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2-1.姫子との出会い

 私が姫子(ひめこ)と出会ったのは、帰省から三日経った五月十七日のことである。


 空が青く澄んだ日であった。

 相棒である大判カメラ、櫻花・零式を(たずさ)え、上田堤を散策していた。

 満開の桜も緋鮒(ひぶな)が泳ぐ湖沼も蒼穹(そうきゆう)に映える巌鷲山いわわしやまも大層趣ある風景ではあったが、それらに纏わりつく油蝉(あぶらぜみ)()き声がどうも春の景色にそぐわない。その強烈な違和の所為(せい)で私はシャッターを切れずにいた。


 私は一体何をしているのだろうか。


 慥かに、フィルムの残数にも制限はある。また一枚目を妥協すれば、続く二枚目三枚目にも不誠実さが祟り、結局半端な写真にしかならないという縁起(ジンクス)だってある。

 だが、この池の眺望(ちようぼう)は見事なものである。夏めいた匂いが気に入らないとは(いえど)も、現像してしまえば色と香りは残らない。そんなものは見る者が勝手に想像し、補完してくれるものである。


 理屈を()ねて己を納得させようにも、私の興は沈んだままであった。

 どこまでも冷静を保つ己を分析すれば――私は気に食わないのだ。散り際を逸し、未練がましく咲き続けている純白の桜が。桜というものは(いさぎよ)く散るから美しいのだ。桜に限った話ではない。梅も牡丹(ぼたん)も菊も椿(つばき)も、花というものは首を落とすその瞬間こそが最も(あで)やかである。


 その証左に――見るがいい。

 薫風に薙ぎ散らされる花吹雪の何と儚いことよ。

 花でさえあれだけ綺麗なのだ。人も、散る時は潔くありたいものだ。


 宙を漂う花弁に(さそ)われるように私は彷徨(ほうこう)して――どれだけ歩いただろうか。不意に、(はだ)()くような日差しは消え去った。私は鬱蒼(うつそう)とした茂みの中に立っていた。


 目の前には古ぼけた小さな社があった。左右には対になった猫淵(ねこぶち)の石像が鎮座している。何者かによって手入れされているのか、二匹の猫には(こけ)も汚れもない。人懐こい笑みを浮かべながらも、薄く開いた(まなこ)からは鋭い敵意が放たれ、思わず息を呑んでしまう。


 正直なところ、私はこの瞬間畏れをなした。撮影という独り()がりの目的のため、神域に踏み入ったことを恥じたのだ。猫達にレンズを向けた途端、二匹は此方(こちら)に襲い掛かり、私の喉笛を喰い千切るのではないだろうかとすら思った。


 戦意を喪失した私は引き返そうとして――またも足が止まる。


 少し先に、少女が佇んでいた。

 (あしおと)は聞こえなかった。気配も無かった。突如、世界に産み出された存在のようであった。


 だが、それ以上に目を惹いたのは、少女の毛髪が真白であったことだ。否、髪だけではない。膚も白ければ、(まと)う着物も履いている足袋(たび)も白い。唯一色があるのは、瞳の黒と帯の臙脂(えんじ)、鼻緒の(べに)と草履の鉄紺(てつこん)であった。

 瞳に硝子(がらす)()め込んだ西洋人形なんてものではない。屍人(しびと)の如し娘であった。


 彼女は空虚な眼差しで私を見ていた。そこに在るから見ていると云わんばかりの、害意も好意もない、一切の気色の失せた視線である。その眼光に貫かれながら、私は先刻まで喪失していた写真家としての意欲が燃え上がるのを感じていた。


 ただ一心。

 この生気の欠落した娘を撮りたいと渇望した。

 何故そう思ったのか。彼女の何が私の琴線に触れたのかという考察は捨て、得物を構える。


 私と娘の距離はそう離れていない。影に呑まれた私を見下している。

 即座に閃光電球(フラツシユ・バルブ)を台座に嵌め、絞りと露光時間の調整を行う。次いで懐から出したフィルムを暗室に挿入、遮光板だけを抜き取り――。


 シャッターを押した。

 瞬間、前方に強烈な閃光が放たれる。

 素早くフィルムを交換し、すかさず二度目のシャッターを切る。

 閃光電球は一度限りの道具であるため、二度目は自然光のみの写真となってしまうが、ひとまず撮影は成功だろう。経験則から、焦点がぼやけたということもない(はず)だ。


 これは()いものが撮れたと内心舌舐め摺りをする私であったが、閃光に驚いたであろう少女の(ほう)けた表情と、唇から漏れた小さい声に意識が引き戻される。娘の姿は、幼児が泣き喚く前兆に酷似して、私を大いに狼狽(ろうばい)させた。


 私は写真家であり、同時に啓蒙家であらんことを常々願っている。だが、それ以前にひとりの紳士であるのだ。我慾(がよく)を優先させた結果、年端もいかぬ娘を泣かせたとなっては恥ずかしくて表を歩けない。


「驚かせてしまって済まない。君が魅力に溢れていたから、つい写真を撮ってしまった。どうか私を許してくれないだろうか」


 万人受けする嫌味のない笑顔をつくり、少女に歩み寄る。

 少女は唖然とした表情のまま、やはり私を見詰めている。纏う雰囲気こそ幼いが、十四五ぐらいの外見であった。近々裳着(もぎ)を迎えると云われても違和感はない。


「もし。何か云ってくれないだろうか」


 困った私は再度呼び掛ける。

 病的な程白い(からだ)から察するに、何処にでもいるような(こども)でもないだろう。よもや聾唖(ろうあ)だろうかと勘繰った時、彼女は(ようや)く口を開いた。


「今のは、なに?」


 舌足らずのたどたどしい喋り口であった。

 吶吃(とつきつ)こそなかったが、声帯の使い込まれていない幼い声であった。


「写真を撮らせてもらったのだが、(いや)だったかな」

「しゃしん?」


 言葉の意味が解らなかったのだろう。彼女は首を傾げ、しゃしんってなに、と訊いた。


「今の君の姿を、この箱の中に仕舞っておくことだよ。撮られるのは初めてだったかい」


 娘は問いに答えず、黒々とした瞳を輝かせ、(あたし)の姿を残せるの、と私と写真機を見比べる。


「ああ。そのための機械なのだ」

「でも、妾はここにいる。箱の中にも、妾がいるの?」

「安心し(たま)え。何も、魂が抜かれてしまうとか寿命が縮むとか、そういう話ではない。ただの写し絵になるだけだ。私の代わりにこの箱が、君の姿絵を描いてくれるのだ。解るかい」


 納得と不可解の狭間にいるような曖昧な態度で、娘は小さく頷いた。


「論より証拠だ。明日、いや明後日にしようか。君の姿絵を持って来ようじゃないか。きっと良いものが映ってるだろうからね」

「今見ることはできないの?」


 それはできないな、と答えれば、彼女は僅かな落胆を見せた。


「断りもなく撮ってしまったことの詫びとして、君に先刻の写真を贈ろうと思うのだが、明後日この時間、またここで会ってくれないだろうか」

「それは――」


 そこで少女は口籠る。賛同したいのに、それを阻む都合があるというように。

 彼女は目を反らして幾分か考えたのち、誰にも云わないで、とか細い声で告げる。


「む? それは、私が君に会いに行くということを、かな」


 彼女は控えめに頷く。そして、妾がここにいることも、と付け加えた。


 幼い娘の目に懇願(こんがん)が宿り、私はそれ以上の追求はしなかった。もしや、この娘は自宅監置(じたくかんち)という名の下、座敷牢に幽閉されているのではないか、と思ったのだ。少なくとも、どこかの令嬢のように女学校に通わせてもらえる境遇にないことは慥かである。


「分かった、約束しよう。今日のことは誰にも云わないよ」


 私はこの娘に応えることにした。憐憫を抱いたからではない。写真というものに関心を抱いてくれたことへの感謝を示したかったのだ。

 私の同意に安堵した少女は、何か云いたげに私を見遣り――諦めたように俯いてしまう。

 もしかしたら、この娘は私の名前を聞きたいのだろうか。

 紳士帽を胸に当て、娘と視線の高さを合わせる。


「お嬢さん。良かったら君の名前を教えてくれないか。私は伊達夢明というんだ」


 少女の眼はどこまでも無機質で、黒曜石の如く冷ややかな光を湛えていた。

 ここで、この娘が愛嬌のある顔立ちをしていることに気付く。


「だて、ゆめあき――」


 純真無垢な眼差しのまま、少女は私の名を反芻(はんすう)する。

 その瞳に射貫かれることに謂れのない罪悪感を覚えるのは、私が今日(こんにち)に至るまで、人というものを(いと)うて故郷を捨てるなど、恥ずかしい生き様を晒してきた所為なのかもしれない。


 ――(ある)いは、今から程近い未来に。


 私はこの娘に対し、何か惨たらしい結末を突き付けてしまうのではないか。

 確信めいた予感が脳裏を過ぎる。

 私の愚かしい想像など(つゆ)も知らぬ少女は、やはりたどたどしく、それでいて精一杯に。


「姫子。みんな、妾のことを姫子と呼ぶの」


 と云った。


 姫子は理知を薄めた白痴の如し貌で笑いかける。

 何故だか私は、胸が締め付けられるような痛苦を覚えた。


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