

「はい。深く反省しております」

「ん。じゃあこれからどうする? 初恋の君にちゃんと話すか」

「そ、れは折を見て」


 言葉に詰まった僕に、先輩は呆れたように肩を竦める。


「ナ~ツ」

「……はい」

「ついでにカミングアウトもしてこい。慰めてやるから」

「それ完全に気まずくなるやつ。絶対嫌ですよ」


 もし彼が同性愛に偏見を持っていたら、せっかくの大学生活が一気にハードモードに染まる。それだけじゃない。彼に幻滅されると考えただけで怖くて仕方ない。


「どうせ脈ないだろ」

「そうですけど」


 他人事だと思って。

 涙目で、じとりと睨みつければ、彼は僅かな沈黙のあと小さく吹き出す。


「悪い悪い。冗談だって」

「先輩の冗談は心臓に悪いです。なのでデザートは無しです。それと明日のお弁当は作りません」

「! それだけはマジ勘弁」


 先程の飄々とした態度が一転、慌てて頭を下げる先輩。


「……本当に反省してます?」

「してるしてる。何なら俺もその、久貫って子と距離を取るの協力してやるから、な?」

「! 本当ですか!?」

「おう。男に二言はないぞ」

「やった。じゃあ明日のお弁当、先輩の好きな物入れときますね」


 この時、俺はなんとしても、その方法を訊かなければならなかった。





『あ、君がお隣の久貫さんか。はじめまして。俺のナツとこれから仲良くしてやってください』

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