4-1.姫子との逢瀬
蝉時雨を浴びながら、私は猫淵の社の前で手頃な岩に腰掛けていた。
桑の木々に覆い隠された神域には、初夏の陽光も桜花の芳香も届かない。
白昼なのに黄昏のように暗く、さりとてそこに夜の寒さはない。二匹の兇悪な目をした猫が鎮座しているものの、居心地のいい空間である。
私は瞑目し、帰郷してからの出来事を――否、嘉多子と姫子、二人の娘を案じていた。
一人目は、希臘彫刻の如し美相の令嬢であるが、その際立った美ゆえに、どこか人間味の欠落した娘である。その癖、鳶色の瞳は常に私を捉え、こちらが何らかの反応を示すたび、滑らかな輪郭をした頬に朱色の熱が灯るのだ。
私とて木の股から生まれた訳ではない。ゆえに見当もつく。
嘉多子は私を慕ってくれているのだろう。
だが、私はその人間らしい温かな心に応えるつもりはない。
姫子がいるからだ。
姫子は、生まれた時分から白い髪に白い膚をしているらしく、外見だけならば歴劫不思議で、ある種の神々しささえ纏っていた。だが、黒々とした円い瞳を輝かせ、童のように写真を欲した姿を私は知っている。
私が写真を持参した五月某日、姫子は文字通り飛び跳ねて私を歓待してくれたのだ。
私は、姫子という未だ正体の掴み切れぬ娘に間違いなく惹かれていた。それが、男としての熱を帯びた恋情なのか、或いは写真家として、どこまでも冷え切り湾曲した向上心なのかは判別に難い。
私は、己の欲望を解析しないまま、こちらの動向を詮索する嘉多子を躱しつつ、姫子との逢瀬を幾度も重ねていた。
尤も、逢瀬とは雖も特筆することは何もない。
猫淵の社の前で落ち会い、雑談に興じ、互いに飽きるか話題が尽きるかしたら別れるだけの、味気も色気も無い邂逅である。
ただ、その桑中之喜にもひとつだけ懸念があった。否、懸念という表現は適切ではない。包み隠さずに云えば、ある一点において、私は姫子を恐れているのだ。
それは。
「ゆめあき。今日は、はやいのね」
唐突な呼び声に我に返る。顔を上げれば、目の前に姫子が立っていた。
私が岩に座しているため目線の高さは等しい。黒く濡れた瞳が私を覗き込んでいる。何を思っているのか察し得ぬ不可解な光である。
嗚呼、これだから不得手なのだ。
「ねえ、どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
答えながら、訝しげに首を捻る姫子の前髪を梳る。私の掌は、彼女の視線を遮ることに成功する。
「君の髪は手触りが良いな。絹糸のようだ」
「そう? 自分では分からなかったけれど、ほめられるのは気分がいいわ。もう少し続けて。あなたに撫でられるの、嬉しいもの」
「承知した。君が飽きるまで楽しませてもらおう」
姫子の双肩に手を乗せ、少々強引に背を向かせる。私に凭れさせ、その姿勢のまま手櫛で丁寧に髪を梳かしてやる。私の狼藉に微かな反発を見せた姫子であったが、私が取りあわぬと分かるや次第に何も云わなくなった。
何故、私が紳士らしからぬ振舞いに踏み切ったかと云えば、姫子の目が苦手であったからだ。
姫子がいかなる表情をしていても、その眸はいつも無機質な色を帯び、私を見透かそうとするのだ。なのに、こちらからは彼女の心情を微塵も窺うことができない。
意思の疎通ができぬのなら、最早人間とは呼べない。家猫ですら、眼差しで何かを訴えもするのだ。愛玩動物にも劣る――まるで蟲の如し眼である。
五日前、私と嘉多子を襲ったあの老父のように。
ゆえに、私は時折、姫子が人の皮を被った違う生き物に見えて恐ろしくなることがある。
老父と云えば――嘉多子の学友が殺された事件について、まだ姫子に説明すらしていない。本来ならば一番に伝え、身の安全を促すのが筋なのだろうが、私は触れずにいた。
まだ官憲達は下手人を捕縛するに至らず、徒に不安を煽るのも好ましくないと思ったのだ。それに、おそらく姫子もあの老父の存在を知っている。その証左に、彼女は日が暮れる前に私を帰らせようとするし、この山里付近をうろつくなと執拗に釘を刺すのだ。
いずれににせよ。
幾年振りに帰って来た故郷なのに、まるで見知らぬ郷に迷い込んだが如し漠然とした不安と寂寥が私を不快にさせた。
「ねえ、こっちを向いて」
見れば、目と鼻の先に姫子の愛らしい貌があった。
嘉多子と違い、その膚は血が通っていないのか、凍てついたような月白をしている。
もしこれが嘉多子なら、慌てて紅潮した顔を逸らしているだろう――と遠くで思う。
姫子の手が私の頸に回された。
私も、姫子の双肩を掴んでいた。
どちらからともなく、私と姫子は顔を寄せ合い――接吻をした。
時間にすれば数秒間にも満たない淡泊な接触である。だが、身分も肩書きも、下手をすれば同じ人種かすらも怪しい我々が、秘めた慕情を交換するには十分過ぎる遣り取りであった。
この時だけは、姫子に対する臆病な心も、後ろめたさも存在しなかった。
彼女が私を好いてくれていることが――私の一人相撲ではなかったことが嬉しかった。
「ゆめあき――」
陶然とした面持ちで姫子が呟く。
「どうしよう。妾、心が落ち着かない。何かがあふれてしまいそう。――でもね、いやじゃないの。ううん、とても嬉しい」
そう云い、姫子は微笑んだ。見ているこちらが切なくなる笑みであった。
「私もだ。私も、嬉しい」
想いに応え姫子を抱き寄せれば、彼女は微かな声を漏らす。暫くそうしていれば、おずおずと私の背に二本の腕が回される。
油蝉の合唱が遠くなった――気がした。
「姫子。私は君のことを知りたい。教えて欲しいことがある」
抱擁したまま問えば、私の胸に頬を擦り付けていた姫子は徐に顔を上げる。
「少し前のことになるが、私は恐ろしい化物に襲われた。腕と脚が異様に長く、足軽鎧を纏った落武者のような老父だった。何とか逃げることはできたが――他の娘が殺されてしまった。君は、何か知っているんだろう。どうか、私に教えてくれないか」
「きっと、その子は夜に出歩いたから狙われたのよ」
「狙われた? やはり、君はあいつを知っているのか」
暫くの間、私を見詰めていた姫子であったが、やがて意を決したように頷いた。
そして。
「あれは常世から降りてきた神様よ」
と云った。
神様?
嘉多子も同じことを云っていた。それよりも。
「常世というのは」
どこかで耳にした言葉である。
慥か、柳田国男先生が見出した民俗学――果たして、風俗を紐解かんとする実地調査ばかりのこの試みを学問と呼んでいいものかという議論は未だに絶えないが――における概念のひとつではなかったか。
「山の涯にあって、人の世から外れた場所のこと。あれはそこからやって来て、人を喰べてしまうのよ。あなたがあれに会っていたなんて知らなかった。よく無事でいられたわね」
「生憎、全くの無事とは云えないのだ。写真機の閃光が効いたのだ。目を眩ませたあと、この洋杖で顔を殴れば逃げていってくれた」
「よく分からないけれど、あなた、強いのね」
「虚仮嚇しが偶然上手くいっただけだよ。それに」
あの時、あの老父は姫子を殺したものとばかり思っていた。
ゆえに、仇討ちとまではいかなくとも毅然と散ってやろうと思っていたのだ――とは云わず、まだ君に写真を見せていなかった、だから死ねなかった、と答えた。
「姫子。あいつは何なのだ。いや、訊き方を変えよう。奴と君は無関係ではないのだろう」
「妾が答えられないと云ったら、あなたはそれで納得してくれる?」
「それはできない。頼む。教えてくれ」
私を上目遣いで見遣ったのち、そんな目で見るなんてずるい、と姫子は呟いた。
「話すわ。妾も、自分のことを知ってもらいたいからね。たとえ、あなたに嫌われたとしても」
「止してくれ。そんな莫迦なこと云うものじゃない」
「ばかなこと、なのかな」
「そうだ。君を嫌いになる訳がない」
いつの間にか、万能感を伴った青臭い勇気が全身に満ちていた。その熱量に身を委ね、姫子の手を牽き、彼女を帝都まで連れ帰ってしまいたかった。
だが、堪えた。
私はもう大人であり、紳士であり、写真家なのだ。社会を知らぬ小童の蛮勇では、おそらく姫子は救えまい。
「もう一度訊くよ。あいつと君はいかなる関係なのだ」
漸く、姫子は観念したのだろう。
私の胸に顔をうずめて。
「妾は、あの神様に喰い殺される。そのためだけに生まれた――生贄なのよ」
と云った。
背中に、つい先刻まで感じていた腕の温もりは消えていた。
姫子と別れてから、私はすぐ鷹木の許に向かった。
間が良いことに、細君が竹箒で店先を掃き清めているところであった。
洋館らしい木製の重厚な扉には、『骨休み』と書かれた板切れが吊るされている。
「もし。少し宜しいですか」
声を掛ければ、細君は手を止めて朗笑を浮かべる。
「こんにちは。今日はどうされましたか」
「突然にすまないが、主殿に訊きたいことがあるのだ。休みのところ申し訳ないが、取り次いでもらえないだろうか。いや、なに。都合が悪いのであれば日を改めるが」
「別に構いやしませんよ。あの人、お仕事のない日はいつも退屈そうにしていますもの。それに最近じゃ、伊達さんが早く来ないか、なんてことばかり云っておりますよ」
「あいつが。意外ですね」
「憎まれ口ばかり叩くけど、本心じゃ喜んでいるんですよ。天邪鬼なところがありますから」
それは光栄ですね、と返せば、細君は私を不思議そうに見たのち、何かございましたか、と訊いた。不意の問いである。
「まあ、何かあったかと云えばそうなのだが」
「まるで人を殺そうとしているような悪いお顔をしてらっしゃいますよ。あの人を呼んできますから、いつもの部屋で待っててくださいな。冷たい麦茶も用意しますから」
細君は箒を外壁に立て掛けると、やや急ぎ足で館へ入っていく。
精神の乱れが表情に出てしまったのだろうが、まさか人殺しの面と指摘されるとは思わなかった。そしてそんな人相の男をこうも容易に迎えてくれるとも。無論、悪事を働く気もなければ、そのような度胸も持ち合わせてはいないのだが。
そこまで考えてから、笑ってしまった。
きっと、あの懐の深さが細君の魅力なのだ。あの偏屈な友人は、さぞ素晴らしい嫁を貰ったものである。改めて褒め称えてやろう、と考えてから煉瓦館の敷居を跨いだ。