6.死への羽搏き
藍染の空に、梔子色の望月が浮いている。
湖の中央に篝火が焚かれているのが遠目に見えた。酸漿色の熱い光に、朱塗りの鳥居と黒塗りの社が浮かび上がる。あれが蚕影神社であろう。
畔から架かる桟橋を闊歩すれば、革靴が橋板を叩く跫は、清浄な夜の空気に溶けていく。
大きいとは云えない社の前に、方形の匣が置かれている。神輿――否、輦輿だろう。屋形の四方にある筈の簾も除かれ、純白の塊が鎮座しているのが見て取れた。
降り積もった氷雪の如し物体は、両脇の篝に照らされ、時折蠢く。
輦輿を数人の男が囲っていた。数にして五人。
少し離れたところに娘が一人立っている。
男達は皆、立烏帽子に狩衣と指貫を纏った神主然とした出立ちである。あの輦輿を此処まで担いできた人工だろう。娘の方は、女学校の制服を着て、錫杖を抱くようにして持っている。背格好で分かる。あれは嘉多子だ。
嘉多子がいるということは、あの繭に居るのが姫子なのだろう。
姫子はあの中で眠っているのだ。
皆一様に、異質な存在感を放つ供物を睨んでいる。
何人も、背後から忍び寄る私に気付いた様子はない。
待っていろ、姫子。今、君を救ってやる――と意を決した時である。
嘉多子がひとりの男に錫杖を差し出した。男はそれを受け取ると、数歩社へと歩み出て、石突を地面に打ちつける。
厳かな音が木霊する。
男は拍子を取るように続け、他の男達は経とも祝詞ともつかぬ詞を唱え始める。
得体の知れぬ高揚と緊張が場を支配する。
その時、きぃ――という音がした。
木の軋む音である。重厚な雰囲気にそぐわぬ軽い音であった。
何だと見遣れば――神社の扉が開いていた。
暗い社から腕が伸びた。皺だらけの罅割れた膚である。掌で大地の感触を確かめると、次いでもう一本の腕が生え出す。
そして。
顔が出てきた。醜い爺の面である。
間違いない。あの黄昏の日、私と嘉多子が遭遇した老父である。
宮司達が祝詞と錫杖で歓迎する中、とうとう朽ちた鎧に身を包んだ化物が這い出てきた。蜘蛛を思わせる長身痩躯の老父は、輦輿に男達、そして嘉多子と順に見遣り――最後に、繭に籠もった姫子を見下ろす。
老父が笑った。舌舐め摺りをする。
反吐が出るような汚らわしい表情である。
嘉多子が口許を抑え、半歩退く。
老父は佩いた剣を抜き、天高く振り上げた。
輦輿ごと繭を両断して、砕け散った血肉を啜ろうというのだろうが――。
そんな真似させやしない!
洋杖を左手に、写真機を右手で構え、駆け出した。
既に、櫻花・零式は展開している。フィルム、閃光電球共に装填済み。熱を持った電球を交換するための革手袋も装着している。
あの老父に潰された右膝が激しく痛むが、無視だ。
太刀が振り落とされる刹那、輦輿の前に躍り出て、老父目掛けて一発目の閃光を放つ。
唐突なる闖入者に、空気を律動させる呪文は止まった。目を焼かれた老父の刀も止まる。
やはり、此奴は光が弱点なのだ。
老父の顔面へ、剣術の要領で突きを放つ。桑から作られた洋杖は、吸い込まれるように老父の左眼を貫いた。
老父は絶叫と共に両の手で顔を覆う。私は手首を返し、その顎を跳ね上げる。
良いところに当たってくれたのだろう。化物は蹲るように崩れ落ちた。
勝負はここからだ。まだ此奴は死んでいない。また私は包囲され逃すべき姫子も眠ったまま。無策のまま飛び出てきたのだ。頼れるのは己だけである。人としての矜持だけを武器に、この窮地を脱しなくてはならない――。
――死ぬのなんて嫌よ――。
――教えて。妾はどうすればいいの――。
あの日、私は姫子の嘆きに何も云えなかった。だが、今宵こそは応えなければ。仮令この決意が私の死に繋がろうとも。姫子を救えるのなら、私は死にだって羽搏いてみせる。
来訪神を打ちのめした私に、場は騒然に包まれる。
「お兄様? どうして、ここに」
私の糸を切ったのですか、と嘉多子は問うた。
錫杖を手にした嘉多子の父、蚕影天涯も、食い入るように私を見詰めている。
「嘉多子の云う通りだ、夢明君。何故、君がここに居る。ここは神域だ、君のような世俗に塗れた者が踏み入れていい場所ではない」
狼狽と憤怒を抑えながら、天涯は努めて冷静に云い放つ。
「私が世俗に塗れている? 否定はしないが、生きたいと願う娘を生贄に追い立てようとするあなた方の行いこそ、穢れた畜生の所業ではないか」
「夢明君。君は自分が何を云っているのか分かっているのか。口を慎み給え」
「分かっているとも。天涯さん、世話になっている身でこんなことを云いたくないが――否、世話になっているからこそ畏れずに進言させてもらおう。こんなことはもう止めるべきだ」
「黙れ。君はこの神事を打ち壊すつもりか!」
「然様。私はそこで眠る姫子を貰う為に参上したのだ」
匣に収まる白い繭に触れれば、姫子が僅かに身じろいだのが分かった。
「正気か。どこで我々のことを聞いたかは知らないが、君には嘉多子がいるじゃないか。親の贔屓目もあるだろうが、嘉多子は聡明で美しい娘だ。どこに出したって恥ずかしくない。嘉多子だって君を憎からず思っている。一体何が不満なのだ。今ならまだ間に合う」
考え直すのなら今しかない、と天涯は懐柔せんと笑みさえ浮かべて饒舌に説く。隣に居る嘉多子も、捨てられた仔猫の如し眼差しで私を見ていた。
嗚呼、この父娘は、この期に及んでも私を遣り込めることができると思っているのだ。
嘗められたものだな。私も、姫子も。
「断る。私は姫子を愛している。救ってくれと、共に生きてくれと乞われたのだ。故に今宵、神に捧げる贄を頂戴する。如何なる手段を用いてでもな」
「考え直せ、夢明君」
「それはできない。決めたことだ」
私と天涯の間に深い沈黙が訪う。
天涯は私を凝然と見据えている。
私も稀人に魅せられた当主を睨む。
視線が交差した一瞬の間に、互いに解り合えぬことが解ってしまった。
不意に、天涯が冷笑する。
「残念だよ、夢明君。君はもっと賢しい人間だと思っていたのだが、見込み違いだったようだ」
天涯は錫杖を掲げ、地に打ちつけた。
凛とした音で、混沌とした空気が再び厳かなものに塗り替えられる。
我に返った神官達が示し合わせたかのように呪文の唱和を始める。
背後で、土を踏み締める音がした。
振り返れば――来訪神が立っていた。
今迄のように這ってなどいない。二本の脚で起立して、九尺はゆうにあろうかという高い位置から私を見下していた。
左目から黒い血を垂らした老父は大太刀を振り上げ――水平に薙ぎ払った。
横に転がり剣閃を躱す。
老父は更に続けて二度刀を振るうが、跳び退くことで避ける。
そこに生じた化物の隙に、間合いを詰め写真機の閃光を浴びせる。
残った右目を灼かれた老父は闇雲に刀を振るうが私には届かない。
その隙に閃光電球とフィルムを装填し、老父に向かって跳躍する。顔面へ洋杖を振り抜いた。
渾身の一撃は強かに頭部を捉えたが、老父は斃れない。
着地の衝撃で右膝が千切れるかのように痛んだ。出血や打撲ではない。骨と骨が干渉し、腱と神経を潰す、耐え切れぬ類の痛苦であった。
私が立ち止まったのは一瞬のことである。だが、その致命的な隙を老父は見逃さない。私の鳩尾に蹴りを放ち、吹き飛んだ私の躰を貫かんと突進する。
「ゆめあき」
誰かが私を呼んだ。
囁くが如し矮小な声であったが、それでも明瞭と聞こえた。
今の声は姫子のものだ。あの娘は、夢に囚われながらも私を呼んだのだ。
老父の剣戟を寸前で避け、距離を取る。
白銀の満月と韓紅の篝火、蚕影の父娘と神官達、そして姫子が見守る中、私と老父は三度肉薄する――。
一度目は初撃と同じく閃光で動きを封じ、洋杖で左目を完全に潰した。
二度目は写真機を構えた瞬間に老父が跳び、撮影範囲から逃したところを、右肩から腹にかけて浅く斬られた。追撃から逃れるために閃光電球を消費してしまう。
三度目は、フラッシュを連発して相手が怯んだところに喉へ突きを放った。老父は片膝を突くが、またしても膝の痛みで硬直したところに、その右膝を斬られた。切断こそ免れたが、膝の皿は両断され大量の血が流れ出ていく。
戦局が傾いたのは四度目である。私が老父の剣を潜り抜け、閃光を放った時である。至近距離での発射にも関わらず、老父は怯まなかった。
閃光電球を交換しようとした私の手が止まる。
――何故だ。
老父が目を瞑っていたと気付いた時には、顔面を斬られていた。
蹌踉いたところを、顎を蹴られ真後ろに卒倒してしまう。
背中に、柔らかいものが触れた。
抱き留められたような感触であった。
老父が嗤った。涎に濡れた犬歯を剥き出しにして、嬉々として此方に踏み込む。
駄目だ、殺される――。
老父が平突きを放つ。
私は本能に身を任せ、その一撃を躱す。閃光電球を装填して――。
背後で、何かが潰れる音がした。
今の音は何だ?
何故、この爺は嗤っている?
私の後ろにあったものは何だ?
――先刻、私を抱き留めてくれたのは誰だ?
途轍もない嫌な予感がした。
呪文の唱歌も、錫杖の音も何時の間にか止まっていた。
老父が徐に刀を抜き、闇夜に掲げる。
私を貫き損ねた刃には、白濁とした液体が纏わりついている。重力に従い、焦れる程ゆっくりと剣先から鍔元に伝い、鍔から溢れたものが老父の手を穢していく。
どろり、という擬音が相応しい、粘度の高い生血である。
色事の残り香の如し腥さと、土と木が腐敗したが如し黴臭さが漂う。
老父は長い舌で雫を嘗め掬うと、不気味な哄笑を上げる。
「ゆめあき――」
誰かが私を呼んだ。
苦悶の呻きであり、私への詰責でもあり、救いを求める懇願でもあった。
篝の中で小枝が爆ぜる音に掻き消されてしまいそうなか細い娘の声である。
――痛い。痛いよぅ。
――妾を護ってくれるんじゃなかったの。
――あなたと一緒に生きたかっただけなのに。
――嫌だ嫌だ。死ぬなんて嫌だよう。
現実と虚妄の境界線上、娘の慟哭が鳴り響く。
これは幻聴だ。
振り返ってはならない。
まだ、私の戦いは終わってなどいない!
壊れかけた自我を繋いだ時、老父が刀を振り被っていることに気付く。
閃光電球は、今嵌めたもので最後だ。
凶刃が私の脳天に迫り来る刹那、身を沈めて老父の鍔元を打ち払う。刀の軌道は逸れ、刀身が地を叩く。間髪入れずに野太刀を踏みつければ、老父はあっけなく得物を手放した。
今だ。
我が朋友よ。有難く使わせてもらおう。
最後の閃光を放つ。直撃した老父は、手探りで刀を探すが、既に私が刀を奪っていた。
革手袋越しに濡れた柄を握る。蛾の幼虫を潰したが如し生理的嫌悪が背筋を走り抜ける。
「ああああぁぁぁぁッ!」
私は叫んでいた。叫びながら、老父の頭蓋に刀を振り下ろした。
頭部を斬られた老父は、人語にはない不愉快な喚きを放ち跳び下がるが、即座に距離を詰め、腹に刀を突き立てた。刃は鎧ごと、老父の躰を貫いた。
刀から手を放せば、老父は斃れた。
今、祟り神は死んだのだ。
これで共同体に平穏が訪れる――。
振り返れば、輦輿に収められた繭に、裂かれたような傷がある。
その穴から、白い液体が漏れ出ていた。
「姫子」
唇から娘の名前が零れた。
私の所為で、姫子は。
済まない。赦してくれ。
共に生きることは、人間である私には叶わぬことだったのだ――。
せめて、彼女が事切れる迄は隣に居てやろうと歩み寄ろうとするが、躰が云うことを聞かず、その場に膝を突いてしまう。
私を支えるものは、もう何ひとつ残されていなかった。
人としての誇りも、姫子への恋情も、何処かに霧消してしまった。
私は、どうにもできぬことを悟ってしまったのだ。
誰かの跫がした。
顔を動かす気力も残っていない。儀式を阻んだ報いに殺されようとも構わなかった。
「お兄様――」
視界の隅に女の顔が映り込む。
神官はない。嘉多子であった。
「お気をたしかになさって」
私の双肩に嘉多子の掌が乗せられる。此方を気遣う、暖かな言葉と体温であった。
だが、私は彼女を見ることはしない。愛嬌に溢れた姫子の貌が、嘉多子に浸食されることを懼れたのだ。それに、姫子を贄に捧げることを嘉多子も望んでいたのだ。
嘉多子への憎悪に駆られるが、それも一時のことであった。怒りよりも虚しさが勝ったのだ。姫子は帰ってこない。その息苦しい諦観が私を支配し、指一本動かすことはできなかった。
繭は殆ど動かなくなったが――異変が起きた。
老父が開けた穴から、白い手が生え出した。
小さなふたつの掌である。その手は、緩慢な動きではあったが、内側から分厚い生糸の壁を抉じ開けようとしている。
一尺、二尺と解れは拡がっていき――繭の中から、娘が顔を覗かせる。
白い髪に黒い眼をした――私の知っている娘であった。
娘は外界に嬰児の如し無垢なる視線を這わせ――その眼が私で止まる。
遠目からでも分かった。
娘は、私を見て微笑したのだ。
良かった。姫子は無事だったのだ――。
「姫子」
歯を食い縛り立ち上がる。嬉しさのあまり、姫子しか眼中になかった。故に。
「嘘よ。いくらなんでも早過ぎるわ」
嘉多子の声は聞こえなかった。
「お兄様、お待ちになって。あの子は眠ってから一日とも経っていないのよ。そんなに急に姿を変えることなんて無理よ。躰の方がもたないわ」
聞いてらっしゃるの、ねえ――と嘉多子が私の袖を掴む。
「私だって一週間はかかったのよ。姫子さんに触れるのはお止しになって。お兄様だってあの子のことが大切なんでしょう」
切羽詰まった制止であった。
「嘉多子くん。話は後だ」
「駄目よ。お願い待って!」
「できない相談だ」
嘉多子を振り払い、今度こそ輦輿の傍らに立つ。
「姫子、聞こえるかい。姿を見せてくれないか」
「うん。いま、妾も、そっちにいくよ」
既に繭は裂かれ、華奢な姫子には十分過ぎる空間が空けられていた。
最初に頭が出てきた。
額の上から、黒い二本の触角が生えている。
頸周りは白い綿毛に覆われている。
次いで、腕が出てきた。
妙に節くれ立った五指が土を掻く。
手首も、量のある綿毛に飾られている。
胴が出てきた。
雪色の着物に深緋の帯は肌蹴て、肩から腰にかけて青白い月光に晒されている。
背には翅があった。鱗粉に包まれた光沢ある四枚の翼である。
二本の脚も躰に引き摺られ――輿の中には、白く濁った液体が留まるだけとなった。
完全なる蚕蛾である。
変態を遂げたばかりの姫子は座り込み、澄んだ双眸で私を見詰めている。
依然として黒曜石の如し意思の汲めぬ瞳をしていたが、不思議と今は愛しかった。
姫子の帯は、真っ二つに斬られ、垂れ下がっている。
露わになった裸体を隠そうともしない。
腹部に水平に走る一本の創が痛々しいが――その瑕が霞んでしまう程美しい躰をしていた。否、その瑕すらも彼女の一部で、儚く神秘的な様を只管に強調しているかのようである。
姫子との距離は、歩幅にして十歩。
たったそれだけの範囲に、姫子がいる。
それが、堪らなく嬉しかった。
「姫子。立てるかい」
寄ろうとした私を、姫子は頭を振って拒む。
「来ないで。妾から、行くの。あなたはそこにいて。妾はたしかに蟲だけれど、でも、あなたと一緒に生きたい」
だから、妾から行かなきゃ――と姫子は細い脚を震わせながら立ち上がる。
羽織っていただけの着物は重力に逆らえず地に落ちた。
四枚の翅が三度、力強く羽搏いた。
夜風が我々の間をすり抜け、姫子の髪が、触角が、翅が――微かに揺らぐ。
照り輝く満月の真下に佇む姫子は、天女かと見紛う程に鮮麗であった。
今この瞬間、世界には私と姫子しかいなかった。
私達は見詰め合い、どちらからともなく頷いた。
姫子は翼を広げながら私へと跳躍する。
私も、胸元に飛び込んでくるであろう彼女を抱き留めようとして。
――蚕とは、餌であり繭であり贄なのだ――。
――蚕に幸福な未来など間違つても訪れやしない――。
誰かの訓戒が脳裏を過ぎる。
姫子の手が私に届くことはなかった。
宙に舞う寸前、姫子は転倒したのだ。
何に躓いたのかと見れば、姫子の足首に、脱ぎ捨てた着物が絡み付いていた。
すぐ足下の姫子に寄り、助け起こそうとして――。
何か、妙だ。
強烈な違和を抱く。
姫子は私のすぐ前に伏せている。なのに、何故あんな遠いところに二本の脚がある?
おかしい。
この光景はおかしい。
何故、彼女の躰は伸び切っている――いや違う。
何故、姫子の胴と脚は
千切れているの
だ――。
下半身と上半身の間に白い河が流れている。河には白濁色の体液だけでなく、腹に収まっている筈の腸に子宮、膀胱らしき臓物が散乱している。どれもが真白に光り、人間の内臓は赤色であるという常識などまるで通用しない光景であった。
錯乱した私の精神を辛うじて繋ぎ止めたのは、姫子の呼声であった。
何が起きたのか分からないという顔で、姫子は私を見ていた。
「ゆめ、あき? 妾は」
姫子を仰向けにさせ、抱きかかえる。
横目で損壊した姫子の下半身を見遣る。つい先刻まで温かな生物であった筈なのに、今では不細工な無機物にしか見えなかった。
「嗚呼、そっか。やっぱり、駄目だったのね」
神様に食べられてしまう前に蝶になって、あなたと共に生きようとしたんだけどな、と姫子は自虐的な笑みを浮かべる。額には脂汗が浮いて、余計に彼女の貌が白く見えた。
「姫子。待っててくれ、今医者を」
「手遅れよ。そんなことより、ね」
「そんなこととは何だ。私は、君を」
死なせたくはないのだ。
「お願い。聞いて」
己の死を悟った姫子に、私は何も云えなくなってしまう。
姫子は、痛いなあ、と呟いたのち、紡ぐように云う。
「ずっと繭の中で考えていたの。妾は蟲で、虚弱な蚕。だから、どんなにがんばってもあなたより早く死んでしまう。けれど、あなたの心の中で生き続けることなら妾にだってできるの。あなたさえ忘れてくれなければ。――お願い。私のこと、忘れないで。あなたの心の、ほんの片隅にでもいいから側にいたいの。妾もずっと、あなたのこと、愛しているから――」
姫子の声は泪に濡れていた。
小さな手を伸ばし、私の頬を二回、撫でた。
「分かった。約束する」
「良かった。妾の最期を、あなたに看取ってもらえるのなら、もう」
後悔はありません――と姫子は目を閉じた。
「――姫子?」
しっかりしてくれ、と云おうとした時、何者かが横に立った。
顔を上げれば――天涯である。円い月を背負った宮司は、錫杖を振りかざして。
「茶番は終いにしてもらおうか」
錫杖が私の脳天に振り落とされる。
凄まじい衝撃で、視界が回り、姫子の上に崩れ落ちた。
「彼を贄から離せ! 喰われるのは贄だけで十分だ」
蚕影の当主の命令により、神官達が私を引き剥がしにかかる。
そこからは多勢に無勢であった。もとより精も根も尽き果てた私である。抵抗などできようもなく、殴打されるままであった。
脇腹に神官のひとりの沓が食い込み、胃液と珈琲の混じった赤茶色の吐瀉物をぶちまけた。幾度も頭部を蹴り飛ばされ、自分が立っているのか寝ているのか、泣いているのか笑っているのかも分からなくなる。
途方もない虚無に浸り、肉体から魂が引き抜かれたような心持ちであった。
壊れかけた私の意識を現実に引き戻したのは。
――しゃん。
錫杖の音であった。
私を嬲っていた男達も動きを止める。
かしゃん。かしゃん。かしゃん。
かしゃん、かしゃん、かしゃん――。
天涯が打ち鳴らす拍子の間隔が徐々に狭くなっていく。
しゃん、しゃん、しゃん――がしゃん!
最後の一撃が放たれた。
横臥する姫子の向こうで何かが動いた。
斃れていた何かが立ち上がる。
まさか。
そんな莫迦なことが。
異邦神が黄泉返ったのだ。
老父は、私が突き立てた野太刀を抜いて、放り棄てた。
狂人の笑みを浮かべながら、姫子に歩み寄る。
「駄目だ! やめろ。やめてくれ!」
喉元を踏み付けられたせいで声が出ない。止めようにも全身が動かない。
老父は、蜘蛛の如し長い腕で姫子の上体を抑え付けた。
笑みを貼りつけたまま、姫子に覆い被さり、腹に齧り付いた。
姫子の小さな躰が弓のように撓る。
生きながら内臓を喰い散らかされる痛みに、目を見開き、歯を食い縛り、悶えている。
のたうち回る姫子と、視線が交差する。
――たすけて、ゆめあき――。
姫子の口があらん限りに開かれた。
翅も触角も小刻みに震えて。
「ぎゃあああぁぁぁっ! 痛い痛い痛い! ゆめあき、ゆめあきっ。助けて、妾死にたくない! 死にたくないの! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!」
姫子は逃れようと必死に踠くが、老父は離さない。
ぐちゃりぐちゃりと彼女は白い臓器を食い荒らされ――。
「あああああぁぁぁぁッ!」
娘のものとは思えぬ野太い咆哮をあげ、姫子は絶息した。
何時までも何時までも、姫子の断末魔と、爺が血肉を啜る音が耳について離れなかった。




