3-4.あなたさま
戸惑いながらも、天乃家の家紋――曜紋が五つ入った着物などを一式、加賀男に購入してもらった真鶴は、今彼と共にカフェの二階にいた。
隠れ家のようにひっそりと路地裏にあったこの店は、人気が少ない。それがまた洋風の造りにあるおしゃれさと、洗練された落ち着きを醸し出している。
蓄音機からは聞いたことのない曲が流れ、一階では撞球の玉が弾かれる音が微かに響いていた。
(たくさん料理があるのね)
手にした品書きを見て、真鶴は何を頼むかで迷ってしまう。
女学校にいたとき、母が存命のときもカフェにはきたことはなく、今回がはじめての来店だ。
「おしるこ……チョコレイト……あいすくりん……」
「どれでも好きなものを頼むといい」
「は、はい。色々なものがあるのですね」
つい品書きの項目を口に出してしまい、慌てて唇を押さえる。
加賀男が不意に微笑んだ。
とても優しく柔らかい微笑を見て、真鶴の鼓動はまた、速まる。さっと首を下げ、体の変化に困惑するばかりだ。
(さっきからわたし、おかしいわ。心臓の病だったらどうしましょう)
「俺は紅茶とあいすくりんにしよう。君は、どうする」
「え、ええと……紅茶、と、おしるこを」
うつむいたまま、答える。
紅茶なら数回、姉がこっそり飲ませてくれたことがあった。しるこは同級生が「甘くて美味しい」と話していたことを記憶している。
「わかった。鬼子、紅茶二つにあいすくりんとしるこを一つずつ」
加賀男が鬼の給仕にそれらを頼んだあとは、しばらく二人、無言だった。
「……天乃さま」
「なんだろうか」
沈黙を裂くように真鶴は顔を上げ、軽く頭を下げる。
「お着物、ありがとうございます。こんなによくしていただいて、わたしは幸せ者です」
「……俺のわがままに付き合ってもらっているだけだ」
「それでも心遣いがありがたいのです。何かお返しができればいいのですが」
「ならば一つ……その、頼みがあるのだが」
「わたしにできることでしたら」
加賀男がまた少し、困ったおもてになった。口を開き、閉じ、何かを言いよどんでいる様子だ。
「天乃さま?」
「呼び方を、変えてほしい」
あ、と真鶴は小さく声を上げた。
「これは失礼をいたしました、星帝さま。わたし、なんて無作法を」
「いや、その、違う。俺は確かに星帝だが、帝と呼ばれたいとは思ってはいない」
「……?」
「君もいつか天乃になるだろう。苗字呼びはおかしい、と感じてな」
「そう……ですね」
真鶴は困った。確かに言われればそのとおりだ。だが、そうなると加賀男のことをどう呼べばいいのか、見当がつかない。
「せめて……せめて、あなたさま、と。そう呼んでみてはくれないか」
「あなたさま……」
呼べばどくん、とまた一つ、心臓の鼓動が大きく鳴った。
夫を呼ぶ言い方に、そして体の異変に多少、慌てる。
「あ、天乃さま。わたし少し体がおかしいのです」
「呼び方」
「……あ、あなた、さま。これで……よろしいでしょうか」
加賀男が鷹揚にうなずいた。苦笑を浮かべながら。
「体の調子が、どうおかしいんだ。疲れたか?」
「いえ……心臓がどきどきして、体や頬がほてってしまって」
「ああ、それなら大丈夫だ。前者なら俺も、同じだから」
「同じ? 影ヶ原特有の病なのでしょうか? みつやさんに診てもらった方が」
「あれには治せないだろう。それにこれは病だが、医者の出る幕ではない」
目を伏せて口角を上げる彼に、真鶴は首を傾げてしまう。
医者の出る幕ではない病。致命的な、致死率が高いものなのか、考えると恐ろしい。
「困ります、それに怖いです。皆さんがかかって治らなかったら、と思うと」
「怖れることはない。君は、本当に優しいな」
「優しい……」
そうだろうか――と内心悩んだとき、給仕が頼んだものを持ってきた。
眼前に置かれた、紅茶とおしるこの馥郁たる香り。朝食もちゃんととったというのに、病のことが気になるというのに、美味しそうで腹が鳴りそうだ。
「とりあえず食べよう。ここの餅も、牛乳も絶品なんだ」
「は、はい。いただきます……」
食べれば体もよくなるかもしれない。そう思い、しるこをすくって口に含む。甘くて、ほっぺたがとろけ落ちそうだ。
「美味しい。甘い……」
粒あんを咀嚼し、飲みこむ。喉越しもさっぱりとしていて、上品な甘みだ。
紅茶にも手をつけてみた。隠れて飲んだ際とは違い、日本茶とは異なる異国の風味を堪能できる。
「真鶴」
「はい?」
名を呼ばれ、軽く口を開けて返答した瞬間。
「ひゃっ」
冷たい匙が唇につき、驚く。加賀男があいすくりんの載った匙を、口の中央に押しつけてきたのだ。
「一口食べてみるといい」
「あ……」
吐息を漏らせば、押し出された氷菓が真鶴の口腔に滑りこんでくる。
その冷たさ、そして仄かな甘さといったら、また美味だ。知らない味に目を閉じ、うっとりする。
「美味いだろう」
「……はい、とても」
子どものときのように食べさせられたことを恥ずかしく感じつつ、瞳を開いた。
「あ、あま……いえ、あなたさま。匙を変えなくては」
だが、加賀男が平然と、使った匙を自らの口に運ぼうとするのを見て、手を伸ばす。
伸ばした指は届かなかった。そのまま匙を含む加賀男は、一つうなずいてみせる。
「甘い」
「あの、匙……」
「今日のこれは、とりわけ甘く感じるな」
そのまま、なぜか嬉しそうに氷菓を食べ続ける彼に、真鶴はまいってしまった。
(わたしが口をつけたものなのに)
これ以上止めるのも無駄かもしれない。そう感じ、大人しくしるこを食べる。
しかし不思議と、彼からもらったあいすくりんの方が、美味しく感じた。決してしるこが不味いわけではないはずだ。
「どうしてかしら……」
「まっ、加賀男さま。真鶴さん」
呟いた声が、聞き馴染みのある声音にかき消された。
体がびくりと跳ねる。悪寒が背中を伝う。
「ご機嫌うるわしゅう、お二方」
おそるおそる階段の方へと視線を向ければ、そこには声のあるじ、ふゆ音がいた。
「ふゆ音か」
「……こんにちは」
「お二人で逢い引きでしたかしら?」
真鶴と加賀男が言えば、まるで逆三日月のように、ふゆ音の赤い唇がつり上がった。
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