(12) SIDE:凌
玄関を開ける音が彼の耳に飛び込む。
自宅でネットサーフィンをしていた手を止めた久貫凌は、耳をそばだてる。
喜色を含んだ声。微かな足音。
話の内容は聞き取れないが、歓迎されているのは確実だ。肝心のその相手もそれを快く思っているのか、時折笑い声が聞こえてくる。
自分とは真逆だ。
近づくといつだって怯え、距離を取られて心から笑いかけてくれた事はない。自らの所業によるものだと理解していても、凌の心の内はどす黒いもので覆われる。
特にあの男、幼馴染の先輩とやらが彼の傍にいるだけで腸が煮えくり返りそうだ。
『個人の恋愛に口出しは野暮だよ。けどまぁ君がナツを好きだっていうなら話は別だけどさ』
彼の言葉を思い出す。
凌は苛立ち混じりに拳を握る。
確かにその通りなのに、どうにも気に食わない。幼馴染の横にあの男が佇むのを見る度に、凌の心は熱く、そして激しく燃え上がった。
そこへ携帯が一回震える。
表示された画面は件の幼馴染からの通知で、短く「先輩に先にご飯食べてもらうので、そのあとまたご連絡します」という連絡事項だけ。
なんてよそよそしい文面だろう。
それでも幼馴染からの久しぶりのコンタクトに嬉しさを覚えてしまった凌は、片手で顔を覆う。
我ながら重症だ。
同じ男に対する感情でないそれをなるたけ見ない振りして、凌は了解と感謝を示すスタンプを送信した。
既読はすぐについたが、それに対する返信は無い。次に連絡が来たのはそこから一時間半後。今から先輩がそちらに向かいますという文章だけ。
凌はそれを目にすると、何とも言えない具合に顔を歪ませた。
「ナツは……」
「こんばんは~」
玄関の先からあの男の声とともにインターフォンが鳴る。
「今開けます――どうも」
「やぁ。待たせてすまないね」
「いえ……どうぞ」
「じゃ、お邪魔します」
招き入れると、幼馴染の先輩、楠寿暁人は臆する様子もなく、足を踏み入れる。
凌を脅威と捉えていないのか、それともどうでもいいのか、飄々とした態度で勧めた座布団の上に腰を下ろす。
凌はその対面に座った。
ごくりと生唾を飲み込む。
彼の心中に渦巻くような敵意と羨望混じりの怒り、そして妬ましさが広がっていく。
「それで俺に話ってなにかな?」
凌とは対照的に朗らかな顔で暁人が問う。
「分かっているくせに」
「さて、なんのことやら――って冗談だよ冗談。そんな怖い顔して睨まないでくれ」
暁人はわざとらしく肩を竦める。
そして机に片肘をつくと、ナツの事だろうと口にした。
凌の身体がわずかに強張り、指の先にまで緊張が広がっていく。それでも目の前の男に悟られまいと凌は自然体を装う。
頷き、ただ暁人を視界に入れる。
もちろん睨めっこではない。
幼馴染に近づくなとか弄ぶなとか、言いたい事は色々ある筈なのに、いざ口にするとなると反論に躊躇してしまったからだ。
目覚まし時計の針がカチカチと音を鳴らす。それを二人で聞いている。そうして一分ほどだろうか。焦れたらしい暁人が口火を切った。
「俺に言いたい事があるんだろう?」
その声色に含まれているのは怒りではなく、子供に話し掛けるような優しいそれ。
凌の眉間に皺が寄る。心の内に広がるのは不快感だ。まるで対等として扱われていないその事実に胃の中からカッとした熱が膨れ上がり、凌は強く拳を握った。暁人自身に悪気はないのは理解している。だが凌にとっては看過しがたい出来事であった。
それでも暴力に転じてはならないとどうにか自分を諌め、身の内に巣食う熱を排出するように深呼吸を繰り返した。
そうして苛立ちの軽減に成功した頃合いに、もう一度暁人と向き直る。相手は相変わらず穏やかな微笑を浮かべ、じっと凌の出方を待っていた。
排出したばかりなのに、新しい怒りが、じわりと生まれる。
凌は努めて見ないように心がけ、その場で静かに頭を下げた。
忠告したところで彼には決して響かないどころか、先日の二の舞いになるのは目に見えている。ならば誠意を持って願い出るべきだと考えたからだ。
実際、意表を突かれたのか、暁人の口から戸惑いの言葉が漏れた。
凌はその姿勢のまま、畳み掛ける。
「お願いします。ナツの傍から離れてください」
「――なるほど、そう来たか」
暁人から帰ってきた答えは関心。それは凌が求めているものではなく、むしろ要らないもの。だがしかしその先を促すことはせず、ただじっと待ち続ける。
そんな凌に、暁人はわずかに口の端を上げた。
「久貫君。君は何の権利があってナツの交友関係を制限するつもりだい?」
その質問に凌は答えない。それは、その権利など自分には無い事を彼自身も理解していたからだ。
「お願いします」
我ながら情けない選択ではあったが、現状凌にとっての最善はそれくらいしかなかった。
「ナツは俺なんかと違って凄く良い子で、純粋で傷つきやすいんです」
「へぇ。ナツの事、意外とよく分かっているんだな」
「これでも――幼馴染ですから。両親の次にナツを理解してるのは俺だと思ってます。だからナツを弄ばれるような真似をどうしても見過ごせないんです」
お願いしますと頭を持ち上げ、真剣な眼差しで暁人を見る。彼は相変わらず表情を崩さない。いやそれどころか、どこか挑戦的な色を映して、笑っていた。
明らかに凌の要求は通っていない。寧ろ火をつけたと見るべきだろう。
凌は居住まいを正し、両の手を固く握り締める。
「俺は多分そういう意味でナツを想ってます。だから彼の隣に貴方が立つのはどうしても認められない」
暁人は驚いたように凌を眺め、それからおかしくて堪らないとばかりに盛大に噴き出した。
「ハハハッ、ハァッハッハッー。やべ、ようやくかよ。つかやっぱ俺の見立てあってんじゃんか」
「――――――――は? いや何笑っているんですか」
「ククククッ。あぁ、悪い悪い。あんまり面白かったもんでつい。っと、面白いってのは君に対してじゃないからな。そこのところは勘違いしないでくれよ」
「はぁ……」
凌は瞬きを繰り返す。そうして暫し続けていると、笑いから回復した暁人は目尻の涙を軽く拭い――
「君に朗報だ。俺とナツはそういう関係じゃない。ただの先輩と後輩だ」
突然の発言に、凌の時が停止した。
今なんと言った。先輩と後輩。その言葉を頭の中で何度も繰り返す。
「いやいやいや、騙されませんよ。だって首の裏にあんなキスマーク」
どこの世にただの後輩の首裏にキスマークを刻む先輩がいるというのか。力いっぱい否定するとともに、凌は目の前の男の真意を探るべく注視する。
「あ、それはわざと」
「わざと!?」
「君がナツをどう思ってるか探りを入れるのと、これであわよくば意識してくんないかな~ってやってみた」
予想外の返答に、また凌の思考がショートする。コイツはいったい何を言っているのだ。
地球外生命体を見るように眺める。
同時に納得できない疑問が浮かび上がる。それはなぜ彼がそんな事をする意味についてだ。彼には何のメリットもないというのに。
考えられるのは愉快犯ともう一つ。
そこまで考えた凌は、ありえないと口元を覆い、目を見開く。
幼馴染が自分と同じように、親愛でない感情を抱いている。否定を求めて暁人を仰ぐも、返されたのは小憎らしい笑顔。つまりは正解というわけだ。
いったい何時から。そんな素振りどころかあれほど避けられていたのに。何度も何度も記憶の引き出しを漁るもそれらしい該当は出てこない。
「あの、本当に本当なんですか?」
「本当の本当だよ。後はまぁナツと話し合え。ただアイツ今、意地になってるから根気強くいくのと、その顔面凶器をうまく使って懐に入れ」」




