1-7 露見したその顔は
――過去、女王崩御より数日――
「取り潰し……どういう意味だッ!!」
薄汚れたフードを被る男は、予約もなしに現れた事務員に食い付いた。
「言葉通りの意味だが? 君と君が所属する魔術機関は取り潰しだ。ここも早急に立ち退いてもらう」
「何故ッ、ワタシは数々の成果を上げてきたはず」
「君の研究に落ち度はなかったよ。ただね……世情に背を向け、研究ばかりに専念し過ぎた君自身に落ち度はあったが」
フードで目元まで隠しているため表情は見えないが、男が激怒している事は明白だ。細く萎れた腕で、事務員に食らい付いている。
事務員はフード男の手を振りほどくと、上着のシワを伸ばす。暗所で研究に勤しんでいたフード男の筋力は事務員のそれにも劣っていたようで、簡単に突き飛ばされてしまったのだ。
事務員の対角線上に存在する机に腰を打ちつけ、フード男はよろけた。
「女王が殺害された事は知っているだろ?」
「ソレがどうしたとッ」
「おぃおぃ、君主の死をソレ扱いかね。国は今、女王を殺害した皇配を指導者とした反乱軍と、八大公爵が指揮を代行する正規軍の半分に分断されているというのに」
「ソレがどうしたとッ!」
「思いのほか正規軍が苦戦していてね。国費も底が見え始めている。余分な投資はしていられない、という事だ」
「ワタシの研究が余分だと言いたいのか??」
「いや、そうじゃない……。研究ばかりしてきた君に、歪曲した言い方は難し過ぎたか――」
事務員は淡々と喋っていたが、薬品の臭いが染み付き異臭を放っているフード男を嘲っているのは明白だろう。
ガチガチと奥歯を噛み締めるフード男は、ふと、指先が卓上の器具に触れている事に気付く。試薬を正確に測定する上皿天秤の一種であるが、その土台には重石が仕込まれている。
「端的に言おう。今回の反乱は女王の不貞が原因だ。そして苦戦を強いられている正規軍としては、貴族の心象を悪くする事実を洩らしたくない」
「そ、それが、ワタシにどう関係する」
「女王は不貞の相手に援助を行っていたようでね。魔術機関の設立も、その一つらしい」
「ワタシは実績が認められて、ここにいるのだ!」
「ここは女王の援助によって設立された施設だ。君の研究がどれだけ世の中に役立とうと、その事実は変わらない。事実を知った人間が抱く印象の悪さもだ」
対外的には以前から閉鎖が決まっていた事になるだろう、と事務員は遺言を言い残す。
「早急にここを立ち退――な、何をッ やめろぉッ!?」
まだ細かな連絡はあったと思われるが、器具で頭を強打された事務員は床に倒れてしまい、もう喋れなくなってしまった。
滑った血が滴る器具を、フード男は投げ捨てる。
いや、器具だけでなく、全て捨ててしまおうとフード男は決意する。魔術の研究には無駄に金が掛かる。個人では表層を漁る事はできても、真理の根源に至る事は叶わない。国の援助なしに研究は完成しないのなら、先程まで書き綴っていた高精度な数式も、難解な資料も、すべてゴミだ。
「ははハは……、ワタシの研究がゴミになってしまった。どうしてゴミになってしまったんだ??」
フード男は痩せた脚で、床上で息絶えたゴミを蹴り上げるが、ゴミなのでもう動かない。邪魔なので、後でこの研究室ごと燃やし、処分してしまうのが得策だろう。
「そうか……不貞を働くような女王が君主だったからだ。ワタシの崇高な研究が、そんな愚女に理解できるはずがない」
足取り重く、フード男は数年ぶりに出口へと向かう。行き先は誰にも分からない。
「そうだッ、全部女王が悪い! 正しき女王さえこの国にいたならば!」
声質はいたって冷静であるが、フードの内側ではギチギチと奥歯を噛む音が響き続けている。
フード男は、女王を憎む以外の思考をしていられない。
……憎悪し続けなければ、正気を失ってしまいそうで怖かった。
――現在、誕生日まで、二週間と三日――
彼女の声を聞いた瞬間、クロトは呼吸するのを忘れてしまった。
次代女王は、護衛を付けて後宮の外に逃がしたはずだった。よって、中庭で次代女王特有の挑発的な声が聞こえるはずはない。
幻聴である事を願いながら、クロトは声が聞こえた方向を凝視する。
「どうしたの、クロト? そんな幽霊か化物を見るような目で飼い主を見るなんて、不敬だわ」
中庭の中央では、少女が佇んでいた。
少女の背は低く、王国の成人年齢たる十五歳直前にしては酷く小柄だ。
服装は、玉座を仕切っていたカーテンと同色のドレスを着込んでいる。露出が極端に少なく顔も隠れているため、中身が本当に少女であるかは断言できない。
ただ、流石に次代女王を男子と言ってしまうのは、王国に住まう人間が冒せるリスクではないだろう。
「次代っ、避難していたのでは」
「暗殺者が三人現れたぐらいで私が逃げ出すはずがないでしょ。逆に言えば、少な過ぎる敵に手間取るような騎士を私は必要としていないわ」
影武者やダミーの人形であるはずがない。相手を皮肉りながらも励ませる器用な話術の持ち主は、次代女王一人で十分だった。
クロトは主従関係を一時的に忘れて次代女王の顔を睨んだが、視線は暗色のレースに阻まれてしまう。
「だからと言って、中庭に現れなくて良いでしょうにッ」
次代女王は玉座の外でも素顔の隠匿を徹底していた。後頭部も布で隠されているので、髪の毛一本さえ窺えはしない。
「今日は満月だから、日ごろの憂さ晴らしに月見を、ね?」
クロトの口からは、ぐうの音も出て来ない。
レース越しに天体観測ができるのか。
そもそも満月は昨日だ。
いくつも反論が浮かび上がるが、クロトが言葉を選んでいる間に事態は進行してしまった。
「ハ……、カ、ハァ……。ハハハッハハハッハハハッ!!」
仮面の暗殺者は、奇声を上げた時点で初動を終えていた。
呼吸にさえ激痛を伴う容態で笑い上げ、暗殺者は疾走する。アサシン特有の俊敏性は、要人を一秒でも早く確実に殺害するためにあったのだ。
「死ネッ、王国ヲ穢ス魔女!!」
最速最短で、仮面は次代女王の首を狙う。
もう呪文は唱えられず、ナイフも残っていない様子であるが、猛禽類の鉤爪のごとく構えられた指には十分な殺傷性があるだろう。
次代女王の周囲を固めていた護衛騎士が数人勇み出て、仮面の体を剣で薙ぐ。
しかし、仮面は利き腕を庇うだけで、他をすべて犠牲にして突き進む。己の命など、仮面にとってはもうどうでも良いのだ。この一瞬、次代女王を殺すためだけに生を受けた。そんな魂の歓喜を叫びながら、仮面は前に進む。
そして、とうとう、次代女王の首をへし折る魔手がレースへと到達し――。
「死ね? 私が??」
――僅か一センチの鼻先。薄いレースを鷲摑みにしてしながらも、仮面の前進はそこで終了した。
「……全く笑えない。冗談は私の騎士を倒してからにしてくれない? ねぇ、クロト」
「そう思うなら、初めから戦場にこないでください」
「嘘ぅっ! この生ぬるい、殺気に満たない憎悪しか漂ってない庭が戦場ですって? 冗談はよしてよ。笑っちゃうじゃない」
ディに騎乗していたクロトは、馬の脚力で空中に跳び上がり、放物線を描きながら中庭を滑空、着地と同時にランスで仮面の背中を貫通させていた。
体の中心に支柱で穿った。上半身を捻ったぐらいでは手先の位置は変化しない。
仮面は、首に鎖を巻かれるよりも痛々しく、体の動きを封じられてしまった。たとえ動けたとしても、その瞬間にクロトが首を断つだろうが。
とはいえ、次代女王の豪胆さには、戦が生業の騎士でさえ呆れてしまっていた。クロトや護衛騎士の意思を無視し、中庭に戻って来たのは次代女王の純粋な我侭でしかない。
そして、無駄に首を素手で捻切られそうになったというのに、次代女王は一歩も交代せず、酷く堂々としていた。己を殺そうと足掻いた暗殺者を、無感情に見下している。
「あーあ。退屈」
「死に掛けておいて仰る言葉が、それですか」
「え? 私死に掛けたの?? 護衛騎士ってそんなに弱かったの?」
感情が欠如している人間や数度死地を味わった人間ならば、似た状況を作る事は可能だろう。が、次代女王のそれは本質が異なる。
次代女王は、本気で、自分が仮面に殺されるはずがないと信じているのだ。だから、一センチのきわどさで死が迫っても怖がらない。
小さな体に満ちる自信の拠り所が、暗殺者を過小評価しているからなのか。護衛騎士を適正評価しているからなのか。
あるいは、全く別種の何かなのか。クロトには判別できそうにない。
「……おッ……ボっ……おのれぇぇェ」
暗殺者は、最後の力を使い、首を折ろうと指に力を込める。虚しい行動で、指は次代女王に届かず、顔の前にあるレースのみが握り潰されていく。
「ま、魔女ぉォっ……」
ランスに貫かれた衝撃で仮面は外れたのだろう。塞ぐ物がなくなった初老の男の口からは、次代女王に対する呪詛がこぼれ続けた。
レースを握ったまま、細い手腕が垂れていく。
仮面を失った暗殺者は、体内から込み上げてきた悪寒に怨嗟で喉を詰まらせる。直後、魂を吐き出すかのように吐血し、絶命した。
「人の顔に血を吐いて、汚いわねぇ――」
目前で吐血されたのだから、当然、次代女王の素顔にも血が降り注いでいる。
「――不味ぃ」
唇から口内へと、少し血が垂れ込んでしまったのだろう。次代女王は不味いと感想を述べている割には、微笑んでしまっている。口元は歪み、目元も歪む。
「じ……っ、次代!」
「どうしたのクロト、珍しく動揺しちゃって?」
「その……素顔が……露見しています」
クロトはディから下馬しながら答えた。通常よりも手間取ったのは言うまでもない。
それでも、中庭に集結したクロトの部下達よりは数段マシであっただろう。彼等彼女等は、口をパクパク開閉させながら、意味もなく直立し続けている。
「レースを取られたのだから、見えるのは当たり前よ。……で、君主の顔を初めて拝めた感想は? 泣いて喜ぶのに準備が必要なら待ってあげるけど」
王族の血筋の者は代々、ブロンドの髪と白磁の肌、碧い瞳を受け継ぐと聞く。
しかし、ほぼ満月の光の中で、次代女王は艶やかなワインレッドの髪をいじっている。
血が滴る顔は、白色よりも褐色寄りである。
眼も碧眼ではなく、より深遠な色合いである紫色だ。
つまり、どの特徴も王族には適合しない。まるで、魔界で咲き乱れる毒花のように美しい特徴だらけだ。
「……………次代は、お父様似でありますか?」
そして何より、次代女王には、人間には在るはずのない特徴、一対の角を可愛らしく生やしてしまっているのだ。
枯れた声で訊ねたクロトへと、次代女王は微笑みかける。
「さぁ? 育児放棄して発掘の旅に出かけられたから、覚えてはいないけど。おじ様曰く顔立ちは母にそっくりらしいわ」
次代女王はどうでもよさそうに、己の特徴について語った。
前代の女王の顔を知らないクロトとしては、ただ頷く事しかできない。
「そう……です、か」
代々の女王から掛け離れた容姿を持つ次代女王は謎な存在であるが、クロトは一つだけ直感していた。
次代女王の顔立ちは、角がなかったとしても人間離れしてしまっており、まるで一国の女王のように美しい、と。
「良い機会かしらね。他の騎士も全員集まったようだし」
異形の次代女王は、中庭に集合した護衛騎士を睥睨する。
月明かりがスポットライトのように庭の中央を照らしているが、次代女王はそこから一歩横の場所で、名前を語る。
「私の名はガーネット・クリスタロン・エンペリア。一応、次の女王だから、その事をゆめゆめ忘れないように」
次代女王、ガーネットは少女でありながら酷く妖艶だった。ガーネットの美は、人を惑わす猛毒に近い。
けれども、情けない事に、クロトは全く変化しない心に戸惑うのが精一杯で、ガーネットに見惚れる余裕など持ち合わせていなかった。