1-3.女学生と上田堤
私達を待っていたのは、ひとりの女学生であった。
濃紺の海軍襟に膝下の洋袴、足首までを包む革靴という装いである。此方に気付いた娘は微笑むと、洋袴の端を指先で摘んで礼儀正しい一礼をしてみせた。
「可憐なお辞儀をありがとう。君が天涯様のお嬢さんだね。俺は此処の主人、鷹木という」
先に口を開いたのは鷹木であった。下手糞な愛想笑いを浮かべながら、隣に突っ立っているこの男が――と私を示す。
「伊達夢明です。帝都で写真家をしておりました。此度はご厚意に甘えさせて戴きます」
紳士帽を胸元に当て、少女へ恭しく頭を下げる。
「そう。あなたの方なのね。良かった」
安堵を露わにした少女は、こちらこそ――と先程よりも自然な笑みを浮かべる。
悪印象を抱かせまいとした私の挨拶は令嬢の御眼鏡に適ったらしい。視界の隅で眉を顰めている鷹木のことは無視である。
「私の為に来てくれてすまなかったね。手間を掛けてしまったな」
私は彼女に礼を述べる。
年の離れた娘に対し丁寧過ぎやしないかと思われるだろうが、どうもこの少女の前では身を正さなくてはならぬ畏れを感じたのだ。名家であろう蚕影家の権威に遜ったのか、はたまた彼女の整い過ぎた造形に一種の神性を感じたからなのかは分からない。
いずれにせよ、私に頭を垂れさせるだけの魅力をこの娘は内包していたのだ。
「鷹木の小父様、伊達のお兄様。初にお目にかかります。私、嘉多子と申します。以後お見知り置きを――」
嘉多子は再び揚羽蝶が舞うが如く優雅な一礼を示す。
私は改めて彼女を観察する。
鼈甲色のやや癖のある髪は肩口で揃えられ、英国少女宜しく純白のカチューシャをつけている。瞳は薄い赤銅色で、白磁の如く肌理細やかな膚をしている。
――綺麗だ。
それが、嘉多子に抱いた初めての感想であった。
この瞬間に見惚れてしまったと云ってもいい。
彼女を撮らんがため、鞄に収めた写真機を取り出そうとして――止めた。
この娘を被写体にすれば、慥かに流麗華美なる一枚になろう。それこそ雑誌の表紙を飾り、方々から称賛を得られるぐらいには。
だが。
童だろうが傷痍軍人だろうが、それは誰にだって撮れる。私でなくとも構わない。私の目指す境地はそんな生易しいものではない。容易い目的の為に帰郷したつもりはない。私は、己にしか撮れぬ一瞬を捉えたいのだ。
この自尊心にかけて、私は彼女にレンズを向けることはしない。
否、してはならないのだ。
痩せ我慢に似た自戒で、カメラを求めて藻掻く手を止める。
「伊達のお兄様? いかがなされたのですか」
嘉多子は私を見て僅かに首を傾ける。
「いや、何でもない。それより、君が迎えに来てくれたということは、屋敷までの案内もしてくれると思っていいのかい」
「ええ。だけど、お屋敷なんて大袈裟ですわ。特別なものなんて何もありませんのに」
期待してもがっかりするだけですわ――と困り顔で嘉多子は云う。
「家までは近いのかい」
「今から歩けば、陽が沈む前には着くでしょう。御準備はよろしくて?」
「ああ。それでは行こうじゃないか」
紳士帽を被り、洋杖を握り直す。
鷹木へ向き直れば、彼は思案顔で私と嘉多子を見比べていた。
「鷹木。私はここで失礼するよ。またあとで寄らせてもらう」
「承知した。その時はいいモノを持ってくることだな。現像の手間賃は無償にしてやる」
「ありがたい。君を唸らせる写真を撮ることを約束しよう。改めて世話になった」
「分かったから早く行け。あまり女性を待たせるものじゃないぜ」
鷹木は手で私を追い払う仕草をする。
「鷹木の小父様。ごきげんよう」
「天涯様にもよろしく伝えておいてくれ。俺はこれで失礼させてもらおう」
鷹木は切り上げると、早々に赤煉瓦の館に戻っていった。
「お兄様、私達も参りましょう。お父様がお待ちでしょうから」
嘉多子が先導する形で、私達は歩き出す。
蚕陰天涯、か。
如何なる人物なのか。如何なる思惑で私を招いたのか。
娘の華奢な後姿を見詰めても、当然ながらその疑問が解消することはない。
不意に嘉多子が振り返り、彼女の純真な視線と私の不躾な視線が交差する。
「どうされましたか」
「いや。何でもない」
嘉多子は私の目を見たのち、くすり、と此方の思惑を見透かしたような笑みを零した。
「ご心配なさらずとも、お父様は悪い方ではありませんよ」
「これはすまない。君の御尊父が立派な方だと聞いている所為かどうにも緊張しているようだ。土産の一つでも持参してくるべきだったかな」
「大丈夫ですよ。お父様は寛容ですから、そんなもの気にしませんわ」
「しかし、何の縁も所縁もない私を泊めてくれるのだろう。何も持たないのは流石にな」
「縁も所縁もない、ですか」
嘉多子が意味深長に呟く。
「む? そうではないのかね」
「詳しい話は私も知りませんが、お父様にはお考えがあってあなたを選んだと聞いております。お兄様こそ、何か心当たりはございませんか」
「生憎だが、そんな覚えはない。機会があれば尋ねることにしたいが、尚更手ぶらなのは迂闊だったな」
どうしたものかと悩む私に、それならどうでしょう――と嘉多子が提案する。
「帝都での暮らしがどのようなものか、私達にお聞かせください。それだけできっとお父様は喜んでくれますわ。あなたさえよければ、私とも仲良くしてくださると嬉しいのですが」
「それは勿論だ」
こちらこそ宜しく頼むよ――と笑い掛ければ、嘉多子は少々はにかんでから、それよりも――と話題の転換を図る。
「ぜひ、お兄様のお話を聞かせてくださいませ」
「私の話?」
「帝都で写真家というものをしてらしたのでしょう」
「それはそうだが、そんなことでいいのかい」
言外に、聞いてもつまらないだろうという拒絶を忍ばせれば、私はお兄様が何をしてらしたかを知りたいのです――と嘉多子は姿勢を崩さない。
その頑とした態度に、微かに違和を抱いた。
「まあ、興味をもってくれるのなら嬉しいよ。時に嘉多子くん。君は写真というものを撮ったことはあるのかい」
「一度もありませんわ。だから分からないのよ。あのような箱でどうして姿を封じ込めることができるのかしら」
「封じ込めるって、写真を撮られたからって魂を抜かれはしないよ」
「嫌だ、そんなことは存じております。言葉の綾ですわ」
「それは失敬。ならいいのだ」
大正になった今でも、写真を撮れば魂を抜かれるといった世迷い事を信じる者が少なからずいる。そのような科学的見地の欠如した大衆がいるからこそ、我が国には早急な啓蒙が必要なのだ。知の開拓を怠った先にあるのは列強の植民地となる暗い未来である。我が国の将来を担う世代に、雪げぬ汚辱を負わせる訳にはいかない。
「教えて頂戴。どうして姿絵が撮れるの?」
「それなら見た方が早い。すまないが持っててくれ」
洋杖を嘉多子に渡し、鞄から写真機――櫻花・零式を取り出す。
収納された今では、反射傘が付属されているだけの木箱でしかない。
「それが写真機? でもレンズがないわ」
「これはこんな具合に広げて使うものだからね」
外壁を展開して蛇腹を伸ばせば、大凡市井の人間が想像する写真機となる。
嘉多子は訝し気にカメラを眺めている。その目に学士然とした理知の光が宿っていることから察するに、聡い娘であるらしい。事実、幾分か噛み砕いて写真の仕組みを説明しても、彼女は内容を理解してくれたようであった。
また、彼女は聞き上手でもあった。
機を外さぬ相槌に、話を牽引する適切な問い。軌道が逸れそうになった時は修正してくれた。語っているのは私であったが、主導権は終始向こうにあった。
結局、私は写真家について、もっと云えば己の生い立ちまで語り尽くしてしまった。
何故故郷を捨てたのか。帝大で如何なる研究をしていたのか。出版社に勤めた理由。櫻花・零式に出会ったことへの感動。写真家としての美学の追求。故郷に舞い戻った仔細――。
何時の間にか、私の生涯と写真は、切っても切り離せない関係になってしまった。
魅せられている。
否、呪われていると云うべきか――。
「ずいぶんとお仕事に熱心なんですね。立派ですわ」
「とんでもない。ただ、呪われているだけだよ」
「呪い?」
怪訝そうに嘉多子は云う。
「ああ。私はこの写真機――櫻花・零式と云うのだが、こいつに急かされているのだ。上手く云えないが、写真家としての性なのかもしれないな」
「性ですか」
嘉多子は曖昧に頷いたのち、何となくわかる気がします――と云った。続けて、その熱意に水を差すようで悪いのですが――と云いあぐねるように私を見遣る。
「お仕事にかけるお気持ちは分かるのですが、邸内では、その櫻花さんを使うのはお止しになっていただけませんか。見られては困るものが私たちにはありますもの」
「それは構わないが」
見られては困るもの?
「誰にだって、どうしても隠したい秘密のひとつやふたつあるものでしょう? それを無理に暴く真似はしてほしくないというだけのことです。守っていただけませんか」
「成程、承知した。紳士としてあるまじき振る舞いはしないよ」
これから訪うのは財ある名家なのだ。後ろ暗いものがあるとまでは云わないが、守秘義務の発生するような情報だってあるのだろう。また、余所者にカメラを向けられ、世間に晒されてしまうかもしれないと思えば、疚しいことがなくても不快にもなろう。
「嘉多子くん。私が世話になる上で、他に気を付けるべきことはあるだろうか」
「裏庭だけには決して入らないでください」
嘉多子は即座に答えた。
既に言葉を用意していたかのような口振りであった。
「裏庭? それは何故だい」
「裏庭には蔵があるのですが、そこには蚕影の家に代々伝わる書物が納められていて、蚕影の血を引く者しか入れないしきたりになっているためですわ」
「承知した。忠告には従うから安心してくれ」
私が頷けば、嘉多子は安堵したようだった。
嘉多子は北に逸れた小路を選んだ。市街地から一本逸れれば、混凝土で塗り固められた建築物は姿を消し、明治の匂いが残る木造家屋ばかりとなる。
「私だけが喋ってばかりだな。良ければ、君のことを教えてくれないか」
「私のことですか」
「失敬、私の訊き方が悪かったな。例えば君の御家族について――御兄弟はいるのかい」
一瞬、嘉多子の目が泳いだ。
そして。
「おりません。私には、姉も妹もおりませんわ」
と断言した。
「では、男兄弟はどうかな」
「それもおりませんわ、蚕影は女系の家ですもの。でも、私には兄弟も姉妹もいませんが、家政婦さんがいます。その人が、私にとっては先生であり、姉であり、母のようなものです。私とお父様と、家政婦さんの三人で仲良く暮らしておりますわ」
「三人でかい。御母堂は」
嘉多子は、私の発言を遮るように首を横に振った。
「お母様は私が尋常小学校に入る前に死んでしまいました」
「そうだったのか。これはすまないことを訊いてしまった」
「お気になさらないで。寂しくなんてありませんもの。お父様も家政婦さんもいますし、それに今日からはお兄様がいらっしゃいますもの」
嘉多子は嬉しそうに微笑する。
その健気な笑顔に何も云えなくなり、私は視線を逸らした。
空を見上げれば、鴉の群れが夕陽に染められた空を泳いでいる。彼方の山にある塒に帰るところだろう。
空が昏くなった気がした。
嘉多子は僅かに歩みを緩めた。私と肩を並べて歩く恰好になる。
「ここの躑躅畑の先に池があります。私の家は、その畔にありますわ」
嘉多子は路肩に群生した躑躅を掌で指し示す。
今が時期なのだろう。鮮やかな桃色と慎ましい白色の花が咲いている。
「池? この辺りにあっただろうか」
「上田堤と呼ばれております。御存知ありませんか? 慶長から寛文にかけて治水のために造られた堤で――明治中頃には開発が進み、整備されるようになったと聞いておりますわ」
上田堤、か。
当然知っている。知らぬ訳がない。
私の父はそこで通り魔に殺されたのだから。
「思い出したよ。懐かしいな。昔は何もなかった筈だが、今は躑躅が植えられているのか」
「それだけではありませんわ。春は躑躅、夏は桜、秋は紅葉に、冬には白鳥が飛んできます。一年を通して綺麗なのよ。実際に目にすれば分かっていただけることでしょう」
「ほう? それは楽しみだ」
「気に入っていただけたら嬉しいわ。でも、きっとびっくりするでしょうね」
言の端に思わせぶりな色を含ませた嘉多子は、私の半歩先を進んでいく。
そして、緩やかな傾斜と躑躅の茂みを超えた先に――。
満開の櫻花であった。
広大な湖沼の外周に植えられた数多の桜は、初夏の青東風に撫でられるたび氷雪の如し花弁を散らしていく。薙ぎ払われた桜色の霞は、宙を舞って次々と湖に吸い込まれていく。
赤丹を塗られた欄干の先、微かに揺れ動く水面は夕陽を照り返し、黄昏刻にも関わらずやけに眩しく感じられた。
そこで、空が紅色に塗り替えられていることに気付く。
山際に沈まんとしている太陽は、世界を深緋に染めようと最期の輝きを放っていた。その陽が足掻けば足掻くほど、私と嘉多子から伸びる、墨を垂らしたが如く影法師が存在感を増していく。
桜の白に、夕陽の紅、そして影の黒きこと。
鮮明過ぎる極彩の光景であった。
「これは驚いたな。見事な光景だ」
立ち止まった私に嘉多子が振り返る。
「ほら、私の云った通りでしょう?」
悪戯が成功した童女のような声であった。
私の反応に気を良くしたらしい嘉多子は饒舌に語り出す。
「理由までは存じ上げませんが、ここの桜は春に咲くということを致しません。今の時期、つまり夏の始まりに咲いてしまうのです。ですから、この池の桜に葉桜というものはございません。芽吹いて、咲いて、散って、枯れて――それでお終いの短命な花です。どうでしょうか。よい場所だと思いませんか」
熱く語る嘉多子に頷いてやれば、写真を撮ってもよろしくてよ――と彼女は微笑む。どうやらこの娘は、私に写真機を使って欲しいようである。
「君は、私が撮影するところを見たいのかい」
「慥かに興味はありますが――お兄様はご自分の納得する写真を撮るために来たのでしょう? それなら撮らせてあげたいと思うのが人情というものではありませんか」
「そうだな。人情、だな」
呟いた私に、何かおかしなことを云ってしまいましたか、と嘉多子は怪訝な視線を寄越す。容姿の整いすぎた彼女に、人情という言葉は似合わないと思ったのだ。
「お兄様。もし櫻花さんをお使いになるのならば陽が出ている内にお願いします。暗くなってしまえば、私は怖くて歩けなくなりすもの」
そう云い、蝋人形の如し少女は周囲を警戒するように見回す。
影法師が不安そうに彷徨い、私もつられて辺りを見る。時間帯のせいか人影は皆無である。
怖くて歩けないとは少々大袈裟ではないか。
そう云おうとして、口を噤む。
不意に、この冷たい世界に取り残されたかのような錯覚を覚えたのだ。明るいうちに帰らなければ、何か恐ろしい目に遭うのではないか。
そうだ。いくら電燈や灯火で闇を払ったとしても、人間は闇夜に適さない。人は昼間に活動し、暗くなれば床に就く。夜は妖魅が跋扈する時間なのだ。
根拠はないが、そう思った。
形容し難い焦燥に駆られ、私は首を横に振った。
「嘉多子くん。折角の申し出だが、今日は辞めよう」
「私も、それがよろしいかと思います」
「君の御実家はこの辺りなんだろう。急かす訳ではないが、もう少し案内を頼むよ」
「お任せください。庚申様のお社を過ぎたところですから、もうすぐですわ」
私達は逃げるように歩き始める。
「君は、夜が苦手なのかい」
先程よりも足早に進む嘉多子の背を見ながら尋ねる。
「お兄様。ひとつ、私と約束をしていただけませんか」
私の問いを無視して、彼女は問い返す。
何を誓えばいい――と訊けば、簡単なことですよ――と嘉多子は振り返る。
「あなたがここにいる間で構いません。どうか、陽が落ちてからの外出はお控えください。たとえいかなる都合があったとしてもです。これに背いた場合、身の安全は保障しかねます」
嘉多子は凝然と私を見る。
鈴を張ったような円い瞳には、有無を言わさぬ威圧が秘められていた。
身の安全を保障しかねる?
「それは構わないが、理由を聞かせてくれないか」
「夜は、神様の時間ですから――」
嘉多子は薄く笑った。
逆光のせいか、その美しい貌は翳りを帯び、どこか不吉めいて見えた。
「蚕影の館にようこそ。歓迎いたしますわ――」
色素の薄い双眸が私を捉える。
彼女の背後、彼方の奥羽山脈は燃えているように見えた。
故郷の夕暮れは、果たしてこれ程までに鮮やかであったか。
それが、初日――五月十四日の感想であった。