甘い蜜
自分以外にも自殺をしようとする人がいて安心したのだろうか。自分以外にも人生に躓いた人がいて安心したのだろうか?いや、そんなキレイなものじゃない。人の不幸は蜜の味とは、よく言ったものだ。甘い蜜に吸い付く虫のように、縄に首を掛ける寸前の男に勇気を振り絞って声を掛けた。
男は驚いた様子もなく「止めないでくれ、君みたいな偽善者が作る看板も読んだ」いきなり人を偽善者呼ばわりするなんて。それに自分は自殺を止める気は全くなかった。自分もしようとしている身だから分かる。つもりだ…。わざわざ樹海に来て自殺をしようとしている者の覚悟、生と死を天秤にかけたとき死の方へ傾く人生の儚さ。相手への礼儀は払うつもりだ。ここでいう礼儀は、そんな大したものじゃない。ただ他人の人生を知らずに、頑張って生きていれば良いことありますよと簡単に言わないことである。
「止める気はありません」この時初めて男は驚いた様子を見せた。「僕も自殺をしにここへ来たんです。証拠にあなたも僕もほとんど荷物を持っていないでしょう?」男「そうなんですか…あなたもいろいろあったんですね…」「えぇ、まぁ…」
自分は他人が人生でどのような壁にぶつかり死を選ぶのか興味があった。蜜に飢えた虫のように他人の不幸に飢えていた。
今の世の中、人の幸せが溢れすぎている。一度、パソコンを開けばTwitterやFacebookなどに幸せを見せびらかす。幸せとは、他人との比較で得られるものなのか尋ねたくなる。こんな世の中だから、他人に興味がない自分でもその男の話を聞きたくなった。
「あなたはなぜ自殺しようとしていたんですか?お互い死ぬ身ですからお話を聞かせてもらえませんか?」よっぽど飢えているのか、いつもより饒舌になった。男はしばらく悩んだ様子を見せたが、重い口を開いてくれた。男「普通の人には話せなくても、あなたみたいな人なら話せるかな…」「はい、聞かせて下さい」甘い蜜にありつけると分かると唾がでてきた。男「笑わないで聞いてくださいね。実は恋人にふられまして…」なにか期待を裏切られたような気になったが、そのまま聞いた。男「初めての彼女でしたが結婚まで考えていた人でした。彼女を幸せにしたい、苦労はさせたくないと仕事を頑張りました。彼女とマイホームに住むのが私の夢でしてね。ゆくゆくは子供とも。結婚にはお金が必要だと思いました。ある程度貯まったらプロポーズするつもりでした。でも私は、今彼女と過ごす時間の大切さに気づけず仕事に没頭してしまいました…お恥ずかしい話ですが、私は彼女が生き甲斐でしたので生き甲斐を失った私は何のために頑張っていいのか分からなくなり、仕事をクビになりました。」
なにか腑に落ちなかった。自分自身彼女がいたことはあるが、それが無くなったからといって死を考えるほどではない。本気の恋でなかったからだと言われればそうかもしれない。恋人という存在が、世間体や幸せによく見せるためのように思えて、自分は本当に人間としての心を持っているのか疑問に思った。それと同時に、幸せの対象が相手本意で自分に向いてないのが可哀想に思えた。
「お金は結構貯まってたんですよね?」男「はい…」「死ぬ前に使ってしまったんですか?」男「いいえ、それも考えて高い料理や気晴らしに使ったのですが、ご飯は喉を通らず何をしても楽しいと思えず今ここにいます…」「もったいないですよ、せめてお金が無くなってからでも」男「お金があっても幸せにはなれないんですよ、そのことが今回痛いほど分かりました。それにもったいないのはあなたもですよ?結構男前でお若いのに。」少し間をおいて男は続けた。男「あなたはなぜここに?」
しまったと思った。話を聞いたからには自分も話さなくてはいけない。他人の不幸は好きだが、自分の不幸を他人に話すのは嫌だった。今までの人生、他人に弱いところを見せずに生きてきたのだ。急に変われるはずもなく、「あまり話したくないので人間関係とだけ…」自分は卑怯者だ。蜜だけ吸っておき自分のことは話さない。死ぬべきは自分のようなもので、この男のように人間味がある人は生きるべきだと思った。「なんか話だけ聞いてしまってすみません…」男「誰にだって話したくないことはある。私も君だから話せたんだ。最後にこんな私の話を聞いてくれてありがとう。実は死ぬのが恐くてしばらくこうしていたんだ。でも君に話を聞いてもらって吹っ切れたよ。これで後腐れなくこの世とお別れができるよ。」男に迷いは無くなったようだった。男「それじゃ悪いけど一人にしてくれないかい?」「はい…お互いに天国で会えますように。」男「ありがとう」
人が死ぬというところに興味はあるが、その場から遠くへ行こうとした。天国で会ったとき、きちんと顔を合わせられるよう。
しかし、蜜を吸っていたものは他にもいたのだ。