訓練
あれから約3週間は立ち、私は退院した。
すっかり足は治り、歩いても問題は無さそうだった。
とりあえず今日からでも先輩の指導を受けないと。この研修が終わったら試験をきちんと受けて飛び級するんだ。そして、あの黒髪の……ニク先輩のお手伝いをしたい。
実は薄々気づいていたんだ。私が天使になりたいという願望を持つきっかけになった天使さんが、ニク先輩だってことを。
始めてここに来る時、優しく頭を撫でてくれた人は黒髪で、甘酸っぱいブルーベリーの香りがしていた。何年経ってもこれだけは忘れていなかった。
自分の脳が、また会うかもしれないから記憶しておけと、言っているみたいに。
だいぶ前の事だし、ニク先輩は、数え切れないほどの魂を案内していると思うから、私の事なんて、とっくに忘れているんだろうけれど。
後、探していない場所は、自習室と食堂と図書館と情報処理室。まだ、天使堂の作りを把握出来ていないので、小さい紙切れに案内図を書き込み、それを頼りに探している。
案内板は入口にしか無い為、中に入ると丸暗記するか、メモを頼りにするか、のどちらかになる。いつしか私も丸暗記しなければいけない。
とりあえず近くにあった食堂へ入ってみた。丁度お昼時なのか、天使達がテーブルで、食事や会話を楽しんでいた。
そういえば、食堂にどのような食べ物が売っているのかは気になっていた。何故なら外食をしたことが無いから。
参考書を買うために、食事に贅沢はあんまり出来なくて、毎日食パン、サラダ、フルーツですます日が多かった。病院でも、栄養が偏っていることは指摘されたばかりだ。
病院で食事をしたばかりで、食べる気はさらさら無かったので、皆の食べているものを歩いて見ていった。パスタ、ハンバーグ、オムライス。洋食の食べ物が目立っている中、1番皆が食べているのが、丸い形をしたパン。チラッと見てみたら、トマトやレタスなどがぎっちりと間に挟まっていた。
美味しそう。なんて名前の食べ物なんだろう……。
いろんな人の食べ物を見ている中、目に止まったのが向かい側の男の人と楽しそうにお喋りをしていたロニ先輩だ。
こちらから声を掛けようと、近寄ると、すぐに私の存在に気が付き、手を振ってくれた。一方男の人は、ロニ先輩の視線を辿り、私に気が付くと、冷ややかな瞳でこちらを見据えた。
『やっほーニクのお弟子ちゃん! 足はもう大丈夫なの?』
「はい、もうすっかり治りました」
『それは良かった! ニクがこっちでは、君の事ばかり話していたんだよー? どうやって方法教えればいいんすか? とか、あの子多分、魂の時に案内したことあるっす。とかね』
そう言われてドキッとした。覚えてて……くれてた?
よくよく考えると、案内した一人一人の顔を記憶して、脳にとどめておけるニク先輩はやっぱり凄いなあと改めて感じてしまった。しかも、私が初めてここに来たのは何年も前のはずなんだ。
相当頭良いんだろうなあ……ニク先輩。
『62の知り合いなの?』
『そうですよ、167番の子ですよ。この子が』
『ふーん、そうかこの子か……』
男の人はおもむろに立ち上がると、私に手を差し出してきた。
『どうも、167番。俺はニクからゴウと呼ばれている者だ。よろしく』
恐る恐る彼の手を触れると、力強く握手をしてきた。ちょっと痛いけれど、彼の表情からは、悪意のみじんもない事が分かる。しばらくして、私から手を離した彼は、ロニ先輩に仕事がある、と言って食堂を後にした。
この子か……ってどういう事だったのだろう。あの人も私の事を知っているのかな。ロニ先輩に視線を移すと、彼の後ろ姿をぼーっと眺めていた。
「あ、あの」
『んえ、あ、うん。どうしたの?』
声をかけると、我に返ったようにこちらを見て、いつものにこやかな顔に戻った。いつまでもここで暇を潰している事などは、なかった。
「ニク先輩を探しているんです。ずっと探し回っているんですけど、いなくて……」
『図書館は探したの?』
突然図書館、という特定の場所を指定されたのを不思議に思いながらも探していないと答えた。もしかして、常に図書館にいるのかな。ニク先輩。
『図書館に行けば大体いるよ。なんせ本が大好きな奴だからねぇ。同じ本を、何度も読み返して何が楽しいのか……ロニには分からないけれど』
「ありがとうございます」
急いで私はメモを頼りに図書館へ向かった。研修をしなければいけない。という気持ちもあるが、何故か、ニク先輩に会いたい。という思いの方が強かった。
▽▲▽▲
図書館に駆込むと、ロニ先輩の言う通り、ニク先輩が椅子に座って本を読む姿が見えた。
「あの……ニク先輩」
呼ぼれたことに気づいた先輩は、こちらをゆっくりと振り返った。多分本を読むのを邪魔してしまったからだと思う。先輩の顔は少し不満げに見えた。でも、名前を呼んだのが私だと分かると、その不機嫌そうな表情はすっと消えた。
『おー、足は治ったんすかね?』
「はい、おかげさまで」
『それは良かったっす』
本を閉じて、元の場所に戻した先輩はこちらに歩み寄ると、すれ違う時に私の手を掴み、半ば強引にどこかへ連れていこうとする。
「あの、どこへ」
『とりあえず、治ったならはやく訓練するっすよ。イロナは他の人よりも2週間遅れているんすから』
先輩に手を引かれ、外に出ると、先輩は自身の大きな翼を広げた。口では言われなかったが、目でお前もやれ、と言われた感じがしたので、真似をして自分の翼も広げた。
ずっと寝たきりだったので、上手く動かせない。
『とりあえず、飛ぶ練習からっす。とりあえず、羽を動かしてほしいっす。あたしが羽の正しい動きを教えるっすから』
そう言われ、翼をばたつかせるように動かしてみた。すると後ろから先輩の温かい手が私の羽に触れた。
『ちょっと羽が上向きになってるっす。これじゃあ下半身だけ下向きになって上手く飛べないっすよ』
人に自分の羽を触られたことはあまりないから、ずっと触られているとくすぐったくなっきた。でも、せっかく飛び方を教えてもらってるんだ。何としてもこれは耐えなければ。
握りこぶしを作って、しばらくは持ちこたえる事が出来た。
『それじゃあ、今度はあたしが持ち上げてあげるから、空を飛ぶ感覚を掴むっす。あ、勿論手を離すことはしないから、安心するっす』
すると先輩が少し力を溜めるような仕草を見せると、目にも止まらぬ速さで空へ飛び上がった。その瞬間、強風に襲われ、後ろへひっくり返ってしまった。
先輩が私の元へ寄ってきて、私を起こすと、腕を掴んで、再び上昇した。
下を見ると、一面にオレンジ色の屋根をした家が並び立ち、高くそびえるように立つ、天使堂が見えた。こうして見ると、天使堂がどれほど高く作られているのかが理解出来る。
『そういえば、この高さが怖くないんすか? なんか平気そうな顔してるっすけど』
怖いくない。と言うのは嘘になるけれど、私の場合は怖さよりも、この世界を見渡す方が勝っているのだ。
遠くには大きな湖が広がり、鬱蒼とした森もある。目を瞑れば、鳥の鳴き声が聞こえ、新鮮な空気を思いっきり吸った。
先輩に地面に降ろされると、転んだ時に付いたのであろう砂をはらい落としてもらった。
『とりあえず、1回また空へ飛べるように羽ばたいてみるっす。危なくなったら、あたしがなんとかするっすから』
先輩は私から10歩ほど離れたところで見守っている。
飛べるのかな。さっき、翼の動かし方を教わったばかりだけれど。運動神経悪いし、ちょっと心配。
私は深呼吸して一旦落ち着くと、空へ顔を向け、飛び上がった。すると体がふわっと浮かび上がった。自分の翼で体を浮かせる事が出来た、という実感が湧いた。やった! 遂に飛べたんだ!
ほっとしたのもつかの間、猛烈な突風が私に襲いかかった。必死に羽をばたつかせるが、その抵抗も虚しく、私の翼はコントロールを失い、地面に向かっていく。
無意識に先輩に助けを求めようと、先輩を探した。が、その姿は私の目では捉える事が出来なかった。
ふと、私の頬を何かがかすめた。これは……羽?
気が付くと、先輩が私のお腹辺りに手を回して引き上げ、地面への激突を防いでもらっていた。
『んー、まあ初日から綺麗に飛べる人なんていないっすからね。でも、ちょっと練習しただけなのに体が浮かんだ事自体、すごいと思うっすよ』
これ……きちんと飛べるようになるまで何年かかるのだろうか。
先輩に抱えられながらふと、この先の事を考えてしまい、不安に襲われた。