3-9.今日の月も美しい
……真鶴が影ヶ原に来てから、早くも半月が経過した。
今は新月を越えて、二日月。細い糸にも似た月の明かりは弱々しい。
こういう夜は少し苦手だ。十の頃にかかった肺炎の苦しさ、辛さを思い出すために。
唇に指を当て、自室の縁側に腰かけつつツバキを目で愛でた。
真鶴の太股ではこがねが首を載せ、たまに赤い舌を見せながらくつろいでいる。
「あのとき、わたしに口付けをしたのは誰なのかしら……」
最近、よく昔の件を考えるようになった。長雅花のこと、能力のこと、感情のこと――そして、謎めいた接吻のことを。
「こがねは何か知ってる? わたしが伏せる前からあなたとは友達だったじゃない」
友人は器用にも片目だけを開けると、猫のように頭を擦りつけてくる。
「あなたの言葉がわかればいいのに。まだ花とも話すことはできないし、難しいわね」
こがねを撫で、真鶴は長いため息をついた。
ツキミと共に屋敷の掃除や洗濯などを終え、現在、昼八つになって間もない。たまに隙を見て花との思念を試しているのだが、結果はかんばしくなかった。
「本当、何もできないのね、わたし」
帯から淡く光る懐中時計を取り出し、見つめる。
「これが悲しい、のかしら。虚しいということなのかしら」
疑問に対する応えなどどこにもなく、もう一つ嘆息した。
時計を帯に挟み、かぶりを振る。
真鶴を挟んで、こがねとは逆側に加賀男の使う手拭いがあった。それを手にする。
「今からお裁縫をするの。危ないから、動いてはだめよ」
こがねは眠っているのかぴくりともしない。道具箱から裁縫用具をとりだし、真鶴はぼんやりと、小さな穴をつくろうために縫い物をはじめた。
加賀男は今、専用の書斎にいる。神代という区画で火事があったらしく、新しい建物にするかどうかの手紙をしたためているらしい。
彼との関係は平行線だ。式を挙げることもなく、他の長が認めてくれることもない。閨を共にしても、ただ抱き締められるだけ。口付けのくの字もなかった。
真鶴が作る食事は気に入ってくれているようだ。ツキミと共に行う洗濯や掃除の仕方にも、文句をつけられたことはない。
「わたしはどうしたいのかしら。天乃さまと……どうなりたいのかしら」
子を産む器で、飯炊き女で、それでいいと思っていた。
だが、なぜか加賀男と二人きりでいるとき、胸が高鳴る。見せてくれる笑みに、体が熱くなる。その思いに名付ける感情を、未だ知らない。わからないままだった。
優しい彼のことだ、真鶴の居場所を与えてくれているのだろう。実家ではいないものとされてきた自分にとって、加賀男の心遣いはありがたい。
「でも、甘えていてはいけないわよね」
せめて他の長たちに認められるよう、能力を使えるようになれれば――
「痛っ……」
ぼうっとしていたせいだ。指に針を刺してしまう。
針を置いて人差し指を見れば、ぷっくりと赤い血が玉になっていた。
こがねが何事か、といった様子で首を上げる。真鶴は自分の間抜けさに落胆し、肩を落とした。
「今、何か聞こえたが」
加賀男の声がふすまの奥から聞こえる。真鶴は慌てて振り向いた。
「いいえ、あなたさま。気になさらないで下さい」
「……入るぞ」
言うが早いか、普段着の加賀男が部屋に入ってくる。
膝元にいるこがねを見てか、真鶴へ近付く加賀男の顔はどこか、硬い。
「こがねもいたのだな。その指はどうした」
「あ、いえ、少し考え事をしておりまして」
すぐ側に膝をつき、目ざとく指先を見た加賀男が、手を差し伸べてきた。
「指を貸してくれ」
「大丈夫です、このくらい」
「いいから」
有無を言わせぬ声音に、真鶴はおずおずと左指を見せる。まだ拭き取っていない血が、行灯の光に輝いた。
加賀男が体をかがめる。と、次の瞬間、真鶴の指を唇でくわえた。
「あ、あなたさま」
真鶴は目を見開き、急いで手を引っこめようとする。だめだ。手のひらを握る力は強く、舌で舐めとられる指の腹が、痺れたように動いてくれない。
ぞくりと、何か形容しがたい感覚が、背筋を伝う。
「……これで、いいな」
指が口から離れた。顔が熱い。体も。全身が熱を帯びた早鐘になったかのようだ。
「ありがとう……ございます」
「俺の手拭いをつくろってくれていたのか」
間近な距離で、加賀男が微笑を浮かべる。
「はい。まだほとんど、できてはいませんけれど」
ようやく手を離され、真鶴は顔をうつむかせつつ、着物の奥に指を引っこめた。
「縫い物は急がなくても構わない。どうだ、散歩でも行かないか」
「お散歩ですか?」
柔和な声音にそっと、顔を上げる。
背筋を正し、多少距離を取った加賀男が、己の懐から封筒を見せる。
「手紙を出しに、烏天狗へ会いに行こうと思っていてな。ここから近い」
「あの、ツキミさんは……?」
「知らぬ間にせんべいを食ったらしい。今は眠っている」
「ツキミさんが寝てらっしゃるというのに、わたしがお屋敷を離れていいのでしょうか」
「最近、君は念話と家事で忙しかっただろう。少しは休息するべきだ」
「……はい。そこまで仰って下さるなら」
「こがねもいる。心配することはないだろう」
真鶴が気付けば、こがねは太股から離れ、縁側でとぐろを巻いていた。
「それでは身支度を」
「気張ることはない。ほんの少し、山の方へ行くだけだ。道も舗装されている」
「わかりました。無作法にはならないようにしますね」
「無作法をするのは烏天狗の方かもしれんが」
うなずけば、加賀男は苦笑を浮かべ、ゆっくり立ち上がる。
「お留守番をよろしくね、こがね」
首をもたげたこがねに告げ、真鶴も裁縫道具を片付けて裾を払った。
「手を、貸してくれないか」
左手を差し出し、加賀男が言う。少しだけ迷ったのち、真鶴は軽く右の手のひらを重ねた。手を繋ぐ加賀男は、どこか嬉しそうに口角をつり上げた。
手を握られただけなのに、真鶴は体が熱くなるのを自覚する。心臓の動きも速い。
(天乃さまが……わたしをおかしくさせる)
思う真鶴の横で、歩きだした加賀男がぽつりとささやく。
「今日の月も、美しい」
「そう、ですね。細いけれど、本当に……」
真鶴にはそれしか返すことができなかった。
動悸がひどい。胸が脈打ち、今にも飛び出しそうだ。体のほてりはやむことを知らない。
病は、日に日にひどくなっている。治らない、医者にも治せない病が。
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