3-2.撮影部屋にて
案内された部屋は八畳程度の洋室であった。
褐返の絨毯に萌黄の窓帷、中央には一脚だけ取り残された猫足の椅子が佇んでいる。
「今日はもう使わんから、存分に撮ってもらうがいい」
「鷹木のお兄様。わがままを云ってしまい大変すみませんでした。ありがとうございます」
深々と御辞儀する嘉多子に、この程度我儘のうちにも入らんよ、と鷹木は得意気に云い、残った仕事があるからこれで失礼する、と早々に去っていく。
ひとつしかない戸が閉められたのを確認してから、嘉多子は私を見遣る。
「お兄様。私、もう待ちきれませんわ。この椅子に腰掛ければ宜しくて?」
「そうだな。そうしてくれ」
私が返事するよりも早く嘉多子は着座する。
喜色を抑えきれない年相応の振る舞いに思わず頬が緩む。
「いやですわ。そんなに笑ってどうしたのです」
「君も、そんな風に笑うんだな」
一寸意外だったよ、と云えば、私をどう思ってらっしゃるのか教えてほしいわ、と嘉多子は形だけの非難をする。
――ゆめあき――。
不意に、桑林で出会った少女の姿が脳裏を過る。
他人の空似だろうか。
嘉多子と姫子が重なって見えた。しかしその幻視も一瞬だけで、眼前の嘉多子は蠱惑的な女学生に、想像の姫子は神秘的な少女へ乖離する。
仮に、である。
被写体を比較するなど些か誠実さに欠けるのだろうが、嘉多子と姫子の一方を選べと云われたなら、私は間違いなく姫子を望む。
慥かに嘉多子は佳容である。均衡の取れた顔に、すらりと伸びた四肢をもち、美相は舞台女優に勝るとも劣らない。それでいて、己が目を引く容姿であることを認めながらも、鼻に掛けることもない。要は、弁えている――否、どこまでも恣意的なのだ。
写されることを知りながら振る舞う者を撮っても何も面白くない。それで良い写真が撮れたとしても、その功績は写真家のものではない。被写体が優れているこそでしかない。
だが、姫子はどうだ。
写真機というものすら知らず、浮世離れして、どこまでも純粋たる瞳をして――。
姫子の価値を見出し、刹那の美を取り出せるのは私だけだ。他の者では、適切に撮ってやることはおろか、あの娘の魅力に気付くことすらできないだろう。
姫子が欲しい。
彼女を、私だけのものにしたい――。
そこまで思索を巡らせて、己が欲に呑まれた醜い顔を晒していることを自覚する。
「あの、お兄様?」
いかがなさいました、と椅子に座った嘉多子が訊く。
「もしかして、脚の傷が痛むのですか」
「いや、そういう訳ではないのだが」
「嘘よ。とても苦しいお顔をなさっていたわ。本当に大丈夫なの?」
「いや、なに。心配はいらないよ」
医者を呼んでも痛みが消えるわけでもないからな、と話を合わせれば、嘉多子は困ったように眉根を寄せる。
――いかんな、興が削がれた。
嘉多子には悪いが、もう写真を撮る気分ではなくなってしまった。
少しばかり、寄り道をさせてもらうとするか。
通り魔に殺された私の父について。
「時に、嘉多子くん。君を撮る前にひとつ訊きたいのだ。君は、一昨日私達を襲ったあの化物について何か知ってはいないか」
質問とは名ばかりの、威圧を混じえた確認である。
「何か、と云われましても。急にそんなことを訊かれても、困ってしまいます」
「正直に答えてくれ。それとも、本当に知らないのかい」
嘉多子の眼を見詰める。彼女も最初は私を見ていたが、やがて視線は膝元に落ちていった。
「何のことだか、私にはわかりません」
「なら何故、あの時夜に出歩くのは止せと云ったのだ。いや、それだけじゃない。一昨日だって、君は走ってまで私を探しに来てくれた。云わせてもらうが、君の様子は尋常ではなかった。まるで、どこかに潜んでいる天敵に怯えているようだった」
嘉多子はおずおずと面を上げて、そんな顔で見ないでください――と声を震わせた。
「そんな目で見られたら、何を云ったら良いのか分からなくなります。あなたがお怒りになるのも分かりますが、あなたを危険に晒そうとしたつもりじゃありません。謝りますから、どうか許してください」
「違うんだよ。私は決して怒ってなどいない。寧ろ、謝らなければならないのは私の方だ。君の言いつけを確り守ってさえいれば、君を危ない目に遭わせることもなかった。脚だって切られることもなかった。もう、隠し事は止めにしないか」
「本当に、怒っていないのですか」
濡れた瞳が私を捉える。
「勿論だ。君の知っていることを教えてくれ」
「その前に、ひとつだけ訊いてもよろしいでしょうか」
嘉多子は控えめに云った。
「ここまで来て隠すつもりはございませんが、どうしてお兄様は知ろうとなさるのですか?」
「襲った者が何者かを知りたがるのは当然ではないか」
「それだけ、ですか」
「む?」
「他に、何か仔細があるのではありませんか」
どこか云い倦ねるように嘉多子は尋ねる。
「成る程。無理に暴こうとする真似は、私らしくなかったかな」
私の問いに、嘉多子は控え目に頷いた。
今度は、私が口を閉ざす番であった。
「あの、すみません。出過ぎたことを訊いてしまいました」
「いや、君が謝ることは何もない。隠し事はしないと云ったのは私の方だからな。もう七年にもなるが――上田堤で私の父は殺されたのだ」
「え?」
唐突な話題に、嘉多子の表情が引き攣る。
「あの。今、何と」
「忘れもしない大正三年――私が帝大に合格した春のことだ。私の父が上田堤で屍となって発見されたのだ。ただの屍体じゃない。哀れにも全身を刻まれた姿でな。こんな東北の片田舎で血腥い事件があったものだから、当時はとんでもない騒ぎになったものだ」
覚えていないのかい、と訊けば、両手を口許に添えた嘉多子は、嗚呼、と小さく零した。
「少々ばかり語らせてもらうが、私の父は小役人――良く云えば県議様だった。時代だったというだけなのかもしれないが、如何にも明治の家長らしい寡黙で頑迷な性格で、仕事場と家を往復するばかりの生真面目な男だったよ。或る日のことだ。夜までには必ず帰ってくる父がいない。身を案じて探しに出たのだが一向に行方が分からない。翌朝になって、家に来た警邏から、上田堤で父らしき屍体が見付かった、と報せを受けたのだ。いざ現場に行けば――それは酷いものだった。鋭利な刃物で全身の至る箇所を貫かれていた。慥か四十三箇所だったな。刑事が喋っていたのを盗み聞いただけなのだが、何故かそれだけは確り覚えているよ」
筵の上に横たわる父に直面しても、私は特段取り乱しもしなかった。現実を拒否していた訳ではない。寧ろ、一目で眼前の屍体が父であると覚り、その躰に残る傷跡から、他殺であろうこともすぐに理解した。途轍もない無力感に打ちのめされ、泣き喚く気力すら無かったのだ。
「だが、話はそれだけじゃない。父の骸のすぐ横で、君と同じくらいの娘も斃れていたのだ。父と同じ無残な姿でな」
正確には同じではない。父は斬られただけであったが、娘は腹を切り開かれた上、内臓を喰い荒らされていた。残された腎臓から人間の歯形が見付かったと鑑識が云っていたのを覚えている。余りに非人道的な所業であるがゆえ官憲や記者に箝口令が敷かれたらしいことも。
「父とそのお嬢さんには何の面識もなかったようだし、当然私も彼女のことは何も知らない。何故二人は死ななければならなかったのかと考えていたのだが――漸く積年の謎が解けたよ」
「まさか、お兄様は」
嘉多子の顔色はいつもに増して蒼白であった。
「君が思っている通りだ。父も、あの可哀想なお嬢さんも、あの気味の悪い武者に殺された。私はそう思っている。否、そうとしか思えない。いいかい、嘉多子君。私は何も、君や天涯さんが隠そうとしていることを暴き立てたい訳ではない。私はただ知りたいのだ。でなければ、父には勿論、父と一緒に殺されたお嬢さんにも顔向けできないのだ」
嘉多子を見れば、こちらの雰囲気に呑まれているようであった。
いける。もう一押しでこの娘は落ちる。
「号外に載っていたお嬢さんとは、仲が良かったのかい?」
「そう、ね。学年はひとつ下だったけれど、あの子はいつも私を慕ってくれて。姉さん姉さんって、何をするにもよくついてきてくれて――」
「妹のような存在、と云うところかい」
嘉多子が凍てついたように制止する。
「――私にとって彼女は」
その硬直も一瞬のことで、本当の妹以上の存在だったわ――と嘉多子はすぐに首肯いた。
「君は、どう思っている」
「え? どう、とは」
「朋輩が殺されたのだ。悲しいとか虚しいとか思うところはあるだろう。私は――そうだな。己の不甲斐なさが悔しくて仕方ない。心の底から申し訳ないと思う」
「どうしてお兄様がそう思うの? あなたは何も悪くないわ」
「白状すると、最初は何とも思わなかった。父と同様の被害者が増えてしまったことこそ気にはなったが、結局は他人だ。だが、殺されたお嬢さんが君の学友と聞いて――あの日、私があの化物を殺すか捕えるなりすれば良かったのだ。そうすれば君の友人は殺されずに済んだ。だが、私は自分のことで精一杯だった。それだけじゃない。私は父の敵を討ち損ねたのだ」
尤も、それは父を殺した下手人があの蜘蛛の如し老父であるという仮定に基づいた話でしかない。だが、嘉多子からの否定はない。詰まり――その仮定は正しいのだろう。
「お兄様。あのとき、あの怪物の口には血がついておりました。ですから、あなたが怪物を捕まえようが何をしようが――すでにもう、私の友達は死んでいたに違いありませんわ。お兄様のお気持ちは分かりますが、そうやって自分を責めないでくださいませ。あの子は――仕方がなかったのです」
「すまない。少々熱くなってしまった。だが、改めて頼む。君が話せる範囲で構わない。勿論、君にだって立場があるのは理解している。それでも、私は知らなければならない」
嘉多子は、すぐには答えなかった。
「嘉多子くん」
「わかりました。でも――どうか、私のことを嫌いにならないでください」
そうじゃなければ話せません、と嘉多子は縋るように私を見る。分かりやすい好意であった。
「素直に話してくれる子の方が私は好きだ」
その好意につけこむ真似をすれば、嘉多子は観念したように頷いた。
そして。
「あれは、山から降りて来て、人をとって喰らってしまう――恐ろしい神様よ」
と云った。
「山から降りてくる神」
一瞬、何のことか分からなかった。
「ええ。だから――神様が動き回る夜には絶対に出歩いてはならない。もし見つかってしまえば食べられてしまう。幼い頃からお父様にそう云われて育ってきました。私だって、そんなの、私をお屋敷から出さないための方便で、このご時世、そんな怪物がいるものかと思っておりました。あなたのお父様や、居合わせたお嬢さんの事件は聞いておりましたが――まさか本当に、あのような」
そこで嘉多子は口を噤む。
「嘉多子くん。話の腰を折るようで悪いのだが、私は盛岡に生まれて、東京に出るまで、このあたりも何度も通っていた。そんな話は聞いたことがない」
「それはそうかもしれませんが、でもあの日、私達が見たのは幻なんかじゃなくってよ。あんなに明瞭とした写真だってあるじゃありませんか」
「それなら他の者はどうなのだ。盛岡にあんな化物がいることを皆知っているのかい」
「違いますわ」
「む?」
「盛岡にではありません。上田堤に、ですわ。山から降りてきた神様は、上田堤の真ん中にある蚕影神社を棲処にしてしまったのです。お父様はそのように仰っておりました」
嘉多子は立ち上がり、部屋の窓帷を開ける。
昼下がりの瑞々(みずみず)しい陽光が流れ込み、空気の滞留した撮影部屋を浄化していく。
「蚕影神社」
そんなものあっただろうか、と訊けば、池の中州にありますわ、と嘉多子は答える。
「ご存じありませんか? 蚕影神社の総本山から分社されたものと聞いておりますわ。もっとも、それがいつなのかまでは分かりませんが」
蚕影神社――筑波にある、養蚕の神を祀った神社である。
私の記憶が正しければ主祭神は和久産巣日神、埴山姫命、木花開耶媛命の三柱であり、それに伴い配祀神も多い。また創建も十三代成務天皇の御代と由緒正しく、蚕影山信仰として全国に幅広い信者を獲得していた筈である。
だが、蚕影となると――。
「もしかすると、天涯さんは神社の関係者なのかい」
「私も詳しいことは分かりませんが、たしか宮司をしていたと思いますわ」
「宮司とはまた凄いものだな。神社で一番偉い御方だろう」
「いえ、そんな大層なものでは。名義だけ貸しているみたいです」
「成る程な。だが、少し妙だな」
「何がでしょう?」
「君はあの化物を、天涯さんから聞いただけだと云ったな。方便ではないかとも」
「ええ。そうですが」
「それだけで、あんな反応ができるものかな。あの日、私を走って迎えに来てくれただろう。初日だって、夜間の外出を控えなければ命に関わると、分かりやすい忠告までしてくれた」
「それは」
嘉多子が言葉に詰まる。
直感である。この娘はまだ何か隠している。それも致命的なことを。おそらく、この娘は、あの化物が何であるかを知っているのだ。
「嘉多子くん。云ってくれ」
「云えません。これだけは、云うわけには参りません」
「それはつまり、君はあの化物が何者であるかを知っているのだな」
嘉多子は答えない。
その沈黙が答えであった。
「何故、云えないのだ」
「お兄様が、部外者だからです。家族にしか云えない秘密です。これは――血族の問題です。どうしても聞きたいのなら、今ここで誓ってください」
「何を誓えと」
「私を嫁に貰ってくれると」
嘉多子は答えた。
「それなら私の知ること全てをお話できますが――できないでしょう?」
嘉多子は強気に云った。
「これ以上を聞きたいのなら、今度、お父様に云ってください。私を嫁に貰ってくれると」
今度はこちらが黙る番であった。
「云っていただけないのですね。それなら、この話はもうおしまいにしましょう」
期待してしまった私がばかでした――と嘉多子は口惜しそうに云う。
「あまり心配しないでください。知っていても知らなくても、多分、お兄様が狙われることはもう無いかと思います。夕刻に出歩かない限りは」
そこで会話が途切れる。
とりつく島も無い、といった様子である。
しかし、血族の問題とは。
推測するに、あの老父は、蚕影一族と並々ならぬ因縁があるということか。例えば、あれは一族の怨敵であるとか。若しくはあの老父も蚕影家の者であり、何らかの争いをしているとか。そういうことなら、私のような余所者が聞いても仕方ない。
いずれにせよ、今ここで何を考えても、下衆の勘繰りにしかならない。
それに、嘉多子に話せる範囲で構わないと云ったのは私の方である。
もう、交渉の余地はないだろう。
「お兄様。申し訳ありませんが、私から話せることはもうありませんわ」
「わかった。無理に聞いてすまなかった」
嘉多子が駄目なら、次は天涯に聞くだけである。
「お父様に訊いても無駄じゃないかしら」
庭を眺めていた嘉多子が振り向く。私の心を読んだが如し台詞であった。
「お父様、今とてもお忙しいらしくて。夜、電燈を点けてまで働いているのよ。きっと、今日だってお帰りになるのは日をまたぐ頃になるかと思います」
父性に飢えた淋しげな表情に、またしても姫子の顔が重なって見える。
「お兄様?」
怪訝そうな嘉多子の声に、離れかけた自我が引き戻される。
「何を――いえ、誰のことを考えておいでですか?」
嘉多子が目を見開いて私を睨んでいた。
「もう、いいじゃありませんか」
寒気のする程美しく兇悪な眼差しの儘、嘉多子は云った。
その言葉が、姫子を想起することへの怨嗟ではなく、中断した撮影を促すものであると気付いたのは、嘉多子が椅子に座ってからであった。
「早くその櫻花さんで私を撮ってくださいな。私、もう待ちくたびれてしまいましたわ」
襟元を正した嘉多子は、こちらに向き直り。
「あの子よりも綺麗に撮ってくださいませ」
と微笑んだ。
嫉妬に塗れた女らしい貌をして――嘉多子には似合わぬ表情だな、と思った。