3-8.少し、遠い
※ ※ ※
黒と深緑が特徴的なラチネ織りのブラウスに、幾何学模様の刺繍がなされたベルト。灰色の縦縞が入ったスカートは少し細い。
ストッキングを着用しているとはいえ、慣れない洋装に真鶴はどこか落ち着かない気持ちになる。髪も今までとは違い、ツキミによってきっちりとした編み込みにされていた。ベレー帽や真珠のネックレス、革の鞄という小物も含め、全てトウ子からのお下がりだ。
現在の時刻は真昼九つ。真鶴は馬車に乗り、加賀男と共に蛇宮の中心街へと向かっている最中だった。
(変ではないかしら)
隣に座り、無言で前を見据えている加賀男をうかがう。
彼も今回はスーツを着ている。コートとソフト帽を見事に着こなす加賀男は、それでも少し疲れているように真鶴の目には映った。
「あなたさま……お疲れ、でしょうか?」
「ああ、いや。慣れない服を着ているからかもしれない」
「あなたさまも?」
「なるほど。というからには、君も洋服が苦手と見た。すまない、付き合わせてしまう」
「い、いいえ。確かに、あまり落ち着きませんけれど……」
加賀男の苦笑に顔を伏せ、スカートを軽く、握る。
真鶴たちがなぜ洋装をしているのか――それは全て一通の手紙からだった。
ふゆ音の手紙には、清陵座という活動写真館に二人で来てほしいという旨が記載されていた。そこは彼女の知人、海蜘蛛が経営するキネマなのだが、客の入りが悪く悩んでいるという。
加賀男いわく、清陵座は『流行をいち早く採り入れるため、洋装でのみの入館』という企画を打ち出している。だが、それが逆に町民の反感を買っているらしい。そこで『星帝さまもご来場』という箔をつけたい、とのことだった。
「星帝というお立場のあなたさまが、贔屓をしても大丈夫なのでしょうか?」
「今回ばかりはふゆ音のいうことを聞かなければならない。他の長三名……らんや銀冥、ハナミが起こした店に、俺はよく通っているから」
「そうなのですね」
「……それにしても少し、驚いた」
「何がでしょう?」
「洋装のことだ。君は、その、和服しか持っていないのかと」
「姉がくれたものなのです。似合わない気はしていますけれど、役立ってよかったです」
「そんなことはない。普段より、なんというか……大人びて見える」
「あ、ありがとうございます」
ふんわりと微笑まれ、真鶴はまたうつむいた。
森の中を行く馬車は坂道を降りていく。鬱蒼とした森はいつしか遠ざかり、ぽつぽつと平屋の店舗や一般世帯の家屋が見えはじめていた。
帝都の世相を反映する影ヶ原だが、真鶴からすればかなり文化が古いままの面もある。江戸後期から明治、大正とごちゃ混ぜになっているのだ。情緒に満ちていて雰囲気は出ているが、時折困惑するときもあった。
ヤナギの街路樹が風にそよいでいる。賑やかな煉瓦街は、銀座の様子を模していたのだろうか。相変わらず行灯や提灯、街灯が闇を色とりどりに照らし、天を仰いでも星は見えない。
しばらくして、停留所に馬車が止まった。
「ここからは少し歩く」
先に降り、駄賃を払う加賀男を見て、真鶴も静かに下車する。慣れない革靴が落ち着かず、いつもより歩幅が小さくなってしまった。それでも彼は、何も言わずに肩を並べて歩いてくれている。
路地に入れば、遠目からでもわかった。清陵座と大きく書かれた看板を構えた、石造りの建物が一つ奥にある。近くには洋服を着こなす鬼子や河童、座敷童などがいるも、通ってきた表通りと比べて人気はなく、閑散としていた。
「これならば確かに、海蜘蛛が困るのも無理はないな」
「お店が見当たりませんね。カフェなどがあっても、おかしくはないと思ったのですけれど」
「そうだな。海蜘蛛に話を聞きに行こう。彼は清陵座の中にいるはずだ」
「はい、お供します」
真鶴が首肯し、歩道を歩きだしたそのとき――
「わああっ、止めてくれ! 暴走だぁっ!!」
「え……」
瓦礫を壊すような音が聞こえる。とっさに振り返れば、十三尺はあろうかと思えた巨大な蜘蛛がこちらに向かって走ってきている。
「あ、っ」
何かに押された真鶴は、バランスを崩して思わずその場に尻餅をつく。巨大蜘蛛の赤い目が、らんらんとこちらを見据え、異常なまでの速度で迫ってきていた。
「お嬢さんっ、逃げとくれぇ!」
蜘蛛の瞳に込められた、悪意。そして殺気。動けない。真鶴はただ目を見開き、後ずさりもできずに襲いかかる蜘蛛を見つめた。
「真鶴!」
焦燥した声音を発し、加賀男が動いた。真鶴の前に飛び出すと、パン、と大きく手を鳴らす。
「あなたさま……っ」
「星帝の名において命ずる! 霊気よ、鎮まれ!」
叫び、大の字に手足を広げた瞬間だった。手のひらから放出された緑のまたたきが蜘蛛を包んだ。瞬時に勢いが止まる。
あと少し、僅か三尺程度というところで蜘蛛は、完全にその動きを停止した。
「せ、星帝さま……!」
蜘蛛が引く車に乗っていた青年は、顔を青ざめさせて車体から飛び降りてくる。
「……無事か、真鶴」
「は、はい。申し訳ありません、あなたさま」
振り向いた加賀男のおもては厳しい。それでもようやく立ち上がれた真鶴は、殺気に近い気配が消え、ただ胸を撫で下ろすことしかできなかった。
青い短髪にスーツ姿の青年が、加賀男の前で額を擦り付けるように土下座をしてみせる。
「すんません、星帝さま! ワイがちょっとばかしよそ見をしたら……!」
「海蜘蛛の黎よ。今回は俺がいたからいい。だが、蜘蛛車を暴走させるとは、怠慢もいいところではないか?」
「へい……最近、清陵座に客も入らず、ヤケ酒したらこのありさまで」
「愚か者! 被害が大きくなったら、どう責任をとっていたと言うんだ!」
何事かと表通りから、そして無事だった路地のあやかしたちが、怪訝な様子で真鶴たちを見てきていた。加賀男の叱咤は厳しく響き、その声音に沈静化した巨大蜘蛛も身をすくませている。
加賀男はしばし「すんません、すんません」と謝り続ける海蜘蛛――黎を見下ろしていたが、すぐに嘆息し、かぶりを振る。
「君が酒をあおりたい気持ちはわからないでもない。だが、もし……」
細められた瞳が真鶴を見た。真剣な眼差しで射貫かれ、真鶴は自然と首を横に振る。
これ以上、衆人の前で、住人を咎めてほしくないという気持ち。助けられたことに対する安心感から、無意識にそうしていた。
「……もういい、黎。頭を上げてくれ」
「け、けども」
「星帝の命である。被害がないか確認したい。手伝ってくれるな」
「へ、へい! そりゃもう」
涙を浮かべた黎は何度もうなずき、肩を落としながらも立ち上がる。
加賀男が再度、真鶴の方へ向き、少し気落ちした様子で口を開いた。
「すまない、危ない目に遭わせた。周囲の様子を確認したいから、君はここで待っていてくれ」
「わかりました、あなたさま」
無表情のままに答え、真鶴は、黎と共に蜘蛛車の後ろへと赴く加賀男を見送る。
遠くの路地の角、石造りの家屋が見事に半壊していた。街灯も折れ、鬼火が青白い炎を爆ぜさせている。加賀男がここに来るのが珍しいのか、多くのあやかしたちが彼の元に集い、賑わいはじめていた。
(何かに押された気がするのだけれど……)
残された真鶴は、不意に思う。慣れない革靴で滑ったのかも、と小首を傾げたとき、唸るような声音が聞こえた。自然と意識がそちらへと向く。
丸眼鏡をかけた女生徒――小さなキツネの尾と耳を持つ少女が、足首を押さえて横座りしている。逃げようとして転んだのかもしれない、と真鶴は瞬時に理解した。
歩道を渡り、井戸近くの隅にいる少女へと近付く。
「大丈夫ですか? 怪我をなさったのですか」
「うん。足、ひねっちゃって……ってなんだ、人間か」
あからさまに落胆する少女に、それでも真鶴は素早く動いた。革の鞄からハンケチを出し、井戸水にさらして冷たくする。怪訝な顔を作る少女の元に戻り、足首の様子を見た。
「少し、足を動かさないで下さいね」
「え……あ、ありがと……」
「どういたしまして」
多少赤くなっている部分にハンケチを当てれば、心地いいのか少女が吐息を漏らす。
「真鶴? どうした」
「あなたさま。この子が怪我を」
人混みを掻き分け、こちらへ向かってきた加賀男に「わっ」と驚いたのは、少女だ。
「星帝さまじゃんか……! あ、じゃああなたが噂の人?」
「え、ええ。多分そうではないかと」
真鶴は曖昧に返答し、怪我を再度確認する。横に並んだ加賀男を見上げると、彼は難しい顔をして一つ、うなずいた。
「他にも数名、軽い負傷者がいる」
「どうしましょう……」
「こういうときこそ、星帝である俺の出番だ」
加賀男が二度、柏手を打つ。その指先が黄色く輝いているのを、真鶴は見た。
「星帝、天乃加賀男の名において、星の加護よ降れ。月より儚く陽よりも微かな癒やしの力よ」
彼が片手を上げた、刹那。
細かい金箔にも似た光が、周囲の空から降り注ぐ。あやかしたちから歓声が上がった。金箔のまたたきは少女の足にもぴたりと張り付き、体に浸透するように溶け消える。
「この輝きは……?」
「まつろわぬものたちの持つ霊気を埋める治癒の術だ。病には効かず、完全に治癒はできないが、応急処置にはなるだろう」
「あ、痛み楽になったぁ」
「完全な治療ではない。家に帰り、養生することだ」
「ありがと、星帝さま」
今にも飛び上がらんとする少女に、加賀男は苦笑を漏らした。
(わたしが長雅花を咲かせられていれば、こういうときに役立てたのかもしれない)
真鶴は思う。胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。
あやかし、いや、まつろわぬものたちに囲まれ、礼をいわれている加賀男を見て強く、感じる。
(当たり前がわたしにもできたらいいのに)
無力感はしかし、表情を動かす糧とはならない。少女からハンケチを返してもらい、ただ、みなから慕われる加賀男を見つめた。
彼が少し、遠い――そんなことを感じたのは、なぜだろう。
答えも出せぬまま、微笑を浮かべる加賀男の横顔を、黙って見続けた。
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