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叱られること

作者: 菅原

 今日も叱られる。

  

 僕はそのことを知りながらも、営業先から電車で二十分かけて本社に戻る。本社に着く頃には終業時間ちょうどといったところ。しかし、今日はすぐに帰ることはできない。上司が叱る準備をして待っているからである。

 僕はミスをした。どのくらい罪が重いのかというと、なんてことはない、ちょっとした連絡漏れであり、取引相手や社外にはまったく影響のないこと。いわゆる、「社内におけるルール」を少しばかり破ってしまったのである。

 ルールにも程度がある。例えばサッカーでは、フィールドプレイヤーが手でボールを持つということが一番やってはいけないことだとする。それに比べて、サッカー経験者以外にはよく理解されていないオフサイドは、頻繁に起きることが予め想定できる極めて「軽い」ルール違反である。

 今回のミスはその「オフサイド」に匹敵するレベルである。そのためだけに、わざわざ残業してまで怒られるハメになるのである。そしてそのためだけに、上司は様々な言葉と長い時間を使って、僕にそのミスがいかに悪いかということから派生し、普段の僕の仕事態度、さらには喋り方や休日の過ごし方まで言及してくるのである。


 説教されるのは今回が初めてではない。しかし、入社した頃は叱られる時間がもうちょっと短かった気がする。内容も比較的シンプルで、「ここがダメだから次からはこうしろ」程度で終わっていた。今はというと、カップラーメンが十個作れるくらいの時間は軽く超える。入社して一年でこれだけ時間が増えたのだ。

 このことから、親密度が叱る時間に影響を与えているのではないだろうかと思った。こちらの情報が以前より多く把握されているために、僕が持つダメな要素が上司の中で連鎖反応を起こし、結果いろんな情報を踏まえた説教になる。総合的な視点で、僕を叱っているのではないだろうか。

 

 しかし、疑問も残る。根本的になぜ上司は僕を、総合的な視点を通してまで叱るのか。よく言われているのが、「叱られているうちはいい」精神である。叱られているうちは、自分にもっと良くなってもらいたいという愛があるのだ。何も言われなくなったら本当におしまい、という考え。

 これは叱る側が死んでしまったら涙なしでは語れないストーリーを生み出しそうな精神だが、この精神は本当に正しいのだろうか。僕はそうは思わない。「叱る」という行為には、少なくとも怒りだとか、ストレスを感じさせる要素が存在する。それを「叱る側」が自分の中に留めておくことが出来ない状態なのではないだろうか。わかりやすく言うと、ストレス発散である。

 もちろん、自分がミスをしたことに対する修正や改善という意義もあるが、その部分以外はストレス発散が主たる成分だと思う。やりきれない気持ちを、相手にぶつけるのだ。

 会社という組織から考えても、そのストレス発散の部分は合理性を欠く。改善内容を伝え、それを修正することだけにまとめると、とてもコンパクトな業務が行える。長ったらしい説教時間は極めて無駄だからである。


 そんなことを考えているうちに、僕は本社に着いた。オフィスの扉を開けると、腕組みをした上司が貧乏ゆすりをしながら待っていた。そして待ってましたと言わんばかりに、説教が始まった。怒鳴るタイプの上司ではない。低いトーンで、淡々と話し続けるのである。「はい」と「わかります」を旗揚げゲームかのように駆使する中で、僕はあることに気づいた。

 もしこの上司が今この瞬間に死んでしまったら、僕はどう思うだろう。厳しく指導してくれた姿勢に感謝し、涙するだろうか。恩師と呼び、自分が今度はそうなりたいと、人生規模で憧れていくのだろうか。およそ2秒ほど考えた結果、結論が出た。僕はおそらく、そんなに悲しまないだろうと。むしろ、上司が変わるという新しい可能性に胸を躍らせるのではないだろうか。

 そんなことを考えているうちに、今日の説教が終わった。内容はほとんど覚えていない。終わったあと、僕は上司に飲みに付き合えと誘われた。これはとても珍しいことである。上司は基本的に一人で行きつけの店に行くのが好きらしく、あまり人と飲みに行ったりするタイプではないのである。そんな稀な誘いではあったが、さすがに気分がのらなかったので、適当に理由をつけて帰った。


 そしてその日の夜中、上司は亡くなった。飲酒をした後に運転し、電柱に衝突するという単独事故だそうだ。僕は予想の通り、あまり悲しくなかった。

 ただひとつ、不意に落ちないのは、なぜ僕を飲みに誘ったのかということ。結果的に上司は飲酒運転をしてしまったが、例えば僕がいたらどうなっていただろう。飲酒運転を試みた上司を僕が叱っていたら、上司は今も生きていたのだろうか。また、もしかしたら上司は叱りすぎたことを反省し、僕に上司を叱らせることで、僕のストレスを少しでも発散させようとしていたのではないだろうか。あの誘いは、僕への愛だったのではないだろうか。

 

 こういうことを考えても、やはり僕から涙は出ないし、悲しくはなかった。

 

 


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