2-2.異形の翁
姫子と名乗った娘と別れ、上田堤に戻って来た時には日が暮れ始めていた。
来た道を振り返れば、桜の大樹と、その向こうには木深い茂みと獣道が続いている。物思いに耽っているうちに妙なところに迷い込んでしまったものである。
それにしても不思議な娘であった――と白装束の姫子を想起した時、背後から何者かが駆け寄る気配がした。
何事かと振り返れば、嘉多子であった。制服姿のままである彼女は、目が合うと足取りを緩めて私の前で止まる。息を荒げながら私を睨んでいる。
「一体どうしたのだ、嘉多子くん。君が走るなんて珍しい」
「誰のせいだと思って」
いるのですか、とは続かなかった。嘉多子は身を屈めて噎せてしまう。
失礼するよ、と断ってから彼女の背を撫で付ける。三四度掌を往復させているうちに華奢な躰の震えは治まり、呼吸も鎮まっていく。
「お兄様。もう、結構ですわ」
「それで、どうしたというのだ。随分な御転婆振りだが、君には似合わないよ」
「それは私の台詞です。探しましたわ」
「探した? どうして」
「どうしてって、もう夕刻じゃありませんか。今戻らなければ間に合いませんわ」
さァ、お急ぎになって、と嘉多子は私に掌を差し伸べる。
忙しなく四方に視線を走らせる様は何かに怯えているようで、平生の凛然とした態度はどこにもない。
私も倣い周囲を見回すが、辺りには何も無い。
戸惑いを隠せない私に、お兄様ッ、と焦れた嘉多子は叫ぶ。
「何を暢気にしているのですか。云ったではありませんか。お忘れですか」
何の話だ、とは訊かなかった。
私の脳髄が色付きの発声映画を上映する。
――陽が沈んでからの外出はお控えください――。
――たとえ、いかなる都合があったとしても――。
「勿論覚えているさ。暗くなる前に帰れという話だな」
さもなくば。
――これに背いた場合、身の安全は保障致しかねます――。
私の創り出した嘉多子はそう嘯いて――嘲笑った。
あれから三日経った今でも、私はその理由を訊けずにいた。
「分かっているのならどうして――いえ、ここで云っても詮無きこと。今ならまだ間に合います。早く行かないと」
「すまない。だが、帰ったら仔細を聞かせてくれ。ただの門限ではないのだろう」
令嬢を連れ出した食客が、その娘共々折檻に遭うという話でもないだろう。初日に挨拶を交わした程度ではあったが、当主蚕影天涯は前時代的悪習を好む人間にも見えなかった。寧ろ余所者の私を厚遇してくれる人格者か変わり者の類であろう。そもそも、それでは嘉多子が私を探しに来る理由にもならない。
「機会が来たら、いずれお話し致しましょう」
「分かった」
では行こう、と嘉多子の手を取るが、彼女は握り返してこなかった。
嘉多子は棒立ちのまま、私の頭上、後方を見詰めている。
目を見開き、口を半開きにして――見てはならぬものを見た、という表情である。
厭な予感がした。
嘉多子の視線を追い、桜の大樹を返り見れば。
最初に認めたのは、人の顔であった。
斜陽に照らされる桜の梢に、男の顔が浮いていた。
血色は悪く、痩せこけた頬である。眼尻から額にかけて石榴色の斑点がある。
髪も髭も無い。年老いた男の面である。
水と脂の乾き切った皺だらけの膚でありながら、目だけが猛禽の如く獰猛な光を湛えて此方を見下ろしている。その瞳に喜色が宿り、罅割れた唇が吊り上がったのは、私達を獲物と認識したからであろうか。
黄ばんだ犬歯が剥き出しになる。紅色に濡れた牙であった。
たった今、人の血肉を啜ったとでも云うように。
腥い腐臭が此処まで漂う。
嘉多子の息を呑む音がした。
先に動いたのは老父であった。
頭を垂らし、木乃伊の如し枯れた二本の腕で桜の枝を掻き分け、緩慢しかし確実に距離を詰めんとする。
老父の乗った枝が撓り、先端が大地に触れた。
地に擦られた数輪の花弁が、無残に散らされていく。
老父は木から地面に這い降りて――常軌を逸した痩躯が陽光に晒される。
四肢は異様に長い。長時間放置された縊死体を連想させる程に。そのくせ胴体は然程でもない。襤褸の着流しに、酷く痛んだ足軽鎧を纏っている。腰に野太刀を佩用して、落武者然とした恰好であった。
悟性の欠落した目をして、口からは血の混じった涎を垂らしている。
――なんだこいつは。
顔には醜いながらも目も鼻も口もある。腕も脚も、細く長いものが二本生えている。
慥かに人間の範疇に収まる生物であろうが――。
――違う。こんなものを同胞とは呼べぬ。
人と姿が似ているだけだ。まるで畜生か蟲である。
猿か蜘蛛を思わせる外見であり――強烈な嫌悪が背を駆け抜けた。
これは拙い。事情は全く以って掴めないが、とにかく拙い――。
「嘉多子くん」
右手の洋杖で彼女を庇いながら声を絞り出す。視線は魍魎から外さない。
「屋敷までは近い。君は先に帰れ。いいな」
「お兄様は」
どうするのですか、と嘉多子は震える声で云った。声だけではない。彼女の躰が慄くのが見ずとも分かった。
我々が一歩後退すれば、老父は二歩前進する。
今すぐ遁走することも考えたが――駄目だ。背を向けた刹那、奴は長い手足を発条にして跳び掛かって来るだろう。私だけなら振り切れようが、嘉多子もいれば話も変わる。
「心配は無用だ。こう見えても荒事には慣れている」
「嫌です。お兄様も一緒に逃げましょう」
嘉多子は洋杖を掴む私の袖を引くが、私はその手を振り払う。
不意に、老父が夕陽に燃える山際を睨む。
今が、好機だろうか。
「嘉多子くん。行くのだ、私にはとっておきの武器があるから大丈夫だ」
「でも」
「行ってくれ。君が行かなければ私も逃げられない。聡明な君なら解る筈だ」
振り向いてはいけないよ、と横目で笑いかければ、彼女は弾かれたように駆けていく。
老父は逃げ出した嘉多子を見ると腰の刀を抜いて追おうとするが、間に跳び入り、洋杖で地面を弾いて牽制する。
老父の動きが止まる。標的を嘉多子から私に切り替えたようだ。
ここからが勝負だ。
私が荒事に慣れているのも秘策となる武器があるのも、嘉多子を行かせるための方便である。私は武士でも軍属でもない。刀もなければ歩兵銃もない。
だが、私は写真家なのだ。
相棒である写真機――櫻花・零式があればそれだけで十分だ。
懐からフィルムを取り出し、装填する。レンズを覗き焦点を合わせることはしない。そんな悠長な真似はさせてもらえない。
不意に笑みが零れた。
余裕があった訳ではない。寧ろ、旅先で追剥ぎか羆に遭遇したが如く死の危機に直面しているのだ。だが、生死の瀬戸際にあるにも関わらず、私は写真家として振る舞おうとしている。それが嬉しかった。誇らしかった。
ここで無様に逃げてみろ。仮令生き残れたとしても私は己の臆病を生涯悔やみ続けるだろう。それに――。
抜き放たれた刀を見る。刀身は血に塗れていた。脂の白さが混じる品の無い輝きである。
この老父は山からやって来たのだ。
私は先刻まで、猫淵の社の前で姫子と喋っていた。
ならば、あの蜘蛛の口と刀を穢す血は姫子のものであろう。
あの病的に白い娘は、奇形の爺に喰い殺されてしまったのだ。写真というものに興味を抱き、撮ったものを渡すと約束した娘が。
化物を撃退したいとも逃げ帰りたいとも云わぬ。一枚でも多く奴の姿を収め、異形の存在を世に知らしめなければならぬ。それが私の使命だ。
奴が何処から来て、如何なる存在かを分析して打ち祓うのは別の者の仕事だ。
私の散り際は今なのだ。
そこまで考えた時には恐怖は失せていた。清々しい気分ですらあった。