3-1.翁から逃げおおせたのちに
応接室の安楽椅子に深く腰掛け、長い間一枚の写真の見詰めていた鷹木は漸く顔を上げた。
溜息を吐いて卓子に放り投げるように置けば、現像したばかりの姿絵は天板を滑り、対面に座る私と嘉多子の間で静止した。
「まさか、最初に請けた仕事がこんなものになるとはな」
酷く億劫そうに鷹木は云った。
「それは先刻云ったことだ。とんでもないものが撮れたから驚いてくれるなよ、とな」
「それにしたって限度があるだろう。それで、珍妙奇天烈なこいつは一体何なのだ?」
「それも先刻云った。私と嘉多子くんを襲った魍魎だよ」
私の隣に座った嘉多子も頷く。背筋を伸ばし、両膝を揃えて座る様からは育ちの良さが透け、迚も盛岡にいるような娘には見えない。
「魍魎、ねえ」
意味深長に呟いた鷹木は、最前手放した写真と、その横に並ぶ四枚の写真を見遣る。私が決死の覚悟で撮った戦果であるが、鷹木は無精髭の生えた顎を撫で、腑に落ちないと云わんばかりに唸る。
「鷹木。まさか君は、私の云うことを信用できないと云うんじゃないだろうな」
こうして証拠だってあるじゃないか――と抗議すれば、鷹木の小父様、お兄様の仰ることは本当です、私もこの目で見ましたのよ――と嘉多子も加勢する。
流石に旗色が悪いことを覚ったのだろう。理屈や科学を重んじる性質の鷹木も、なにも信用できないとは云ってないぜ――と言い訳染みた弱い反論をする。
「ならば君は何を懸念しているのだ」
「こいつの処遇についてさ。まあ能く聞いてくれ。いいか、これには腕と脚が伸び切った不可解な爺が鮮明に写っている。撮った奴の技術が秀でているらしく、こいつだけでも緊迫した空気を察することができる」
珍しく賛辞を述べた鷹木は、天板に揃えた一枚を人差し指で二度叩いた。
抜刀した老父が跳躍しようという瞬間を捉えた写真である。避けるの僅かでも遅ければ、私の首は胴体から斬り離されていたであろう。
他の写真も似たようなものである。
奴を捉えたのは五回。
間合いを計り、機を捉え、命の危機と引き換えに閃光を浴びせたのだ。
尤も、私とて無事ではいられなかった。奴の振るう野太刀が右膝に中り、深々と切られてしまったのだ。当分は歩くことも儘ならないだろうが、生きているだけで良しとする他ない。
あの化物を退けた後のことである。
這々(ほうほう)の体で蚕影の屋敷に逃げ帰った私は、先に帰らせた嘉多子に応急処置を、傍に控えていた家政婦には電話で町医者を呼んでもらった。
火急の案件と先方を急かしてくれた家政婦には悪いが、来たのは名医とは呼べぬ初老の藪であった。私の膝に濁った消毒液を無造作にかけ、綿布で患部を抉るように拭った後、この程度で破傷風にはなりますまい。仮になったところで、いずれ抗原もできるでしょうから御心配なさらぬことですな――と無責任なことを云い残し、逃げるように去って行ったのだ。
一応鎮痛剤だけは置いていったのだが、服用した途端寝入ってしまう代物であり、また傷の痛みも然程ではないため、嘉多子に頼んで処分してもらうことした。
嘉多子の父である天涯が帰宅したのはそれからであった。私と嘉多子が得体の知れぬ老父に襲われたこと、及び私がその老父を撃退したことを報告すれば、当主は酷く狼狽えた。しきりに老父の行方と安否を気にしていたのだが、鎮痛剤の強烈な睡魔に抗えず、それきりであった。
「だがな、伊達男」
鷹木は続ける。
「ひとつ問題がある。これは鮮明過ぎる程に鮮明なのだ。何故それが問題になるか解るか」
問いを投げ掛けた鷹木は、私と嘉多子を交互に見る。
嘉多子は困ったように私を見たのち、小父様どういうことでしょうか――と控え目に尋ねる。
「失礼、意地の悪い質問だったな。伊達男、君はどうだ」
「我々の見た光景を、何も知らぬ市井の民には信じてもらえない。仮令写真という証拠があったとしてもな。そういうことを君は云いたいのだろう?」
私の返答に、察しが良くて助かるよ――と満足そうに鷹木は頷いた。
反対に、嘉多子は得心のいかぬ表情である。
「私には納得がいきません。どうしてお兄様が命を賭して残した証を信じないというのです」
「それは今鷹木が云った通りだ。鮮明過ぎるからこそ信じられないものもあるのだ」
「でも、そんなの」
まだ何か言い募らんとする嘉多子に、落武者の如し爺様がこの御時世にいると思うのかい――と諭せば、渋々ではあるが彼女は閉口する。
嘉多子が沈黙したのを見てから、そいつを邏卒に出すのか、と鷹木は訊いた。
私も嘉多子も、一昨日体験した出来事は身内以外に喋っていない。
「逆に訊くが、君はどうするべきだと思う?」
「俺だったら出さんよ、そんなもの」
何故だろうか、と私が訊けば、意味が無いからだ、と鷹木は端的に返す。
「君は知らんだろうが、帝都と違ってこの辺りの邏卒は――失敬、今は巡査と云うんだったな。兎に角、連中は得意顔して護拳片刃刀を佩いてるだけの烏合の衆だ。何の役にも立ちやしない。そんな奴等に、妙な爺に襲われました、これが写真です、なんて云ってみろ。まともに取り合ってくれるとも分からんよ。それどころか捜査を攪乱せんとする不心得者だと難癖つけられて檻に入れられんとも限らない。君はそんなことのために盛岡に来た訳じゃないだろう」
熱の籠もった口調で鷹木は云った。追求するつもりはないが、彼には警察を恨む理由があるのだろう。
「そうだな。私も時間が惜しい。警官には云わないでおくことにしようか。嘉多子くん、君もそれでいいだろうか」
「――ええ。私も、それで宜しいかと思います」
微かな動揺を見せたのち嘉多子は頷く。
「伊達男。君が巡査に名乗り出ずとも、既に公僕共は女学生殺しの下手人を捕えんと躍起になってそこいらを嗅ぎ廻っているのだ。なに、最前は役に立たんと云ったが、存外簡単に見付かるかもしれん。捕縛できるかは別だがな」
そうなのだ。私が云わずとも、既に官憲は動き出している。
女学生猟奇殺人事件として。
あの手長足長の落武者から逃げ果せた翌日――つまり昨日のことである。
上田堤にて女学生の屍が発見されたのだ。ただの屍体ではない。完膚なきまでに殴打され、四肢を胴体から千切り取られ、腸を食い散らされ絶息した惨たらしい躰である。損壊著しい人間の成れの果てが、あの美しき湖面に漂っていた――と、地元紙・岩手日々新聞は号外で報じたのだ。
殺された娘と同じ学舎に通い、尚且つ深い親交があった嘉多子は酷く悲しんでいた。
あの老父の口を穢していた血は、姫子のものではなく嘉多子の学友のものであったのだ。
あの時下手を打っていれば、私も嘉多子も憐れむべき被害者として煽動的に報道されていたのかもれぬ。私の父が屍体となって見付かった時と同じように。
包み隠さずに云おう。
私は、女学生惨殺の報せを受けても、悼みや驚きを感じなかった。私は安堵したのだ。良かった、姫子は無事だったのだ――と。
他人の死を喜ばんとする紳士らしからぬ態度を自覚した途端、私は己が情けなくなった。
この調子では、あの無垢なる娘に顔向けできぬと思った。だが、今日は姫子に写真を渡すと約束した日である。己の矜恃に賭けて、あの娘との誓いを違える訳にはいかない。
「鷹木。頼んでいたものはそれだけではないだろう。あとの二枚はどうしたのだ」
「ああ。今家内に云って薬液に漬けているところだ。此方の兇悪犯の方が重要だろうと思って先に持ってきただけのことだ。なに、すぐにできる」
その言葉に違わず、すぐに細君が入室する。手にした平盆には二枚の写真が乗せられていた。それらを卓子に置いたのち、細君はすぐ退室していった。
「不可解な爺を持って来た時は呆れもしたし驚きもしたが、君はしっかり写真家というものをしているじゃないか」
鷹木はまじまじと二枚を眺める。
勿論、被写体は姫子である。一枚目は閃光電球を焚いたものであり、二枚目は自然光のみのものである。焦点がぶれているのではないかと心配していたが、二枚とも正確に姫子の輪郭を捉えていた。それこそ、何も知らぬ他人が見れば、彼女の存在を疑うくらいには。
「見縊ってくれるなよ。これでも帝都では名が売れてるのだ」
「天狗になっているところに水を差すようで悪いが、どうせ狭い業界での話なんだろう? すぐ図に乗るのは君の悪癖だ。治した方がいいぜ」
「否定はしないが、少しくらい良い気分にさせてくれたっていいじゃないか」
「何が悲しくて君の鼻高々な姿を見せつけられなきゃならんのだ」
私と鷹木の軽妙な応酬を楽しそうに見ていた嘉多子は、ずいぶん仲がよろしいですこと――と身を乗り出す。
「お兄様は何を撮られたのです?」
「いや、なに。珍しい風貌のお嬢さんがいたものだからね。その子がどうも眩しく見えたものだから、つい許しを貰わぬまま撮ってしまったのだ。――嘉多子くん? どうしたのだ」
見れば、嘉多子は真四角の紙に封じ込められた姫子を睨んだまま微動だにしない。
やはり、他の者からすれば不可思議な光景なのだろうか。
「こいつは俺も興味があるな」
「鷹木。何が気になるのだ」
「この娘の髪は白い。だが瞳は日本人らしい黒だ。先天性色素欠乏症でもないのだろう。かといって骨相からしても欧米の血が混じっている訳でもなさそうだな。一体どこで見付けたのだ? そもそも君は人を写したくないと云っていた筈だが」
「慥かに云った覚えがあるな。人を撮るのは苦手なのだ。人物写真の出来映えなんて、撮る側の技量よりも被写体の魅力に依るところが大きいからな」
誰にだって撮れる写真を有難いとは思えんのだ――と云えば、豪く贅沢な悩みじゃないか――と鷹木は揶揄しにかかる。
「贅沢だろうが何だろうが構わないよ。被写体については黙秘させてもらおう。その娘に内緒にしてくれと頼まれたのだ。無理に訊いてくれるなよ」
「そこまで踏み入れる程俺も無粋じゃないぜ」
何が面白いのか鷹木は唇の端を釣り上げて笑った。
「伊達のお兄様は」
姫子を見詰めたまま嘉多子が口を開く。
「盛岡に来て初めて撮ったのがこの子なのですか?」
私が首肯けば、 お兄様は人を撮らないとばかり思っていました、と嘉多子は拗ねたように唇を尖らせる。
「私だってそのつもりだったが」
「私のことも撮ってはいただけませんか」
嘉多子は私の弁明を遮り、彼女にしては強い口調で云った。
「鷹木の小父様。突然で申し訳ありませんが、こちらに撮影部屋はありませんか。もしあるのなら、少しだけでいいので貸していただけませんか。費用は必ずお支払いしますから」
「それは構わんが――何だい、伊達男に、一番に撮って欲しかったのか」
嘉多子が遠慮がちに頷けば、お嬢さんに恥をかかせるなよこの唐変木、と鷹木は訳の分からぬ罵倒を寄越す。
「了解したぜ。今用意をしてくるから待ってるんだな。あと金なら結構だ」
安楽椅子から立ち上がった鷹木に、でも急に頼んだのは私ですわ、と嘉多子は呼び止める。
「厚意に甘えるわけには」
「いいや、受け取る訳にはいかんのだ。女学生から巻き上げる程俺も困窮してないからな。というより沽券に関わるのだ。奥の小部屋を貸してやるから好きなだけ撮ってもらうといい」
その代わりと云ってはなんだが――と部屋を出かけた鷹木が振り返る。
「俺も伊達男も帝大の同輩なのだ。つまるところ年齢は変わらんのだよ。なのに俺は小父様、そっちの童顔はお兄様と云うのは如何なものかと思うのだ。まあ、人様からの呼称に難癖つけるつもりはないがな」
「承知いたしましたわ、鷹木のお兄様」
これで宜しくて――と嘉多子は上品に、そして愉しそうに微笑んだ。