1-2.鷹木写真館にて朋友と
鷹木写真館、応接室。
革張りの安楽椅子に腰を下ろした私は、テーブルを隔てて対面に座る男と対峙していた。
男の名前は鷹木康平。開襟の洋襟に濃紺の股袴、黒縁眼鏡に色白の痩躯という、いかにも知的階級という恰好のこの男こそ、此処の店主であり、塒を紹介してくれる人物である。
「随分珍しいものじゃないか。触ってもいいかね」
鷹木は、私が先刻置いた蛇腹式の大判カメラを興味深そうに眺めながら尋ねる。私が頷けば、手袋を嵌めた彼は手慣れた様子で写真機の検分を始める。
「刻印から六櫻社製ということは分かるが、初めて見るな。『櫻花』にも『リリィ二号』に意匠が似ているが、違うようだな。こんな上物、一体何処で手に入れたのだ」
「うちの社長が六櫻社の偉方と大層仲が宜しくてな。使い易いカメラを作ってくれと頼み込んで、何の因果か私が使うことになったのだ」
櫻花もリリィ・シリーズも六櫻社の代表機種であり、今や国産写真産業の代名詞となった。とは雖も、フィルムサイズは手札型や大名刺程度であり、大判ではないのだが。
「すると、君は何かい? 社長殿のお気に入りで将来を嘱望されているのか」
「そんな訳があるか。寧ろ、あの古狸は私のことが嫌いだよ。だからこんなに長々と休暇を取れたのだ」
「へぇ、そりゃ難儀なことで」
鷹木は気のない相槌を打ち、最前の話に戻るが――と写真機に視線を戻す。
「こいつは扱い易いもの、という注文で作られたのだろう? 具体的にはどこがどう違うのだ」
「取り回しの良さとフラッシュだ」
「ふむ、成程」
鷹木はカメラの右上部に付けられた反射傘の支軸を掴み、抱えてみせる。
「重いには重いが、思ったよりも小回りが利くんだな」
「うむ。いざという時に構えられなければ意味がないからな」
記者と名乗るからには被写体との距離を把握して二度はシャッターを切らねばならない。
二枚目は焦点を誤った際の保険であり、また余所の記者がしくじった時に融通してやるためでもある。狭い業界故に相互扶助が成立する――否、先鋭機材を扱う者としての矜恃が、我々に強固且つ排他的な仲間意識を持たせるのだ。
「この反射傘は美しいな。無機質ながらも人の温かみを感じさせる。銀の錦華だ」
鷹木は感心したように呟く。言葉に諧謔を含ませたがる癖は学生時代から変わっていない。
「生憎、機械を美しいと思える感性は持ち合わせてはいないよ」
「そりゃ本当かい? それなら君に写真家という職業は向いていないぜ」
肩を竦めて鷹木は云う。挑発じみた言葉に反感を覚え軽く睨んでやるが、事実じゃないか――という彼の言葉に反論はしなかった。
己の道を見喪いかけたが故に、今私は捨てた筈の故郷に舞い戻ったのだ。正論には逆らわないと決めている。
「それを明白にするために、私は盛岡に来たのだ」
「結構な意気込みだが、駄目だったらどうするのだ」
反射傘の中央にある凹みを指でなぞり、ここには閃光電球が収まるのか――と鷹木。松下電器産業の閃光電球だよ――と答え、鞄から箱を取り出し、それもテーブルに乗せてやる。煙草の箱を一回り大きくした橙のケェスには五個の電球が入っている。当然ながら使い切りであり、金食い虫もいいところである。
「もし、私の才覚に欠陥があるのならば――素直に認めようじゃないか」
「俺が聞きたいのはその先だ。認めて、それから君はどうする?」
「新聞記者にでもなるさ。大衆が求める鮮明な写真を追う狗にでもなろう。そうして今この瞬間も揺れ動く社会を捉え、偏見と恣意を一滴垂らした上で、世に知らしめようじゃないか」
「随分大層な口を叩くなァ。できるのかい?」
「できるさ。新聞には人を欺き操る恐ろしい魔力があるからな」
「はっ。君が扇動者にならぬことを祈ってやろう」
先導者――否、扇動者か。まあ、どちらにせよ同じことだ。
鷹木は再び肩を竦め、私の相棒――櫻花・零式を置いた。国産の円いレンズが何か云いたげに私を見詰めている。存外、機械にも、美しいとは云えぬまでも妙な魅力があるのかもしれない。
「私は君に下宿先を紹介してもらったのだ。手間を掛けさせて駄目でしたと云うつもりはない。安心してくれ給え」
「ほう? やけに自信満々じゃないか」
「当然だろう。私は勝算があることしかしない性質だからな」
「負け戦をしないことの根拠は何だい」
根拠の無い自信ほど恐ろしいものは無いぜ――と鷹木は揶揄うように云う。
根拠はある。そして確信も抱いている。
私が答えようとした時、応接室の扉が開かれた。見れば、和装の女性が入ってきたところであった。女の持つ盆には二つの洋杯が乗せられていることから察するに、鷹木の細君だろう。細君は私に軽い礼をしたのち、テーブルの隅に硝子の洋杯を置いた。
「麦茶でごめんなさい。その大きな写真機にかけないように気を付けてくださいね」
「これはこれは。お気遣いどうも」
私も細君に頭を下げ、桜花・零式を畳む。蛇腹を縮めれば、鞄に収納できる大きさになる。
細君は此方に微笑して、退室していった。
「どうした、伊達男。家内をじっと見て」
鷹木は私を大学時代の渾名で呼び、私を睨む。
「妙な勘繰りは止せ。そういえば云ってなかったなと思ってな」
「うん? 何をだい」
「結婚おめでとう。便りこそ来ていたが仕事を脱け出せなかった。駆け付けてやれなくて済まなかった」
私の遅すぎる祝辞に、君は案外義理堅いのだな、と鷹木は何とも云えぬ表情を浮かべる。この男と久しく会っていなかったが、その曖昧な態度が照れ隠しであることはすぐに分かった。
汗に濡れた杯を掴み、ひとつを差し出してやる。もうひとつは此方に引き寄せた。水出しであろう薄い麦茶ではあったが、窓から差し込む光を透過する煌めきが眩しかった。
「案外は余計だよ。ここはひとつ乾杯といこうじゃないか」
「それは構わんが」
鷹木は徐に杯に手を伸ばす。
「何を祝えと云うのだ」
「決まっているだろう。君と細君の幸福をだよ」
「ふん。気障で御人好しは性格は変わっていないようだな」
そこは俺達の再開にだろう――と鷹木は笑う。
「それでもいいが」
「何だっていい。飲み干すのは酒じゃない、ただの温い麦茶さ。ほら、乾杯だ」
鷹木は洋杯を掲げ、麦茶を呷る。
「おい。友誼を誓おうというのに勝手に飲む奴がいるか」
「それは君がしたいだけだろう。昔を懐かしんであれこれ語る程、俺達は老けちゃいないぜ」
鷹木はそう云い、久方振りに煙草を飲もうじゃないか。紙巻だが君もどうだい――と愉快そうに顎の無精髭を撫でた。
過去を振り返る程我々は老けていない。
そう嘯いた鷹木であったが、それでも今に至るまでの積もる話が私達にはあった。私も鷹木も社交的とは云い難い性分ではあったが、時間を忘れてあれこれと語らっていた。
私達の遣り取りを止めたのは窓から差し込む眩い斜陽だった。
郷愁的な光が硝子の洋杯に乱反射して、網膜を刺激する。
柱時計に目を遣った鷹木が、もう夕刻じゃないか――と云った。
「鷹木。長々と居座って済まなかった。今更だが写真館の方はよかったのか」
「君が来た時から店は閉めているよ。それより、そろそろだろうな」
何がだい――と私が訊けば、お嬢様が来るのがさ――と鷹木は答える。
お嬢様?
「来客かい。しかし店じまいはしているのだろう」
「客じゃない。君の下宿としてとある屋敷を抑えたと云っただろ。その物好きな成金様の御息女だ。故郷に来たにも関わらず、宿のあてがない哀れな男を迎えに来てくれるのだ」
「くだらない軽口は聞き流してやるが、それは本当かい」
部屋を貸す側が迎えを寄越すとはまた随分な親切ぶりである。鷹木がそこの地図をくれるものとばかり思っていた。
「度の過ぎた厚意じゃないか。何か裏がありそうで怖いものだな」
「そんな怪訝な顔をしなくてもいいじゃないか。まさか自覚がなかったのかね」
「何の話だ」
「君が、宿のない哀れな男ということが」
愉しそうに憎まれ口を叩いた鷹木は、咥えた紙巻に燐寸で火を点ける。南部鉄器の灰皿には、既に十を超える吸殻が放り込まれている。
「呆れるぜ、鷹木。君は本当に何も変わっていないな」
この男は普段仏頂面でいる癖に、私を虚仮にする時だけは大層満ち足りた顔をするのだ。
最早慣れたもので、怒りや苛立ちはない。寧ろ、嫌味とも皮肉ともつかぬ応酬をするのが我々には相応しいとすら思う。
「人間そう簡単に変われるものじゃない。善い奴は死ぬまで善い奴だし、畜生は死ぬまで畜生というものだ。うん? 畜生は人間じゃないのか。まあいい、言葉の綾だ」
「君は学生時代からそんなことを言っていたな。そんなことよりも先刻の話だ。迎えが来るというのは初耳だ」
「伝えるのを忘れていたよ。良家の令嬢に来て戴けるのだ。くれぐれも粗相のないように頼む。何せ君を紹介したのはこの俺なのだ。この店の評判にも関わって来るからな」
まあ腐っても君のことだ。云う程心配はしていないがね、と鷹木は美味そうに煙草を吸い、量のある紫煙を吐き出した。
「あまり脅かさないでくれ。そもそも何故君はそんなところに私を紹介したのだ。こう云っては何だが、私は華族でも士族でもないただの平民だ。雨風が凌げるならそれで十分だ」
「紹介したくてしたのではない。向こうから訊かれたのだ」
「訊かれた? 何を」
「最初は俺だって裏通りの木賃宿にでも君を遣ろうとしていたさ。だが何処から聞き付けたのか、件の当主殿が此処に来たのだ。『貴方が今、御友人の宿を探していると小耳に挟みましてね。それならばどうだろう、私の家を使っては戴けないかな。是非、頼むよ』という具合にな」
「分からないな。その当主殿は――ああ、そうだ。何という御仁なのだ」
「蚕影天涯という男だ。手紙にも書いたが、あれは養蚕と紡績で富を築いた成金だぜ」
「蚕屋敷とかいうあれのことか」
「そうだ。この際断言してしまうが、どうも胡散臭いのだ」
鷹木は長くなった紙巻の灰を灰皿に落とす。
「何故、蚕影天涯が君のようなろくでなしを率先して招こうというのだろうな」
「そこが、君が釈然としない部分なのだな。しかし、ろくでなしは云い過ぎじゃないか」
「君は旧友からの忌憚ない評価に異を唱えるのか。だからろくでなしと云っているのだ」
「愚弄するか説明するかのどちらかにしてくれ」
時間だってもうないのだろう――と私が抗議すれば、すまんすまん――と鷹木は詫びてみせる。
「それで伊達男よ。何が分からんのだ」
「天涯殿は一体何処から私のことを聞いたのだ。意味のないお喋りが嫌いな君だ。吹聴した訳ではあるまい」
「当たり前だ。君と交友があると喋っても得どころか損しかしないからな。もしかしたら家内がご近所さまに喋ったのかもしれないが――少し強引な解釈だな。あれに蚕影との接点はない筈だ。君の方はどうなのだ。文屋として働いているうちに蚕影と関わったことはないのかい」
「まさか。残念ながらそんな記憶はないよ」
そんな貴重な人脈があれば、疾うの昔にどうにかして取り入っているだろう。
「君こそもう一度考えたらどうだ。当主殿が態々(わざ)来るくらいだ。赤の他人ではないのだろう」
「慥かに写真館の主人というのは何かと顔が広くなるが、蚕影天涯が客として来た覚えはない。娘の方もな。どうにも腑に落ちんな。何故、蚕影天涯とあろう者が君を泊めたがるのか」
「それは天涯殿を買っているのか。それとも私を見縊っているのか」
「両方だ」
「こっちは真剣に聞いているのだ」
怒気を込めれば、俺だってふざけている訳ではないのだ――と鷹木は降参とばかりに掌を挙げる。
「帝都にいた君は知らんだろうが、蚕影と云えば名の知られた家なのだ。平民宰相とも繋がりがあるとかないとか」
平民宰相――盛岡出身の総理大臣、原敬のことである。
紙巻を吸い尽くした鷹木は、火を揉み消し、吸殻を灰皿に捨てた。
「伊達男。改めて訊くが、先方に執着される覚えはないのか」
「ああ。名を聞くのも初めてだが――執着だと?」
鷹木は私の問いを黙殺して。
「忠告、忘れてくれるなよ」
と云った。
やけに深刻な口調であったが故、何の話だ、と簡単に訊くのは憚れた。
この男から貰った忠告というと。
――蚕とは、餌であり、繭であり、贄なのだ――。
――蚕に幸福な未来など訪れやしない。深入りは避けることだ――。
あの手紙である。
「なんだ。まさか忘れた訳ではあるまいな」
「覚えているとも。深入りするなという話だろう。しかし、どうして君は蚕の生態を引き合いに出してまであんなことを書いたのだ」
「不気味だからだよ」
間髪入れずに鷹木は吐き棄てた。
「不気味?」
それは蟲である蚕を指してのことか。それとも蚕影天涯という人物の方なのか。
部屋に得体の知れぬ緊張が走る。
「鷹木。何か私に隠していないか」
「何故そう思う」
「君は推測だけで訓戒を寄越す人間じゃないだろう」
逆説的に、彼は私に警告しなければならぬ何かを知っているのではないだろうか。
鷹木は否定も肯定もしなかった。彼はひとつしか無い扉に視線を移し、来たようだな――と云った。何が、とは訊かなかった。蚕影の迎えが来てしまったのだろう。
軽い跫がしたのち、扉が開かれ、細君が半身を窺かせる。
「お話中にごめんなさい。蚕影さんところのお嬢さまがお見えになりました」
「分かった。そこにいるのか」
「いいえ、外にお待たせしております。お通ししますか」
「いや、いい。俺達が行く」
鷹木は細君に答え、私に向き直る。
「そういうことだ。準備はいいな」
「ああ、問題ない」
鷹木に頷き、彼と共に客間を後にする。