白銀の世界
曇天と荒れ果てた戦地にしんしんと降り続ける白銀に光る結晶は寂寥を感じさせる。地上では、その地に駆り出された兵士たちが死屍累々と転がっていた。
そんなこの世の世紀末で漆黒のローブを身に纏った少女がその眼下を目に茫然と立ち尽くしていた。頭の血がすっと引くような気がして、無意識に腰を崩してしまった。辺りに広がる凄惨な光景に声が上がらず意識が朦朧としていく…
少女はそのまま倒れてしまった。
11年前、とある古びた民家の前に赤子の泣き声が響く。机の上に顔を伏して寝ていた家の主を起こすようにして…
泣き続ける赤子に呼応するかのように瞼を開ける。その主は50を迎えたサリエル・クレアという名の女性だった。
クレアはその泣き声に誘われるようにして玄関口へと向かい、ドアを開ける。
そこには年期の入った籠に白銀の髪の毛と透き通るほど白い肌を持った赤ん坊がいた。
「どこかの親が夜逃げの際に捨てていった子供かしら?」
とクレアは思った。実際にここ数ヶ月で教会や領主に返せなくなった借金から逃れるために、夜な夜な出て行く人も多かった。その多くは妻子すら養うことが困難な家族であり、病むおえず子供を親戚や孤児院に預けたり、近くの民家に置いていくケースも多かった。クレアもこの戦争が絶えない時世でそのことは十分理解していた事だし、兵役による男不足で稼ぎ手が減り、ますます貧困が続いているという事実も実感していた。
また、それはクレアに関して言えばかなり深刻な問題であった。早くに夫を亡くしてしまったクレアは村や近所から僅かながら補助を受けていたが、それでも当時、生活はかなりギリギリであった。つまり、この時期に稼ぎ手がいないということはクレアのような単身一人暮らしの住民にとって、死を意味していた
「そんな時に何故、この子は家に迷い込んできてしまったのだろうか?」
赤ん坊1人救うことすらできない自分に辟易とする。
そんな自分を知ってか知らずか、親を必死に探すようにして泣きじゃくっていた赤ん坊がその涙を晴らして、満面の笑みで笑った。
「もし、私が子供を産めていたら私の子はこんな笑顔をしていたのだろうか」後悔と淡い期待を込めていた過去の念を連想してしまった。
病弱であったことと高齢妊娠であった事が影響して、クレアは流産で子供を亡くしてしまった過去があり、彼女はその後、精神的に深い闇へと落ちていった。食事も喉を通らなくなり、クレアは悲しみに暮れるしかなかった。そんな鬱状態のクレアを献身的に支えたのが最愛の夫ジェイクであったが、不幸は続くようにして彼は戦争でその命を散らしてしまった。
生きる屍と化してしまったクレアを最も長く支えてきたのが村人とその子供達だった。元々、小さい村であったことと村人の人当たりの良さから近所との付き合いは家族同然の関係を築けていた。
そんな近所の村人は頻繁にクレアを夕食に誘ったり、昼間にはクレアを心底心配していた村の子供達が直接自宅に訪れてはいろいろ策を考えては必死に励まそうとしていた。
そして、いつしか村人全員がクレアを支え始めていた。
やがて、クレアはそんな心優しい村人に感謝を抱けるほどに余裕を持てていた。我が子をこの地に着かせることすら出来なかった自分の非力さと夫の首を絞めてでも戦地に行かせるべきでは無かったという後悔だけの日々を送っていた以前の自分では想像しきれなかっただろう。
我が子を殺してしまった罪悪感から子供を抱く資格すら無いとも思っていた。しかし、毎日自分を心配して訪ねてくれる村の子供達と彼らの無邪気な笑顔を見ているとそんな憑き物も少しずつ晴れていった。
あれからもう10年が経つ、我が子を亡くし、夫までも亡くしたクレアはもう心身ともに疲れきっていた。だからだろうか、最近昔の幸せな頃の記憶が夢に出てくる。
それは夫とお腹の中にいる子と暮らしていた頃の記憶。
ドアノブが取れそうなくらいに扉を盛大に開けた夫が大声でクレアを呼ぶ
「クレア、この子の名前を考えたんだ。俺自身凄くいい名前だと思っている。どうやら、遠い異国で有名なありがたい名前らしいぞ」
すると、夫は懐から何か文字の書かれた紙を広げる。
「言うぞ、寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の水行末風来末食う寝る処に住む処やぶら柑子のぶら柑子……」
「長い!!何なのその無駄に長い名前は!?だいたいそんな長い名前を付けたら、この子もそうだけどあなたも覚えられないでしょ?それにこの子の名前はもう考えています。」
そのネーミングセンスに辟易としたクレアは、止まらない夫のその口を閉めさせた。
「サリッサよ。この子の名前はサリッサ」
夫は暫く目が点になっていたが、やがてやれやれとした感じで妻に反論する。
「サリッサって御伽噺に出てくる魔法使いのことか?クレア、いくら魔法使いだからって子供にまで、それを押し付けるなよ。この子は将来、魔法使いじゃなくて俺と同じ剣士になるって決まってるんだから」
「なによ!あなたも考えは一緒じゃない!」
暫く二人の間に沈黙が流れ、クレアがそっと話の口火を切る。
「ううん、将来どんな職に就くかなんて、どうだっていいじゃない。あなたみたいにこの子が責任感が強くて優しい子になってくれさえすれば、きっとこの子の後ろには強い味方がついてきてくれるもの。」
「そうだな。でも、願わなくてもきっと、この子は望み通りの子に育ってくれるさ。なんせ俺たちの子なんだから…それと、クレアと同じくらい美人な子にもなると思うぞ!」
「フフフッ、あなたったら…
私達で絶対この子を守りましょうね」
「あぁ。」
身体に沁み渡る冬の風が覚醒へと導く…
いつの間にか、クレアは感慨に耽っていた。
「サリッサ…」
夫が柄にもなく、照れていた顔をしていたのをよく覚えている。
あの時の顔を思い出すと、今でも涙が止まらない時がある。
「年かな」
思秋期に見られがちな独り言を言っていると
「ママ」
天使のような可愛らしい声で母親を呼んだのは他の誰でもない目の前の赤ん坊だった。
その事にクレアは困惑するも、理性を保つ。
「ママ!?私のことを言ってるの?」自分を母親として認識する呼声。しかし、それは錯覚だと見倣す。
なぜなら、自分はもう母親になる資格はないのだから。
そんなクレアの罪悪感からくる戒めを無視するかのように赤ん坊は呼びかける。
「ママ」
その2度目の呼声に、何か母性本能を草起させるようなものを感じた。かつての罪悪感に囚われていた日々を思わせないほど、1人の母親として赤ん坊の呼びかけに、応えようとする。
しかし、思い留まってしまう。この子が求めているのは自分ではない、この子の本当の母親である。
だが、その母親はとっくにこの子を見捨てて何処かへ去ってしまった。
「ママ」
3度目の呼声が
クレアの堅く鎖された心の錠を外した。
錯覚でもいい。
この子が私を呼ぶなら私はそれに応えたい。
もう過去をいつまでも引きずらない
そして、応える。
「そうよママよ」
「ママ」
返ってきたもの二文字の母親を呼ぶ単語だったが、クレアはその言葉が自分を母親として認めてくれた唯一の証拠だと感じた。
あの日交わした夫婦の約束。
自分は果たせなかった。
この10年間、ずっとそれが一番のこころ残りだった。
自分には子供を産む資格はすでに無いのかもしれない。
でも、この子だけは見捨てたくない。もう何も成せずに終わりたくはない。
あの日の後悔が蘇る。
償いようのない罪に囚われた生活を送り、最愛の夫を何処かも分からない地で死なせてしまったこと。
ふと、赤ん坊の顔を見る。
その顔にはただの笑顔ではなく、母親に会えたことによる満足感からくる無邪気な笑顔が浮かんでいた。
「私は何も果たせずあなたは先に天国へ行ってしまったけど、私はあなたともう1度あの日の約束を果たしたい。
だから、この子と私を天国でも見ていてください。
絶対にこの子を守り抜いて見せますから…」
そんな思いが虚空へと確かに響いていく…