音楽の波打ち際で
※この作品はフィクションです。作品に登場する人名等は、実在するものとは一切関係ありません。
カラオケを出ると、薄い外界の光が私の顔を照らした。
小さな階段に片足を乗せたとき、自分の足の頼りない感覚に、ふと戸惑う。
「さ、矢野、帰ろうぜ」
M君はそう言って軽い身振りで自転車にまたがって、私の方を少し振り返ってから、すぐに走り出した。
少し遅れて、私はM君の後を自転車で追う。
半そでが寒かった。
朝にカラオケに行くとき、自転車をこぐことにもなるので暑くなるだろうと思い、私は半そでを着て出た。走ってると実際に暑くて、カラオケに着くころには、ほとんど汗さえもかいてしまいそうだった。
けれど、夕方の6時。吹いている風は冬のように冷たくて、腕や顔に直接当たると寒かった。さっきまで歌いに歌って自分の中にたくわえられた熱と汗は、いつの間にか日暮れの冷気と東風を受けて、透き通った清涼感をたたえて服ににじんだ。
自転車で風を切りながら、向かい風の中で目を開いて、空を見上げる。コーラフロートみたいに、赤っぽい空に、白い雲が浮かんでいる。その向こうに、海のように暗い、宇宙が透けて見える。
この時間帯になると、道路を走る自動車はみんなライトを点灯させていて、気の早いお店もネオンを点けている。一日の終わり、道を歩いている人は疲れた顔をしているが、私たちは素知らぬふりをしながら、その横をひゅっと自転車で通り抜けていく。
前を走っているM君との距離が開いていた。私はペダルをぐっと踏み込んで、スピードを上げる。
「なあ矢野、腹減らね?」
「うん。お腹空いたね」
「どっかでラーメンかなんか食う?」
「ううん。たぶん家でお母さんがごはん作ってると思うから」
「おう」
M君はすました顔で、前だけを見て自転車を走らせる。始まりかけた夜の喧騒の中で、私とM君はなぜか言葉少なだった。
前を走るM君の背中を見ながら、私は音楽を口ずさむ。けだるいリズム、軽くて心地いいメロディー、たゆたうような視界…
私はM君に追い付こうと思い、ペダルの上に立つように全体重を乗せる。びゅうっ、と風が一気に私の髪にばさばさと吹き付けるのと同時に、私はあっという間にM君を追い抜いてしまう。
「あ、おい!速いって!待てよ!」
振り向くと、M君はぼんやりしていたのか、私の方を見て子どもっぽく笑いながら、力強くペダルをこいでいた。それを見ていた私も、ひらいた笑いをこぼした。
なんて気持ちいいんだろう。
二人で遊ぶようになって、何度も通ったこの道に、街灯がともり始めていた。
M君は、いつも私の前を走っていた。どうしてそんなに早く自転車で走れるんだろうと思いながら、私はいつも、近付いては離れ、離れては近づく、M君の背中をじっと見つめる。M君は何も言わず、中学生のときよりもずっと大きくなった身体を自転車に預けて、自転車のペダルを回している。それはちょうど、ゆっくりゆっくりと、時間の糸かせを繰っているかのように。
街を抜けて、私たちの住む場所の近くに入ってきた。
そこは、かつて通っていた中学校の通学路にもなっていたところだった。古びた神社があって、そろばん教室があって、そして田んぼ…。高校に入って電車通学をするようになる前は、何度もこの道を幼なじみのM君と一緒に帰ったものだ。一面に広がる田んぼの道は街灯が少なく、田んぼにたたえられたわずかな水が、街灯の光をさんさんと砕いている。送電塔のネオンが、遠くでちかちかと切なげに光っている。
「…ふう、疲れたな」
M君はそうひとりごちて、自転車を下りた。私もそれに合わせて、無言で自転車を下りる。
田んぼ沿いの道は薄暗く、足元が見えにくかった。暗い夕闇の中で、M君の身影が私のすぐ横にある。
「なあ」
きりきりというペダルの音の中で、M君が言った。
「なに」
「矢野ってさぁ、〇〇大学合格したん?」
M君は私の方を見て聞いた。
「…うん。受かったよ」
「…そうなん」
M君はうつむいた顔のまま、つぶやいた。
考えてみると、12月の体育の授業で私が〇〇大学を受けるといったとき、M君は驚いて、絶対無理やんーとかいろいろ言ってきたものだ。それから、センター試験があって、二次試験があって、卒業式があって、それから…。ただ覚えているのは、寒い冬の夜中、勉強している私の机のそばで、小さなストーブが煌々と輝いていたことだけだ。
「そういえば、受験があってから、ずっと矢野と話してなかったんだな」
「うん」
「聞きそびれてた」
「M君はどこの大学?」
「□□大学」
理系の大学だった。
「そっか。やっぱり、大工さん目指すの?」
「おう。…矢野はどうするん?〇〇大学で」
「私は…まだよく分からないかな」
私もM君も、お互いの顔を見なかった。見たとしても、暗くてよく見えなかった。ただ、自転車の小さなライトが、私とM君の歩く道を照らしていた。
私は少し息をのみこんで、聞いた。
「ね、彼女さんは、どうするの?」
私は顔を上げずに聞いた。
「ん、なんか、薬学系のとこ行くんだって。詳しくは知らんけど」
「そうなんだ」
M君はいつも通り、淡々と話す。私も、最初にM君にそういう話が出たときのように、冷やかしたりしたいと思わなかった。受験の直前にM君と話したときから、いつの間にか、もうずっとこんな感じになっていたのかもしれない。
近くにある桜並木から、ほのかに桃色の香りが漂ってきた気がした。春が近く、桜もちらほらと花が咲き始めている。けれど、冷たい空気のせいで、あまい香りなのに、どこかアンバランスな、不似合いな感傷をもたらした。
闇が濃くなり、お互いの顔が見えなくなった。
「もうすぐ、矢野の家だな」
「…うん」
田んぼの道を越えて、いつも私とM君が使っていた駅へと近づいてくる。踏切の音と、古びた駅舎の明かりが、懐かしかった。
「…じゃ、このへんで別れるか」
「うん」
M君は立ち止まって、私の方をじっと見つめた。駅のかすかな明かりが、M君の顔を縁どる。思ったより、中学生の時のような優しい目つきをして、口元にも…なにか言いたそうな微笑みをたたえたまま、瞳の奥に、どこか遠い場所のともしびがまたたいていた。
「M君、今日はありがとう。私、すごく楽しかった」
私は笑って言った。
「おう。矢野も、元気でな。…大学行っても、がんばれよ」
M君はにっこり笑って、「じゃなっ」と手を振って、M君の家の方向へと歩いて行った。いつもと変わらない別れ方だった。
一度、M君が私の方を振り返って手を振ったみたいだったけれど、すっかり夜の闇が深くなって、M君の姿は見えなくなった。
踏切の音を背中に、私は家まで自転車を押して帰った。
あの帰り道、夕暮れの空にぽつんと輝いていた緑色の月は、それがそのまま音楽であるかのように、これから私が経ていくだろう歴史や憧れをすべて含んで、いろんな色に染まるようになった。
私はもう一度、音楽を口ずさむ。
M君と一緒にカラオケに行ったとき、私が大好きで、いちばんよく歌って、今も胸の中でゆっくりと脈を打つ、外国の音楽。
空は暗くなりかけて、うすい緑色の月がかかる。少し冷たさを含んだ空気の中を走りながら、ちょうど、夕陽にきらきら光って静かに波打つプールの水面みたいに、何度も繰り返されたメロディーと感情が鮮やかによみがえってくる…。
音楽は、今も胸の中で鳴りやまない。