3-5.逃げてはいけないとわかっているのに
「お邪魔でなければ、わたくしもご一緒しても? 仕事で話したいこともございますの」
近付いてくるふゆ音は、相変わらず堂々としている。
真鶴に向けられる笑みは華やかだが、瞳にありありと嫉みの炎が宿っていた。
「何かあったか」
「少しばかり。座ってもよろしいでしょうか、加賀男さま?」
加賀男が真鶴の方を見た。今までの笑みが嘘のように、凜然たる顔つきで。
真鶴は小さくうなずく。仕事の件があるのなら、邪魔立てするにはいかないだろう。
「わかった。ただし、手短に済ませてくれ」
「もちろんですわ。お邪魔しますわね、真鶴さん」
「いえ……」
「鬼子、疾く紅茶と果物を持ってきなさいな」
給仕に言い捨て、ふゆ音は空いていた椅子を机へとくっつける。
「話というのは?」
「実は……」
困ったように口を開いた彼女は、真鶴の方を向きもしない。
それからは、加賀男とふゆ音、二人の世界だった。
真鶴にはわからない用語や言葉、単語ばかりが飛び交う中、一人黙ってしるこを食べる。
美味しいはずの甘味が、なぜかとても味気ない。餅の軟らかさもよくわからなかった。
二人の様子を、静かにうかがう。よく通る声で話すふゆ音は楽しそうだ。
加賀男は厳めしい顔つきをしていたが、彼女の疑問や質問に、考える素振りをしながら指示を出しているように真鶴には見える。
(怖がってはいけないのに……堂々としていなければ)
思えば思うほど、二人から遠く離れていく感覚に襲われた。
独り――そう、感じる。
(これが寂しい、ということ? でもお姉さまのときとは違う。もっと……)
それ以上言葉にできない感覚が、胸に穴を作るようだ。
無心を務めて食べ進めていけば、いつの間にか紅茶も飲み干してしまった。しるこの椀も空になる。
鬼の給仕がふゆ音へ食事を運んできたときには、カフェの中も賑わいはじめていた。
真鶴は、無性にこがねに会いたくなる。こがねなら、この謎めいた気持ちに名前をつけてくれるだろうか。
「あの」
二人の会話が一瞬途切れたとき、静かに声をかけた。
「どうした」
「何かしら、真鶴さん」
「わたし、先にお屋敷へ戻ります。お仕事の邪魔はできません」
「一人で? それは危険だ」
「あら、加賀男さま。真鶴さんは子どもでもあるまいし。蛇宮も安全ですわ」
「だが……」
「ふゆ音さまの言うとおりです。道程は覚えていますから。後でここの代金もお支払いします。ツキミさんの手伝いもしなくては」
立ち上がるこちらを、加賀男は心配そうなおもてで見てくる。
真鶴は曖昧に首肯した。心配などない、する必要はない、と言わんがばかりに。
「……時計は持っているな」
「はい」
「馬車乗り場が途中あっただろう。そこで落ち合うことにしよう。少し待っていてくれ」
「わかり、ました」
重い口調に、遠慮も否もできない。
「それではわたしはこれで……」
「さようなら、真鶴さん。道中お気をつけて」
「ありがとうございます」
ふゆ音の瞳に宿る憎悪を見ないよう、真鶴は頭を下げたのちすぐ二人へ背中を向けた。
一階に下りて外を目指す。カフェには様々な種族が満ち溢れ、好奇の視線を真鶴へと投げかけてくるものすらいた。
(美味しかったわ、おしるこも紅茶も)
視線から逃げるように、そそくさと店を出る。
路地裏にはあまり、まつろわぬものたちはいなかった。そこでようやくため息をつく。
「……逃げてはいけないとわかっているのに」
呟き、表通りを目指して歩き出す。
(……あいすくりん、美味しかった)
星が見えない月明かり。道を照らす色とりどりの行灯、提灯。電灯に灯った微かな光。輝きの渦はまるで祭りの最中だ。
だが、美しいまたたきも、真鶴の心をより陰鬱にさせるだけだった。
(お仕事をするのがいやなのかしら、わたし)
強い女性になりたい、と思っていた。姉のように、夫を支え、励ませるような女性に。
しかし事実、どうだ。星帝の妻として飾りとなっているばかりでなく、甘やかされてばかりいる。
「せめてお屋敷のことはできるようにしないと」
どこか暗いささやきは喧噪にまぎれて消えた。
表通りでは、酔っ払った一反木綿とムジナの親分が喧嘩をしている。賑やかす町人たちは、見た目は多少怖いものもいるが、誰もが楽しそうだ。
喧嘩の様子に気を取られているものが多いため、誰も真鶴を気にしない。
「馬車乗り場は、確か……あそこね」
道を挟んだ先にある待合場所へ向かい、長椅子に腰かけようとしたとき。
足先が一瞬むず痒くなった刹那、ぷつりと突如、鼻緒が切れた。
「あ」
突然のことに驚く。おろしたての草履だというのに、不吉だ。
「……手拭いを忘れていたわ。どうしましょう」
加賀男に「手ぶらでいい」といわれて、用意をおこたった自分が歯痒い。
木の長椅子に座り、草履を脱ごうと半身を屈ませた。
「あれっ、もしかして真鶴ちゃん?」
「はい……?」
朗らかな声音に、顔を上げる。
そこにはみつやがいた。この間会ったときとは違い、どうやら素面のようだ。
「やっぱり。いやはや偶然だねえ。何、買い物でもしに……」
へらへらと笑っていた彼だが、真鶴の足下を見て、瞬時におもてを変える。
「少し動かないで」
「え」
みつやが真剣な面持ちで、懐から小刀を取り出して近付いてくる。何が起きているのかわからず、真鶴は地面と足を見たまま固まった。
「ふっ」
みつやは小声と共に、抜刀した刃で地面を刺した。
するとどうだろう。空気がそこだけ盛り上がり、何かが浮かび上がってきた。
「……蜘蛛」
真鶴は、一匹の小さい蜘蛛が体液を流して死んでいるのに、ぞっとする。
「あの女の子飼いか。うん、もう大丈夫だよ」
「あ、ありがとうございます。みつやさん」
小刀を片付け、革靴で蜘蛛を踏むみつやへ、慌てて謝辞を述べた。
「礼ならベーゼでいいよ」
「べぇぜ? なんでしょうか、それは」
「冗談冗談。いやあ、それにしても女の執念は怖いね」
「執念……」
脳裏にふゆ音のほくそ笑む顔が浮かぶ。また悪寒を感じ、草履から手を離した。
「どうやらコイツに噛まれたみたいだね、鼻緒。それ、直してあげる」
「いえ、みつやさんのお手を煩わせるわけには」
「ハンケチがあればどうにでもなるさ。ささ、貸して」
笑顔を浮かべるみつやに、真鶴は困った。
最近、与えられる優しさに甘えてばかりだ。これではいけない――そう思い、かぶりを振る。
「今、天乃さまと待ち合わせをしているのです。ですから、きっと……」
「真鶴!」
大丈夫、と言おうとした刹那、加賀男の声が届いた。
苦い面持ちを作った加賀男が、小走りでこちらへと向かってきている。
「うん、ぼく、完全に誤解されてそう」
「みつやさんはわたしを助けてくれたのでは?」
「そうだけど……まずいなあ。加賀男のやつ、怒ってるな。よし、また逃げるか」
「あ、あの、お礼を」
「ありがとう。楽しみにしてるよ、真鶴ちゃん。じゃあね!」
みつやが全速力で、去っていく。加賀男が真鶴の傍らにおもむいた際には、すでに彼の背中は遠く、小さいものになっていた。
「……何をしていた、二人で」
「鼻緒が切れてしまって。直してあげるといわれましたけれど……」
真鶴を見下ろす加賀男は、みつやの言うとおり、なぜか不機嫌そうだった。
「その、あ、あなたさまがくるから大丈夫だと。そう告げたら、逃げてしまわれました」
どうしてでしょう、とささやいて真鶴が首を傾げると、加賀男は大きく嘆息する。
「少し、心配した」
「申し訳ありません。鼻緒を切らしてしまうなど、不注意もいいところです」
ふゆ音の蜘蛛が噛んだ、とは真鶴は言わなかった。
思い人に甘やかされている女を見て、機嫌がよくなる存在など、きっとどこにもいはしないだろう。
「……馬車まで少し、距離があるな」
「あのくらいでしたら足袋を汚しても構いません」
真鶴を見る加賀男の瞳がやわらいだ。優しい視線だった。
「少し足を曲げて、立ってくれるだろうか」
「あ、はい」
直してもらえるのかも、と真鶴は思う。だが次に、加賀男は片膝を突いて真鶴の側へとしゃがみ込んだ。
「あ、あなたさま?」
「首に手を回してくれ。馬車まで君を運ぶ」
「それは、あの、だめです。星帝さまというお方が……」
「いいから」
穏やかに、しかしきっぱりといわれて、真鶴は焦った。
加賀男を見る。彼はうろたえる真鶴の腰と膝の裏へ、すでに手を回していた。
「掴まらないと、落ちる。……いくぞ」
「あ、きゃっ」
つい首へと両腕を回す真鶴を、加賀男は横抱きにして立ち上がる。
頭が、思考が追いつかず、真鶴はただただ口を開け閉めさせるだけだ。
「重いので、おやめに……」
「どこが重い。もう少し君は食事をするべきだ」
まっすぐ前を見据え、答える加賀男を真鶴は至近距離で見つめた。
(……綺麗な、お顔)
場違いなことを思う。
すっと通った鼻梁に薄めの唇。さらさらとした銀髪が、真鶴の肌に触れた。
すぐ側にある馬車までの距離が、とても長く感じる。心臓がとくとくと脈打つ。なぜだろう、今は何も考えられない。
唇を一つ引き締める。
甘い甘い、氷菓の味が、した。
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